リナリアは深淵に向かい4
「は~~~~~マジクソ。人間だけでいいから早く分裂生殖になってくんねーかな…。」
やっと洗面所から出てきた狼牙は、悪態をつきながら先ほど軽く水で汚れを流した女性の上着をランドリーサービスの籠に放り投げた。
「待て。上着のポケットの『モノ』は出してこちらへ寄越せ。」
シローの指示にあ?と怪訝な顔をした後、今しがた手放したジーンズジャケットには、いくつかのポケットがあったのを思い返す。
面倒くさそうに籠から引き上げ、生地をまさぐりだすと、運よく1つ目のポケットで硬質の手ごたえを感じ、それを手元に引き寄せる。
モノは、(水で多少湿ってしまった)白い半紙で包まれていて、厚みのある楕円のプレートの表面に文字のようなものが彫刻されている品であることがうっすら見て取れた。
「この女は真神の遣いだ。」
部屋のカーテンを開け月光欲の続きを楽しみながらシローは優雅にワイングラスを揺らす。
「何だ、じーちゃんか。…ったく、酔った女遣いに出すなよなぁ。」
「彼のことだ。ふと頼まれごとを思い出してそのまま傍にいた女に運び屋をさせたんだろう。
いくら年季が入った暗示の使い手といっても…。ハァ、困ったものだ。」
狼牙は悩まし気なため息をつくシローにプレートを寄越した後、ついでにテーブルからカマンベールチーズのつまみを爪楊枝でひょいとほおばる。
「あ、そういや大将から連絡があってよ。25日21時から『夜会』だって。」
「ああ、わかった。」
『夜会』
月に1度定例的、もしくは有事の折に、同地区を縄張りに活動する狼男が召集される会合。
群長からの活動方針の伝達のほか、情報共有、質疑応答、(必要であれば)区域法違反者への処罰を行う、本来的には厳然とした場…であるが、こと狼牙達の属する久下(くおり)区においては長老の真神の気質もあり雰囲気はコンパに近く、強制せずとも参加率は毎回95%を超える、特殊で特別な集いと化していた。
「――こちらからも2つ、伝えることがある。」
今月の日程をカバンから取り出した革の手帳に書き込みながら、シローは話を振る。
「面識がない者が訪ねてきたときは、絶対に、中に入れるな。
一応人間の魂の一部を頂戴している身だ。
人に危害を加える魔を滅することを生業とする輩も少なからず存在する。
…人間相手なら勝てるという自信も、無策で挑んだ時点でただの慢心に変わる。」
「けどアイツここ来た時、もうふらふらだったんだぜ?」
「それが何だ?その殊勝な愛護精神を貫くことに身の安全を危険にさらす以上の価値があるとでも?
少なくとも俺はその巻き添えを食うのは御免被りたいがな。
いいか、お前は自分が思っている以上に、狼男として生きるということにも世を渡る術にも、疎い。
半人前のうちはくれぐれも勝手な真似はしてくれるなよ、坊や。」
元はといえば自分の軽率さに非があるため反論できず、さりとて思想に干渉され、幼子を叱るような口ぶりをされたことは心底いけ好かず、ふーんと無視を決め込んだ様子で、狼牙は2つ目のチーズに手を伸ばす。
「もう1つ。お前、明日の夕方はここにいろ。」
先ほどの届け物の包み紙をシローは丁寧に剥いでいく。
群長からの直々の提供物にはそれなりに興味があるようで、不貞腐れた少年は視線だけをちらちらと彼の指先に寄越していた。
とても頼りないもの扱うかのように、やがてそっと取り出された中身は、文字列の銘された赤褐色の金属片と思しきものだった。
焼き印、判子…だろうか。
だがどのようなときに使うものなのだろう?
包装が解かれた今も、実際の用途は想像しがたい。
「『狩り』の他に、半人前に教えてやることはまだまだある。」
そう言葉を継ぎながら、シローは金属に刻まれた彫を指でなぞり、金の獣の瞳孔を大きく見開いた。
透き通るような白く長い指の隙間から零れるその文字を、狼牙は知らなかった。
しかし不思議なことに、経験に頼らずとも、はっきりと識別ができる。
それは『彼ら』の領域の言葉。
(にえの…おとめ…ぜ…0…003… …)
少女密猟特区ヤルンヴィド 月輪話子 @tukino0
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