傷だらけの要塞 2
「わが県にウィルスを入れることはない!」
岡賀波県の羽賀井安吾知事はそう高らかにのたまい、一週間後に迫った連休中の岡賀波県要塞化宣言を発した。そして知事は吠えた。
「世界は動く!わが県を真似てください。いえ、そうするしかありません。全都道府県が同じようにすれば、ウィルスなど恐るるに足りません!私の企画は完璧です!」
その翌日、要塞化は先の話だというのに、効果は現れた。一部の県民が、県外ナンバーの車に嫌がらせを始めたのだ。投石をしてみたり、硬貨でこすってみたり。それだけなら、散発的な事象として片付いたかも知れない。だが、マスメディアは、心無いやり口を糾弾してしまった。TVで手口を知った田舎の皆さんは、早速よき先人を見習い始めたのだ。
「よそもん狩りじゃー!」
夜にTVを見て盛り上がったのは、地元を愛してやまない二十八歳の候租蔦朗であった。候租は、これまでの人生で県を出たことが数えるほどしかない。高校を出て就職するまでは、修学旅行だけが例外であった。祖父母も県内に住んでいるので、帰省するのもすぐ近所である。就職先の工場も市内なので、研修あたりで県外にでも呼ばれない限り、半径数キロの範囲から出ることがほとんどない。そんな候租は、暇な時に自主検問をすることを思い立った。よそものを追い出して地元を守る。素朴な正義が、候租を奮い立たせていた。だが、翌日は日勤なので、候租はとりあえず寝た。
候租が日勤から帰ってきた夜、知事の記者会見が、またも報道された。知事は、泣いていた。
「車をなんだと思ってるんですか!車が泣いていますよ。車を傷つけ足っていいことはないんです。やめてください!!」
泣き喚く知事を見て、単純な候租は考えを改めた。そういうことをしないために、県がやってくれるのだと、候租は理解したのだ。
ただ、知事の涙には、別の理由があった。バカ大学に入って以来いつも自家用車で移動し、今も時々運転手なしで移動する知事は、車が大好きである。大好きなものが傷つけられ、知事の心は同じように傷ついていたのだ。そこにあるのは、その程度の、ただの感情のお話である。しかし、頭のつくりが知事と大して変わらない候租のような県民には、響きまくってしまったようだ。
それでも、他県人への冷たい視線が変わったわけではない。それは候租に限らず、同程度の生き物すべてにとって同様であった。だから、他県ナンバーの車は、隙あらば睨み付けられていた。
その頃、県の対策室の遊軍部隊は、営業を自粛するよう強制しに街を回っていた。二人一組で車に乗り、紙切れを渡す。相手は何の権限もないバイトだったりもする。生返事が返ってきても、話を伝えたことにはなる。そんな役人らしい仕事は、それなりに順調に進んでいた。もっとも、昼飯時の忙しい店に押しかければ、怒鳴りつけられたりもしてはいた。そんなところも役人らしいといったところか。とはいえ、現在のノルマは、達成されつつあった。
県庁の空き部屋に設けられた仮コールセンターだけは、強烈に忙しかった。どうでもいい質問が殺到していたのだ。担当外の窓口を案内することが、その実質的な業務であった。しかも、ほぼ例外なく電話が繋がらないと罵られるので、その分の時間が繋がらなさに拍車をかけていた。室長は、その拡張の必要性を考え、上の承諾を得た。
派遣会社は、様々な手配を片付けていた。受託者として送るのは毎日96人を6箇所に2回なので、一回分は小型のバスで足りる計算になる。しかし、大都市の案件のように一箇所に集めてからバスに乗せて終わりとは行かないので、バスの運行計画にはそれなりに手間取った。まとまった数の組には最後まで大型バスが使われる一方、一部はハイエース級も使うことになり、県内の移動のために前夜に集合する組も生じた。二次請けは、近隣の大都市から人を集め、中間集合場所へ継走する。こちらは県庁所在地の駅前等に人足をまとめて届ける形とされた。ただし、一つの現場へは、直行できる。ほとんどの人足が途中で起こされるので睡眠時間が削られることは、伏せられていた。
そんなこんなで、検問の日が来た。
早速、一つの失策が発見された。SAやPAは、上下線で完全に分かたれているのが常である。だのに、まとめて扱うことが可能だと考えられていたのだ。それ故、監督者がいない現場が生じることになった。県は、手空きの職員を急遽送り込まざるを得なかった。その間、日雇い組は待ちぼうけである。不幸中の幸いは、室長が泊り込みで出勤していて速やかな判断が可能なことのみであった。
ここからは、ひとまず、県の東から二番目のSAの様子を見ることにしよう。
公務員組は、自家用車に乗り合わせて三々五々やってくる。その最中にバスが着き、日雇い軍団が現れる。寝癖もあらわで、服は安そうで、すえた匂いがする。最低賃金で激務を志す層なのだから、そんなものだろう。しかも、マスクを誰もしていない。寝苦しさに負けたのだろう。それは仕方がないのかも知れない。あまつさえ、事前の説明は十分にできていない。当日も、屋外で紙を配って数分の指示を与えるのみである。
