画家の美徳

青空ラムネ

画家とモデル

「もう少し首を右にかしげて……ダメだ、行きすぎだ、ちょっと戻って……よし、そこだ……維持キープ


 カリーナは恋人が言うままに動きをピタリと止めた。カンヴァスに鉛筆を走らせる音がアトリエに響く。


(うう、首が痺れそう)


 そう思うのは頭だけ。顔はしっかりと微笑みを維持キープしている。カリーナも伊達に何年もモデルをしていない。


 彼──エルネストの視線を感じながら、カリーナは一点を見つめた。首は右に少し傾き、右手は胸元に、左手は下腹部に当てている。『慎みのヴィーナス』のポーズだ。なんでも、ヴィーナスは裸で描かれることが当然なんだとか。なので彼女も今、全裸でポージングしている。恥じらいはとうの昔に捨てた。


 どれくらい時間が経っただろうか。


 カリーナの腕がふるふると震え出した頃、彼は「もういいよ」と言った。すぐさまカリーナはポーズを解き、バスローブを羽織った。足温器があるとはいえ、パリの冬は凍えそうに寒い。


「どう?」

 カリーナは足温器に手を当てながら問う。

「いい感じだ。傑作ができそうな予感がする」

「あら。きっとモデルがいいのね」

「はは、違いないな」


 エルネストはぐるりと首を回してストレッチした後、少し水を飲んでくる、と立ち上がった。


「あ、片付けておきましょうか?」

「いや、いいよ。まだ続けるから、置いておいて」

「そう……分かったわ。絵を見るのは良い?」

「構わないよ」


 キイ、とドアが軋む。彼は扉を閉める前に「触らないでくれよ」と再度釘を刺した。


 カリーナは、ぎゅっとバスローブを体に巻き付けながら、カンヴァスの正面へ回り込んだ。


 悩ましげに体をひねり、憂いを帯びた表情でこちらを見つめるヴィーナス。まだ下書き、スケッチの段階なのに、ヴィーナスの気品とエロティックな魅力が溢れんばかりだ。


 なんという美しさ!


 だが……。

 あたしじゃない、とカリーナは思った。


 これはあたしじゃない。体は先程まで取っていたポーズだ。でも、顔が違う。あたしは微笑んでいた。このスケッチは、躊躇いの中に艶やかな恥じらいがある……気がする。

 カリーナはあまり美術に明るくない。きっとあたしの表情は合わなかったのね、と思い直した。


 ギィィ、という音がして、カリーナは思考から引き戻される。

 どう、と彼が問いかけた。すごくキレイね、と彼女は答える。紛れもない本心だった。


「今度はホーラのスケッチをしたいんだ。ヴィーナスにガウンを着せる感じで」

「こんな感じかしら」

 ポーズを取りながら彼の方をちらりと見る。エルネストは顎を擦りながら唸った。

「ホーラは精霊だからね……バレリーナのようにつま先で立てるかい?」


 カリーナは美術に明るくない。

 ホーラが精霊である、ということもたった今知った。

 だが、カリーナもプロのモデルなのだ。


(表情が気に入らなかったなら、言ってくれれば良かったのに)


 隣に見えないヴィーナスを想像しながら、カリーナはゆっくりとつま先に体重を移動させた。

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