第48話 アクシデント

 買い物を終え、また自宅。

 夕飯の準備で俺に出来ることはないので、流石に出しゃばらずに部屋で待っていた。

 すると、エプロン姿のまま菘が俺の部屋に顔を出しに来た。


「ん、夕飯できたのか?」

「今、グラタンをオーブンに入れてるところだからもうちょっとね」


 言いながら俺の座るベッドに菘も腰かけた。

 グラタンが焼き上がるまで暇をつぶしにきたということだろう。

 菘は俺の肩に頭を預け、そのまま体重をかけてくる。サラリとした髪先が腕をなぞる。


「んっ、りょう」


 しっとりとした感触が唇に触れる。菘が俺の首に腕を回してキスをしていた。

 すぐに舌が入ってくる。ぬとぬとと、内側を擦り上げられた。

 キスにもお互い慣れてきたもので、途中で呼吸を挟む必要がなくなっていた。

 そのせいで、リミットなく延々と続けてしまう。頭を焦がす快感に、ただひたすらに溺れる。

 それでも一応、終わりは来るもので。


「……グラタンできたんじゃ?」


 二階にある部屋にまで、チーズの焼けるいい香りがしていた。

 グラタンが何分間加熱するものかは知らないけど、少なくとも十分は乳繰り合っていたことになる。

 菘からそっと口を離す。……そんな名残惜しそうな顔、しないでほしい。


「時間で指定してるから焦げることはないわよ」


 だから、延長戦をするぞと言わんばかりの菘。


「いやでも、冷めはするだろ」


 それを俺は足蹴にする。俺だって菘とそういうことをするのは嫌いじゃない。

 むしろ、好きにきまっている。

 だけど、それにしたって最近はなんというか、メリハリに欠けていると思う。

 暇さえあれば引っ付いて、キスをして、セックスをする。

 一言でいえば、堕落していた。

 

「せっかく菘が作ってくれたんだから、熱々のが食いたいしな」


 そう言って俺はベッドから立ち上った。

 そんな俺の服の裾を、待ってくれと菘が掴む。


「あっ」


 その力が強かったからか、それともキスの余韻で頭がフラフラしていたのか。

 とにかく俺はバランスを崩した。

 眼前に迫るは床。このままでは頭を打ち付けてしまう。なんて、考える暇もなく。

 俺は必死に受け身を取った。


「りょ、涼! だ、大丈夫?」


 すぐに菘が駆け寄ってくる。よかった、菘も一緒に倒れたりはしなかったみたいだ。

 

