画家とパトロン


 完成した『ヴィーナスの誕生』を丁寧に布で包み、エルネストは玄関の恋人ににっこり笑いかけた。


「じゃあ、行ってくるよ」

「行ってらっしゃい。気に入ってくださるといいね」


 カリーナも笑い返す。彼は意気揚々と歩き出した。もっとも、目的地であるオシュデ邸は歩いてすぐなのだが。


 エルネストにはパトロンがいた。それも富豪の。そしてパトロン──モンティアス・オシュデの妻であるアリスは、貧しい家に生まれたカリーナと違い、教養があった。そんなアリスとの談笑を、彼は密かに楽しみにしていたのだ。


「エルネスト!よく来てくれたね」

「オシュデさん、やっと注文の絵が完成したんです。きっと気に入ってくださいますよ」

「それは楽しみだね。さ、中にお入りください。……アリス、昨日買った紅茶をエルネストに」

「ええ、あなた。……エルネストさん、ごきげんよう」

「ごきげんよう、オシュデ夫人」


 モンティアスは応接間に通されると、早速机に絵を広げた。紅茶を持ってきたアリスも横からのぞく。


 ふたりは息を飲んだ。


「これは………っ、素晴らしい。とても、素晴らしい」

「なんて綺麗なんでしょう……!エルネストさん、あなたは天才だわ!」

「お褒めに預かり光栄です、オシュデさん、夫人」


 モンティアスがルーペを取りに席を外すと、アリスはすっと移動して、自然な動きでエルネストの隣に座った。

「…この絵には花が咲き乱れていますわね」

「ええ、ヴィーナスの誕生、ですから」

「でしたら、この足元の赤い花はアネモネ?何の象徴だったかしら。ええと……」

「『儚さ』、です」

「儚さ……」


 うっとりと見つめるアリス。ただし、視線は絵画ではなく、エルネストに注がれていた。彼女もまた、エルネストとの会話を心待ちにしていたのだった。


「実はね、オシュデ夫人。このヴィーナスのモデルはあなたなのですよ」

 ぱっと弾かれたように、アリスは画家の方を振り向いた。頬がじわりと紅潮し、目は潤んでいる。

「ほんとう?」

 彼女は囁くように言った。エルネストは返事の代わりに微笑んで見せた。


 とろけるように笑うアリスは、だがしかし、これはわたくしじゃない、と心のどこかで感じていた。



 顔は確かにわたくしのようだわ。でも、体が違う、と直感的に思う。まるで合成獣キメラのようなおぞましさだ。


 だがしかし、エルネストに描いてもらった歓びが勝ったので、アリスはその感情に蓋をしたのだった。

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