嘘も方便 三

          *                 *

 

 母さんは今日も僕を見てくれない。


 「母さん、おかえり!」

 母さんは、夕方くらいにお仕事から帰ってくる。

 「ねえ、母さんみて!算数のテストで100点とったの!」

 「あら、凄いわねぇ」

 口ではそう言うけど、目は僕を見ていない。紙袋に物を入れている。

 「それじゃあ、病院にいってくるわね。ちゃんといい子にしてるのよ」

 母さんは、顔をこっちに向けていたけど、僕を見ていなかった。それだけ言ったら、すぐにまた家から出て行ってしまった。


 いつもこうだ。

 母さんは今日も僕を見てくれない。


 「母さん、おかえり!」

 「あら、ただいま」

 僕はいつものように、玄関で母さんを出迎える。

 「ねえねえ、見て見て!図工でね、ねんどのイルカ作ったの!」

 「あら、じょうずじゃない」

 母さんは、一瞬だけイルカを見るけど、すぐに歩き出しリビングに入って行った。僕は追いかけ、負けじと母さんの目の前にイルカを差し出す。

 「ごめんね、和樹。今日もこれから桃ちゃんのお見舞いに行くの。イルカは、後でじっくり見るからね」

 そう言って、母さんはいつものように紙袋に物を入れている。

 「・・・わかった」

 わがままだと思われたくないから、僕は肯いた。

 母さんはその日、いつものように六時半くらいに帰ってきた。そして、いつものように、お夕飯をつくって、洗い物をして、アイロンをして。結局その日も、その次の日も、そのまた次の日も、イルカを見たいとは言ってくれなかった。

 なんだか悔しくて、僕の方からも切り出せなかった。

 

 母さんは今日も僕を見てくれない。


 「ね!面白いでしょ!」

 夕食中、学校であった面白い話を、食卓を挟んで向かい側にいる母さんに話した。

 「あらあら、そんな事があったの。面白いわねぇ」

 母さんは、口元に笑みを浮かべて答えた。でも、目は笑っていなかった。

 母さんはいつもそうだ。目の前の僕を見ているようで、病院にいる姉ちゃんを見ているんだ。

 「ねえ、母さん、遊園地楽しみだね」

 僕は話題を変えた。とにかくいろんな話をして、僕の方に関心を持ってほしかった。

 「そうね。今週の土曜よね。お母さんも久しぶりだから、楽しみだな〜」

 口元に笑みを浮かべて答えた母さんの目は、相変わらず笑っていなかった。


 「ごめんね、和樹。遊園地なんだけど、また今度にしてもいいかしら」

 遊園地に行く前の日に、突然母さんはそう言った。

 「桃ちゃん、最近調子がよくないみたいなの。今度のお休みは、桃ちゃんの側にいてあげたいのよ。・・・最近、お見舞いに行けてなかったから、今日行った時にすごい心細そうにしてて」

 僕はお腹の底が無性にムカムカした。心細いだって?いつでもどこでも、母さんを独り占めしている姉ちゃんが?