「ああ、大丈夫だよ」


 そう気丈に答え、腕をついて立ち上がろうとした。したけれど、一向に立ち上がれない。

 ――左腕の感覚がなかった。激痛がするだとか、焼けるような感覚がするだとかそんなものはない。

 ただ、そこにあるはずの腕が動かない。サーっと、血の気が引いていく感覚。


「……っ! 救急車を呼ぶわ」


 俺の異変に気付いた菘がスマホで素早く119番通報をする。

 こう言ってはなんだが、菘はもっと慌てるかと思っていた。それが思ったより冷静だ。


「はい、そうです。こけた拍子に腕が。住所は――」


 ……俺の家の住所をサラッと答えたな。いや、仮の住まいだから覚えててもおかしくはないんだけどさ。

 ものの十分程で救急車が我が家に来て、すぐに最寄りの救急外来に運び込まれた。初めて乗った救急車にちょっとテンションが上ったのは内緒だ。

 診断結果は左腕尺骨骨折。ようは腕の骨が折れたらしい。時間が経ってくると、頭が冷えた代わりにギプス固定された患部が痛み始めた。

 救急外来の治療室を出ると、すぐに菘が駆け寄ってきた。

 ……それも、涙をボロボロとこぼした状態で。

 俺の腕には触れないように、それでも俺に抱きついてくる。


「涼……。うぅっ、よかったぁ、私のせいで……」

「そんなに泣きつかれると、大手術から帰ってきた気分になるわ」

「だってぇ……」


 ポンポンと、折れてない方の腕で背中をさすってやる。

 これじゃあ、どっちが怪我したかわからんな。


「あーはいはい。イチャイチャしてるとこ悪いけどね」


 そんな俺たちにカツカツとリノリウムの床を鳴らしながら近づいてくる人影。


「あ、葵さん。来てたんですね」


 菘の母である葵さんだった。その身なりはスーツで、いかにも仕事帰り。


「来てたんですねじゃないわよ……。菘から連絡があって、涼くんが救急車で運び込まれたって聞いて飛んで来たんだから」

「お手数をお掛けしました……。でも、見ての通り腕をやっただけなので、そこまで大事じゃないんですけどね」

「そうみたいね。ただ、電話越しに菘の様子が普通じゃなかったから」

「なるほど。救急車呼んでくれた時は、冷静だったんですけど」

「火事場のなんとやらじゃない?」


 今もなお嗚咽を漏らす菘を見ると、葵さんの言う通りな気がしてきた。

 

「まあ、無事ならそれでいいんだけど。麻子には連絡した?」

「あ、まだです。さっき治療室出たばっかりなんで」

「なら、忘れないうちに連絡しなさいね」

「はい」


 と、たしなめてくる葵さんはいかにも大人だった。

 いや、元々れっきとした大人なのだけど普段の立ち振る舞いが酷いのでギャップに驚かされた。

 葵さんは髪をかき上げ、アンニュイにため息をついた。


「はーっ。で、どんな体位でしてたらそうなったの?」

「人の関心を返せ」


 そもそも腕を折るプレイってなんだよ。ハードすぎるわ。


「俺が勝手にこけたんですよ」

「またまた、適当なこと言っちゃって」

「いや、お医者さんにもそう言ってますし……」


 そう、こけたこと自体は事実なのだ。

 ただ、菘が名残惜しさから俺の腕を取ったためにバランスを崩したとか、キスしてたせいで頭が回ってなかったとか。

 こけるに至った経緯は伏せていた。とてもじゃないが、公表できない。


「でもでも、菘さっき私のせいとかなんとか言ってなかった?」

「……さあ」

「涼くん、嘘つくのへったくそね」


 まあいいけど、と葵さんは独り言ちてから仕切り直した。


「別に人に言えないプレイをするな、とは言わないけどね。性癖は人それぞれだし。だけど、あんまり危ないことはダメよ? ただでさえ、両親不在なんだから」

「すいません、心配かけて。でも特殊プレイではないんで」


 俺の言葉を無視して、葵さんは菘に声をかける。


「菘も。涼くんに迷惑かけちゃだめよ? あんまりしつこいと愛想尽かされるからね」


 尽かさないよ。


「……うん」


 涙を手で拭いながら菘は母の言葉に頷いた。

 普段なら、「涼は私のこと好きだから大丈夫」とか言ってのけそうだが、流石の菘も殊勝な態度だ。

 俺は菘を責める気はこれっぽちもない。でも、俺が骨折した原因の一つが菘であることに違いはない。

 少なくとも菘はそう考えているだろう。なら、俺が取るべき態度は一方的に許すのではなく、菘に贖罪の機会を与えてやること。

 そうすれば、菘の心の負担も少しは軽くなるだろう。


「しばらく介護よろしくな」


 鼻の赤い幼馴染の髪を撫でながら言う。


「うん、まかせて」


 依然鼻声のまま菘は答えた。その目はやる気に満ちている。

 ……菘、過保護になりそうだな。そういう奴だし。

 と、後悔しかけた。


「じゃ、私車で来てるから送ってくわ」


 葵さんが車のキーを指に引っ掛け振り回しながら言う。男子小学生かよ。指から飛んでいって慌てて追いかけてるし。

 わちゃわちゃと走り出した葵さんの後を追う。


「涼、大丈夫? 肩貸す?」

「いや、折れたの腕だから。脚じゃないんだわ」


 ……菘の介護、大丈夫かなあ。

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