第4話 秘密の恋人

 よく手入れされた緑の塀を見上げて、リヴィは溜息をついた。

 横顔が翳り始めた日差しで朱色に染められている。夕刊売りの少年が、空になった荷袋を抱えて引き上げる頃。

 若草色のドレスに、長い亜麻色の髪が揺れている。湖の湖面を思わせる、やや蒼が強い緑色の瞳は、やや潤んで充血している。

 両手でぎゅっと握りこんだのは、彼女の目の前にある背の高い門の鍵だ。

 花の手入れの為に庭師と彼女は庭園の自由な出入りを許されている。

 花の手入れを名目に庭を入ってゆくと、時間を合わせて屋敷に来ているあの人が、すぐに気付いて、

 リヴィ。

 少し掠れた、優しい優しい声で名を呼んでくれるのだ。

 だが、その幸せな記憶は、一週間前のものが最後。

 彼の静止の声も聞かずに庭から飛び出してから、不幸な知らせを聞くまで、一目たりとて会う事もなかった。

 何度も店に足を運んでくれた彼に会わないように避けていたのは自分だ。

「タリス……」

「……入らないのですか?」

「あ!」

 不意に正面からかけられた言葉に驚くと、小さな紳士が門の向こう、穏やかに微笑んだ。

 まだ幼い顔立ちが、そうやって微笑むとひどく大人びて見える。

 ライアの店で会った時と同じ風体に、大人用の黒いステッキを脇に挟んでいる。

「調律師さん……」

「覚えていただいていたようで光栄ですよ、レディ。中に入らないのですか? 一人で立ちすくんでいる姿も可憐だけれど」

 きっと、美しい庭園の中にたつ姿の方がより素晴らしいでしょうとおどけた様子で付け足す彼に、リヴィは可憐と言われたその表情に驚きの後、悲壮感を貼り付けて、呻いた。

「どうして、庭園に……。あの……やはり、事件の調査に、呼ばれたの、ですか」

 強張った表情と、震えた声に。

 キストが首を振った。

「こちらで、待ち合わせをしておりまして」

 そう囁く声は宥めるように優しい。

 黒いコートの胸元から取り出したのは、リダースンの紋章が入った薄桃色の封書だ。

 チラリと見えた署名は、リダースン卿のものか。

「もっとも、リダースン卿はお越しになれないようですが、ね」

「……キストさん、私の話を聞いて下さい」

 助けて下さいと訴える声は、涙で潤んでいた。 

  