午前6時、それでも検問が始まった。しかし、それ以前から、車の影はなかった。検問関係者のものを例外としては、だが。無理もない。派手に宣伝された検問は、避けられる。県内へ行くにしても、SAやPAに入らなければ検問はない。そもそも検問は高速道路でやると宣言されていたので、県への出入りに一般道を通る車もあったようだ。その混雑は、自粛が完璧な場合に比して相当に高い度合いだったと後でわかった。
それでも、しばらくしてから、1台の県外ナンバーの乗用車が現れ、停まった。その窓は、近付く職員の前で開いた。あたかも検問を待っていたかのように。そう、待っていたのだ。乗っていたのは、ユーチューバーである。手本を見せようと公務員軍団が前に出て、その他は周りを取り囲んでいた。比較的高齢の者が前にいたので、それがユーチューバーだとは気付けなかった。それが、いけなかった。検問の動画は午前中にアップされ、広く知られることになる。
「はい、おはようございます。検問です。」
丁寧に威圧する昔ながらのお役人さまの口調が、最初に聞かれた。
「皆さんね、うちの県内に行くの?」
「うちの県ってどこですか?」
「岡賀波県に決まってるでしょ。どうなの?」
役人は、そこが何県かなどあまり意識されていないことに気付いていない。それ故、わかりきったことを知らない相手に苛立ちを見せてしまった。そして、だ。
「鷲津川コロナリゾートに行くんですが、県内ですか?」
「ああ、そう。県内だね。じゃ、体温測って。」
「え?そんな義務あるんですか?」
「義務?私らがやってくれって言ってるんだ、そんな難しいこと言わないで、ほら。」
「義務があるんですかって訊いてるんですよ。」
「いいからさっさと測って。」
「どういう権限でそう言ってるんですか?」
「これはね、県外の人の検問なの。」
会話は噛み合わない。しかし役人はどこまでも押す。その程度で通ってきた公務員の、市町村よりは強い県の、下だけを見てきたノンキャリの、自然な振る舞いである。それが衆目に晒されて検証されることなど、予定されていない。だから、自然とこんな調子になるのだ。
「これ友達の車なんですよ。ぼくらみんな岡賀波県民なんです。」
「そうなの?じゃ、いいよ。」
「うそです。」
困ったことに、担当者は、遊ばれていることに気付いていない。しかも、たまたま格上がいないので、誰も止められない。意味のわからない押し問答は数分続いた。そこでさすがに、大将格として送り込まれた上級職が駆け寄ってきた。
「これは義務じゃないから、嫌ならいいよ。ただ、県でウィルスを広められると困るの。いい?」
上級は、さすがに事態を察していた。ユーチューバーたちも、返答に困っている。
「県でどこにも寄らないで、さっさと帰ってくれるんなら、それでいいから。」
「はーい。」
窓は閉まり、エンジン音がした。それでも派遣組の一部は車の前にいたので、袖を引っ張られた。車は、去った。
三番目の車は、派遣組が相手をすることになった。派遣会社の担当者が指示をすべきところであるものの、そのあたりはなあなあで済まされる。白髪混じりと角刈りとスロット打ち風の三人が、車に駆け寄った。そして、白髪が声を出した。
「えーすみません、県の検問です。」
車の窓は開かない。乗員は、黙っている。どうやら、不審者に囲まれたとでも思っているかのようだ。乗っているのは一人である。その会社員風の白シャツの男は、電話をかけ始めた。画面を見ながら三つ四つと押している。これは110番だろう。検問を知らなかった男は、警察を呼んでしまったのだ。警察は事態を把握している。しかもここは県内である。釈然としない雰囲気で電話を切った男は、窓を開けずに声を出した。
「証拠はあるのか?」
ある程度社会経験があれば、それなりの答え様があるだろう。だが派遣組には、その知恵がなかった。だから、誰も声を発せない。見かねた大将が駆け寄って、身分証を見せた。
「岡賀波県です。」
「警察じゃないの?」
「違います。」
これで大丈夫だろうと、大将は手近な角刈りの肩を押した。角刈りは、自分が仕事をするよう促されたことを理解し、口を開いた。
「県外の車を検問してるんスよ。体温測ってもらえますか?」
運転手は、その口調に怒りを覚えたようだ。すぐさまエンジンをふかし、車ごと去ってしまった。
そんなこんなで、なんとか各チームが一度は仕事をした。そこで、この現場の大将は、まず派遣組にテント小屋での待機を命じた。期限は次の車が現れるまでである。派遣された連中は、日頃から日雇いで働いているようだ。上級職の大将は、見慣れない生き物を観察してみたいとも考えたのである。その中には、顔見知りがいたようで、会話が始まっていた。
「ケンさん、しかしアレっすよねえ。ここはいいけど、はしっこ、どうなんでしょ。」
