誰彼、完全犯罪は突然に
「じゃ、これから僕、死ぬから」
選んだ場所は踏切だった。遮断機の向こう側には、不安げな顔の橘が立っている。僕は線路の上に立ち、深呼吸をする。
放課後の時間帯だった。
夕陽が辺り一面を照らし、血のような真紅に染め上げている。そうあればいいのに、とふと思う。実際のこの世界には、血なんて一滴も流れない。流されるのはいつも、見えない血だけだ。
「あの、先輩、やめませんか? いくら生き返れるからって、そんな自傷行為みたいなこと、しないでください……。もうオレ、見てられません」
「うん。ごめんね」
僕は素直に謝る。
「でもさ。こんな僕に、生きてる意味なんてあるのかな。母には死なれて、当の殺人犯には、あんなこと言われてさ。本当にね、自分が情けないんだよ。どう頑張ったって、主役には、幸せにはなれないんだって、知っているのに、どうしてまだ生きていなくちゃいけないのかな?」
カン、カン、カン……。
どこか物悲しい警報音が鳴り始める。ゆっくりと遮断機が下に降りる。
「沙上、先輩……」
「今までありがとうね、橘」
電車が近づいてくる。迫る風圧。あと100メートル、50メートル、10メートル。
1メートル。
僕は目を閉じ、手を、前に伸ばす。
そして。
見えないはずの手を、掴む。
「捕まえた。君が犯人だ」
「沙上くん、こんなとこに立ってたら、危ないでしょ?」
目を開けた時、そこにいたのは安藤ゆりえだった。しかしいつもの笑顔はない。真顔である。時は止まっているらしく、電車はすぐそこに迫った状態で静止している。
「どうしていつもこんなことをするの? どうしていつも邪魔をするの? どうして……気づいたの?」
「うるさいなぁ。いつも安藤は正論と感情でものを言う。そこが嫌いなんだ。いや、安藤じゃない。君は、この世界の作者そのものだ」
「沙上くんともあろう人が、知らないの? 小説のキャラクターはみんな、作者の分身なんだよ。そういう意味では、私も君も、同じく作者ってこと」
「本当にそうかな?」
僕が笑うと、安藤は顔をさらに強張らせた。
「どういうこと?」
「昨日のことで気づいたんだ。この世界は、二重構造なんだって。基本となる他の誰かの世界の上に、君が勝手にベールをかけた。本来自然に動くはずの世界に対して、君は自分にとって都合が良くなるよう、絶えず修正をかけ続けている。そのせいで、この世界は歪だらけになった。つまり本来ここは……『殺人ミステリーの世界』だったってこと」
「ふーん。じゃあ、私は誰だっていうの?」
「誰でもない」
僕は静かに告げる。
「他人の物語を勝手に使って、当たり障りなく改変して、人に読ませているだけの人間。僕らにも、世界にも、本来全く関係のない第三者。それが君だ」
ゆりえは虚ろな笑い声を上げた。三つ編みが、冷たい風に揺れる。
「そんなの、全部沙上くんの妄想でしょ? 根拠なんて何もないよね。とうとう完全におかしくなっちゃったのかな?」
「作者が世界を改変してることは、はじめから薄々わかってた。でもそれがなぜなのかが、最後まで謎だった。まず考えたのは、何らかの理由で規制がかかって、殺人表現を含むミステリーが出版禁止になってしまった、みたいなケース。作者もできることなら世界を変えたくなかったんじゃないか、ってね。でもそれだと、江戸川乱歩の名前を主人公が普通に口にしているのはおかしいよね」
単刀直入に言おう。
僕はポケットからペーパーナイフを出し、安藤に突きつけた。
「君が殺したんだ。この世界の本当の作者を、この世界の外側で」
「ははっ……あはははははは!」
安藤はけたたましい笑い声を上げた。
「そうよ。本当に、忌々しいひとだった。この世界を作った作家は、倫理観ゼロで、家族にも嫌われて、友達だって一人もいなかった。それなのに、あいつの作り出す世界だけはいつも多くの人に愛されてた。『時々私の手にも負えないくらい、キャラが勝手に動き出すんです』って言ってるドヤ顔がムカついた。でも先輩作家の私が『友達になりましょう』って言った時、あいつなんて返したと思う? 『私はあなたとは友達になれないと思います』だって。だから、殺してやったの」
遮断機の向こうで、橘が嫌悪の表情で呟く。
「そんな理由で……」
安藤は平気そうな顔で続けた。
「沙上くん、あなたはあの人に生き写しだよ。まさか架空のキャラがここまで文字通り『生きる』、なんて思わなかったけど……まあこうなった以上、この世界はボツにする。適当に幕を引いて、これでおしまい。世界も君も、何もかも消してやる」
彼女は片腕を空高く上げた。電車がわずかに動き出す気配がよぎる。僕はナイフを唇に当てて、ニッコリと笑ってみせた。
「それでいいの? せっかくスランプな君のために、贈り物を用意したのにな」
安藤の顔がまたしても硬直した。瞳には恐れの色が浮かぶ。
「どうしてスランプだって知ってるの」
「ただの推論さ。でも自分で一から作ったわけでもない作品で人を楽しませようなんて、土台無理だよ。ボロが出るもんだ。トリックだって底をつくし、展開も単調になる。どんどん読者に飽きられる。でも打ち切りなんてみっともない。正直焦ってるんだろ? そんな現状を打破するための、ささやかなご提案があるんだけどな」
「そ……そんなもの、あるわけない!」
「いやー、あるんだな、これが。アレを見せてあげて、橘」
橘はスマホを見せた。画面に映し出されたカメラロールを見て、安藤は悲鳴をあげた。
「い、いやっ! 何なの、それは!」
「決まってるだろ。死体だよ。この世界には欠かせない、トリックによって死んだ人の体」
「嘘よ! この世界じゃそれは不可能なはず……」
「協力してもらったのさ。君が近々消す予定だった
橘は頷き、写真を一つ一つタップして拡大してみせた。
密室で倒れた男。
首なしの老人。
毒で死んだ美女。
凶器が見当たらない殺人現場。
死因の見当たらない美しい死体。
「まだまだ僕のトリックはいっぱいあるよ。人が死なないって売りを捨ててもお釣りがくるはずだ。そして現作者である君は、それをいくらでも使っていい。なにせ君は神様なんだからね」
「一体何が……目的なの」
「僕の望みは知ってるでしょ? 君はただ、なってくれればいいだけ」
血の気が引いた安藤の頬に、後ろからペーパーナイフを突きつけて、僕は耳元に囁いた。
「僕らの共犯者に、ね」
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