***

 アラフィズ通りの屋敷は、惨劇の跡が生々しく残っていた。

 玄関から、西の廊下を通って、最奥の部屋まで。

 それは、アルフがたどった軌跡だ。

 敷かれた絨毯は元々赤だったものが、血を含んでところどころ黒ずんでいた。

 大理石の壁も同じ色が散っていた。プリミアスの屋敷と違って絵が飾ってなかったのがせめてもの救いだろう。


「……そろそろ、アルドが問い詰められてる頃かもなぁ……」

 呟きながら、軍用馬から飛び降りたのは、エディン。

 一人プリミアス通りの屋敷に戻ってきたところだ。

 裏口に警邏兵から拝借してきた馬をつなぎ、気配を消して向かうのは庭園の方向。

 あたりは沈みかけた日でオレンジ色に染まっていた。

 美しい薔薇のアーチが見えた時、エディンは目を細め、一度歩みを止める。

 薔薇に囲まれた阿舎のベンチに座る人影が見えた。

 庭園への入り口は、三つ。

 一つめは、警邏兵の立つ正面の門を通って。

 二つめは、エディンが今入ってきた、裏門。

 それから三つめは、限られた人物のみが持つ鍵を使って、通りから直接庭園に通じる門。

 警邏兵に見咎められずにここにいるのなら、それは重要な意味を持つ。

 建物の影に身を潜め、声を拾おうとさらに接近した時、耳に飛び込んだのは悲痛なほどに震えた少女の声だった。

「教えて下さい、その……人を呪うこと、は、成就されてしまうものなのですか」

「落ち着いて下さい。貴女の言葉の頭には、宝石によって、という言葉がつくと考えても間違いはありませんね?」

 幼い少年の声が、大人びた口調で少女を宥めた。

 はい、と頷く少女の髪の色は亜麻色。若草色のドレスの肩が震えている。

 エディンは思わず息を呑んだ。

 二人の声に、聞き覚えがあった。

「ミス・リヴィ。落ち着いて、順序だててお話し下さい」

「はい、キストさん」

 やはりだ。

 ティールームで会った、あの小さな宝石調律師を名乗る少年。

 相手は、タリスの恋人、リヴィだ。

「私、ずっと身につけている石があるんです。あの、これ、なんですけれど」

 少女は震える手を首に回して、小さな紅い石が輝く首飾りを胸元から引きずり出した。

 それを、震える手で少年の純白の手袋に包まれた掌に置く。

 キストは顔を近づけてじっくりと検分するようだ。それから淡く微笑んで、

「小さいけれど、きれいなガーネットですね」

「はい。その、……大切な人から、貰いました。貰った日から、ほとんど外したことはありませんでした。……あの日も」

「あの日?」

 声をつまらせたリヴィの背を、少年の手が撫でる。

「あの日、屋敷の女中さんから、彼に縁談が持ち上がっているって聞きました。わ、私なんかが太刀打ちできない、素敵な方と……! その事で、喧嘩をしたんです。いいえ、違うわ、一方的に取り乱して、逃げ出しただけ」

 自分は、貴族でも金持ちですらない。

 持ち上がった縁談の相手は、子爵のご令嬢だという。

 彼の想いを疑うわけではない。けれど、想いだけではどうしようもないことが世の中にはある、ということを彼女は自覚していた。

 優しい彼は私と縁談の間で苦しむだろう。ならば私から別れを、と切り出そうとしたのに、縁談の話を話題に出したところで、気持ちが溢れてどうしようもなかった。

 引き止める声を振り切って、門を飛び出しながら、あの時。

「心の底から思ったんです……。私からあの人を奪う身分や家柄なんて、なければいいのに、って。私、正直に告白します。あの日、本当に強く思ってしまったんです。そしたら、……そ、したら、その二日後に」

「リダースン卿宅が襲われた。貴女の恋人は、タリス・リダースン氏。間違いないですか?」

「ああ……」

 両手に顔を埋め、彼女は声を押し殺して泣き始めてしまう。

 キストはゆっくりと背中を撫でながら、さらに言葉を重ねる。

「ライア嬢から、私の仕事を聞いたのですね。人の負の力を取り込んで、宝石が不幸をもたらすことがある、と。自分が強く思った所為で、リダースン卿宅が襲撃されたのではないかと考えた。そうでしょう?」

「はい……! 私、アルフさんのこともよく存じ上げています。絶対、リダースン卿に恨みを持つような方じゃないんです! ひょっとしたら、私の穢れた思いを吸った石が、彼をそうさせたんじゃないかって」

 そうじゃないと、タリスだけが無傷で助かるなんて、考えられない。

 彼一人を手に入れたいと思ってしまった、浅ましい自分の思いが石を通じて具現したのでなければ。

 事件を聞いてすぐそう思った。

 だが怖くて、どうしたらよいかわからなくて、ずっと悩み続けてきたのだ。

「……勇気を持って、お話しくださってありがとう。そのお話を聞かせていただけたのは幸いでしたよ、ミス・リヴィ。……なるほどこの石は調律が必要のようだ」

 キストは告げながら、石をかざしてすかし見る様子だ。

 エディンは石よりもむしろ、得体の知れない光を宿すその双眸に惹き付けられた。目を細めて石を検分する様はとても少年には見えない。

「ああ、やっぱり……」

 まるで剣を胸に突きつけられたように震え、リヴィがぎゅっと目をきつく閉じる。

 だが、石から視線を転じ、判決を待つ罪人のように強張る彼女を見るキストの目は、どこか優しく。

「持ち主の悲しみを吸って、少し曇っているようだから。少し落ち着かせてやれば、また元通り、美しく輝きますよ」

「え」

「最も、持ち主が悲しみ続けていてはまた曇ってしまいますけどね」

「あの、じゃあ」

「大丈夫です。この石は、殺意を招くような負の力に傾いてはいませんよ」

「ああ……!」

 よかった、と呟く声は震えている。

「でも……では、本当にアルフさんの意志で起きた事件、なのでしょうか……」

「それは……、近いうちに明らかになるでしょう。それよりも、貴女はタリス氏を見舞うべきだと思いますよ」

 愛しい人が寄り添っていれば、目覚めはきっと早いはず、とおどけた口調のキストに、リヴィは困惑顔でゆるく首を振る。

「ですが……先ほどもお話しましたけど、私、一方的に彼を責めて、逃げ出したんです。ひょっとしたら、もう、」

 嫌われているかもしれないわ、という声は震えて途切れる。

 だが、その心配を少年の声は一掃した。

「いいえ。ここしばらく、彼はひどく意気消沈していたと聞いています。私も間接的にしか存じ上げませんが……そんな簡単に、想いを精算できる方ではないと思いますよ」

「……あり、がとうございます。あの、私、行ってみます…」

 その言葉に励まされたのか、ようやくリヴィの顔に柔らかな笑みが戻る。

「それがいいでしょう。この石はしばらく預かっておきます。調律してお返ししますよ」

「ありがとうございます……!」

 彼女は何度もキストに頭を下げながら、庭園から姿を消した。

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