「ああ。出てく車しかいないな。」
「すべて」の場所にこだわった県は、県から出て行く車しかない箇所でも検問をすることにしていた。これには、意味がない。この点にやっと気付いたのは、この会話を聞いた大将である。その報告を受けた本部は、二日目以降をどうするか、考え直すことになった。
おおよそ昼飯時には、本部宛に様々な報告が集まった。それらは、計画の練り直しを迫るものだった。とりあえず、出る車への検問を辞めることと、マニュアルの整備による教育の徹底が決まった。後者は例文を配れば済む。問題は、人員配置案の作り直しであった。今のところは、どこも暇である。しかし、時間帯の違いでどうなるかはまだ確定していない。また、明日以降の人出を予測し尽くすことはできない。だから、どうしたものかは、まだ手探りである。それでも、バスの都合を考えれば、あまりゆっくりしてはいられない。
そして現場では、新たな大問題が浮上していた。県の休業要請の対象には、SA・PAの売店と食堂も含まれていた。そのあたりを締めるのも役所筋である。県の要請には、従っていた。だから、食事ができないのだ。朝早くに店が開いていないのは仕方ないと思っていたら、昼になっても開かない。どうしたものかと考えるしかなかったのは、優秀な公務員たちも末端の派遣と異ならない。大人数が相手とあって、外のコンビニあたりまで歩ける場所とて困難を抱えることに違いはない。いわんや、PAしかない山中では、自販機の缶飲料だけが命綱となる。この日は、公務員組が弁当等を調達することになった。隣のICで高速を降り、適当に買い集めるという、土地勘がないと難しい業務が増えた。稼動できる検問チームは減るが、致し方ないと室長が判断した。
午後になると、ラジオのニュース等が現場にも情報をもたらすようになった。岡賀波県の検問は、生々しい話題の一つだった。テント小屋にいる待機組と派遣会社の担当者と大将は、意外な事態を聞いた。
「それでも観光地にはけっこうな人が訪れているようです。駐車場に入れない車が、並んでいます。」
作戦は、県内の移動を無視していた。だから、駐車場対策は存在しない。知事が自分のために反対することを室長が見抜いていたので、提案すらされなかったのだ。その成果が、これである。
「また、岡賀波駅も、賑わっているようです。感染が広がらなければいいんですが…」
駅は、検問の対象ではない。なぜか。知事の脳内に鉄道が存在しないからである。室長が提案から外し、知事も追加を求めなかったのは、そういうことである。そのお陰で、自家用車を避けた観光客が通常より多めになったということのようである。
検問がただ避けられたことが明らかになりつつある頃、派遣組の第二チームが、ほうほうの体でテントに駆け込んできた。なんとなくリーダー格の三十代くらいの男が、大将に伝われとばかりに言う。
「いやあ、ひどかったな。」
顔の塗りが薄めのどうやら女子大生風と何風とも言い難い澱んだ雰囲気の多分二十代が、うなづいている。
「何かありましたか?」
大将は、問わざるを得なかった。女子大生風が応えた。
「マスクしないで咳しまくってたんです。」
「伝染された。あれは伝染された。」
澱んだ二十代も、たどたどしい日本語で言う。ここを、リーダー格が続けてなんとか補う。
「マスクなしの人が咳をこっちに向けてきましてね。ああいうのはいやだなあ。」
澱んだ二十代は、目をこすっている。唾液でもかかったのだろうか。そういうばこいつはマスクをしていても鼻が丸出しだ。女子大生風も、たっぷり隙間を作っている。大将は気付いていたが、そこに突っ込むのは後回しであった。目も保護するよう何らかの道具を準備すべく上申せねばならなかったからである。
「まあ休んでください。ちょっと飲物でも買ってきますから。」
大将はそう言い、対策室に電話をかけるために外へ出た。一人で車に乗るなら、車内ではマスクなど無用である。こんなことにも、誰も気付いていなかったのだ。
穴だらけの要塞は、その馬脚を晒しつつあった。否、とうとう晒された。夜に入った頃、一つのウェブサイトがネットの話題となっていたのだ。それは、岡賀波県攻略ガイドと題されていた。検問を無視した県域への入り方、他県ナンバー攻撃を避けるための鉄道での行き方、そして開いている店や施設の紹介、さらには関連情報へのリンクまでもがまとまっていた。勿論、その中には、検問の動画も含まれている。
室長は、夜の対策室でそんな画面を見ていた。人員配置の変更やコールセンターと経由の情報等、あまりに多くの情報をやりとりしてきた室長にとって、それはむしろ県がまとめた情報であるかのように見えていた。
「カッコ悪いねぇ…ま、こんなもんか。」
湯気の立たない冷め切った珈琲を片手に、室長は吐き捨てた。そして、幾つかの情報に気付いていた。
つづく
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