 僕は叫びたかった。嫌だって。いつも心細い思いしてるのは、僕だって。

 でも、叫べなかった。そんなことをしたら、母さんはますます僕を見てくれなくなる。

 「・・・分かった」

 僕は俯いて、そう答えた。

 「いい子にしててね」

 母さんはそう言って、僕の頭を撫でた。


 母さんは今日も僕を見てくれない。


 それから、母さんが姉ちゃんにつく時間が長くなった。病院から帰る時間が遅くなった。

 寂しかったけど、我慢した。姉ちゃんは病気なんだからしょうがない、と。

 だから、健康な僕は、凄いことをして母さんに見てもらうんだ、と思った。学校でやること、評価されること、全部、全部頑張った。


 そんなある日、僕の書いた硬筆が、金賞をもらった。クラスの中だけの賞だったけど、初めてだったので、とっても嬉しかった。清書用紙の左上に輝く金色が、誇らしく思えた。

 これを見せたら、きっと母さんも褒めてくれるに違いない。その瞬間だけでも、姉ちゃんのことなんか忘れて、僕を見てくれるに違いない。

 僕は心を踊らせながら、家までの帰路を走った。少し、スキップもしながら。

 ただ、いつものように、帰ってきた母さんに僕から見せるのではなく、母さんの方から気づいて欲しいと思った。

 それで僕は、何も言わずに、食卓の上に置いておくことにした。ここに置いておけば、夕飯の支度をする母さんの目に留まるだろう、と思った。


 夕飯の時間になり、母さんがふきんを持って食卓にやってきた。僕は、顔をテレビの方へ向けながら、目だけで様子を伺う。

 僕は、期待していた。硬筆の紙を見つけた母さんが、満面の笑みを浮かべて、「凄いね、よく頑張ったね」と褒めてくれることを。

 僕は、ドキドキしながら母さんの行動を見ていた。食卓をふきんでふきながら、ボックスティッシュをどかし、リモコンをどかし、――硬筆の紙をどかした。

 特に気に留める素振りもなく、一連の作業のように、食卓の下にどかした。

 

 胸を強く、打ち付けられるような感覚がした。


 母さんは今日も僕を見てくれない。


 僕は、理解した。

 母さんは、僕がどんなに頑張っても、僕のことなんか見てくれないって。じゃあ、どうやったら見てくれるだろう。

 姉ちゃんは、生まれつき体が弱くて、ほとんど病院にいる。

 だったら、僕は、どうすればいい?どうすれば、お姉ちゃんよりも見てもらえる?

 僕は、理解した。


 冷たい風が、頬を撫でる。夕焼け小焼けのチャイムが聞こえる。公園の真ん中に立っている時計を見上げる。時間は午後4時。

 公園の遊具で遊んでいた子たちは、徐々に消えていき、やがて僕一人になった。他の子たちが真っ直ぐ帰るのは、そうしないとお母さんに怒られるからだろう。

 でも、僕はそうしない。そうする必要がない。

 僕は、公園のはじっこに立っている大きな木に登った。木登りは得意だ。

 太い枝の上から、誰もいない公園を見渡す。続いて、真下を見る。高い。

 この高さから落ちれば、怪我はまぬがれないだろう。

 そうすれば、母さんも・・・。



        *                 *

 

 ブーーー。

 唐突な音に、私――宵村維純は目を覚ます。

 私は、床に横たわっていた。起き抜けに聞こえた音が、一瞬何なのか分からなかったが、すぐに携帯のバイブだと気付き、慌ててバッグの中を探る。発信先は案の定、為辺さんだった。

 「おい、一体どこにいるんだ?」

 電話の向こうから、少し焦った声が聞こえる。いけない。結構時間が経っていたようだ。

 「すみません、すぐに戻ります!」

 私はそれだけ言うと返事も待たずに電話を切り、急いで物置部屋から出た。

 長い廊下を小走りに駆けながら、頭の中を整理する。

 あの男の子には姉がいて、体が弱く、ずっと入院していた。母親は、姉のことでいっぱいいっぱいになってしまい、男の子に構ってあげられなかった。父親はいないのだろうか。だとしたら、余計に母親は余裕が無かったのだろう。姉のことに加えて、家計と家事も自分一人で背負わなければならないのだから。

 それでも、小学二年の男の子には、まだそれが分からなかったのだ。母親の気をひきたくて、一生懸命努力した。それでも、報われなかった。

 左上に小さな紙がこびりついた、硬筆の用紙を思い出す。恐らくだが、あの金紙は、男の子自身が剥がしたのではないだろうか。

 彼にとっては、母親に褒めてもらうことが、全てだったのだ。しかしあの日、男の子の目標は変わってしまった。頑張って褒めてもらうのではなく、姉のように、傷病を負って心配をしてもらう、というものに。

 そうして、愚挙に出た。そして恐らく、その愚挙の末に彼は――。

 ――オマエ、オナジ――

 男の子の言葉を、思い出す。

 ――もし万が一、あの子だったら・・・安らかに眠って欲しいんです――

 そして、部屋を出る直前の、懇願する木下さんを思い出す。


 「全然違うよ。・・・貴方は、違う」

 私は無意識に、そう呟いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る