チキンレース 四

 道は緩やかな下り坂だった。ペダルをある程度漕いだら足を止めて、ゆっくりとくだっていった。

 背後に気配を感じるのに、そう時間は掛からなかった。明らかな殺意が、自転車の速さに合わせるようについてくる。背中の皮の内側に直接突き刺さるような強烈な視線。確かに何の前情報もなくこんな気配がついてきたら、焦ってしまうかもしれない。

 ううん、思ったより大したことない。しっかり心の準備をしたから、落ち着いて走ってられる。

 頭では冷静にそう考えていたが、足は無意識に二、三回ペダルを漕いでいた。


 ヤバい。自転車が明らかに加速してる。背後に迫る気配もそれにつれて早く、又、心なしか殺意が増強してる気がした。

 ヤバい。このままじゃ事故る。ブレーキは・・・速度を落とすくらいならかけてもいいよね?

 そう思いブレーキに親指をかける。けど、握れなかった。どんなに力を入れても、ブレーキがまるで変化を拒むように、固く動かなくなっていた。


 まじか・・・そんな事してくるなんて聞いてない!

 為辺さんたちがいる場所はまだ!?


 左右の景色が目まぐるしく過ぎていく。心臓がうるさいくらい鼓動を刻んでいる。背後に痛いくらいの殺意が突き刺さってくる。

 このまま取り殺されるかも知れない、と思った。が、同時に私は、今までどうやって彼奴等を回避してたっけ、と思い直す。

 慌てるな。冷静になれ。ブレーキが効かないのは私が霊界に取り込まれて念力を使われているからで、取り込まれてるのは心に隙ができてるから。心に隙ができてるのは、加速への恐怖が半分と、霊への恐怖が半分くらい。加速はどうしようもない。ブレーキが握れないんだから。けど、霊への恐怖はなんとかなる。


 この霊は、確かに怖い。町中にいるやつに比べて殺意が強いし、脅かし方もワンパターンじゃない。プラス、声も姿も分からないから、却って恐怖心を搔き立てられる。

 でも、そんなのより怖いものは沢山ある。


 気味の悪いものでも見るかのような目を向けてくる母親。

 霊が視えなくなった途端に離れていった幼馴染み。

 気持ち悪いだの、構ってちゃんだの馬鹿にしてくるクラスメート。


 私は、思わず口に出して唱えていた。

 「幽霊なんて・・・」

 小さい時からお世話になっていた、魔法の言葉を。

 「生きてる人間に比べたら、可愛いもんだ!!」


 キィーーと音がなって、ブレーキがかかった。そのまま自転車は停止する。

 いけない、自転車が止まったら駄目なんだっけ。そう思い、後ろを振り返ると、道路の真ん中で、何かが藻掻いていた。そしてその周りの風景が、微妙に歪んでいるのが分かった。


 「お疲れ、維純」ふと、横から優里香が声をかけてきた。「アイツはもう大丈夫だよ。私と師匠のはった罠がしっかり捕らえてるから」

 そこまで聞いて、ああ、私は何とか為辺さんたちのいる場所に辿りついたのかと、息を吐いた。制服のワイシャツが汗で体にへばりついている。

 為辺さんはまだに向かって真言を唱えていた。あとは全て彼に任せてしまって大丈夫なのだろう、優里香はこっちに話を振ってくる。

 「いやぁ、結構迫力あったねえ。あんなドス黒い大きな塊が、猛スピードで追いかけて来て」

 「え、優里香視たの?」

 「うん、維純は視なかったの?」

 「・・・視る余裕なかった」

 そうか、私は霊力が強いから霊の姿が視れたかもしれない。今までの視えなかったという被害者はそこまで霊力が強くなかったのだろう。霊力が弱いからといって、霊の標的にならないとは限らない。

 しかし、「ドス黒い塊」か。もしそれを視ていたら、少しは余裕が持てただろうか。黒い霊はもう見飽きてるっつーの、なんで揃いも揃って黒なの?中二病?なんて心の中で嘲っていれば、取り込まれかけずに済んだかもしれない。

 「いやーでもびっくりしたよ。そろそろ維純来たかなぁと思ったら、変なこと叫びながら降りてくるんだもん」

 ・・・恥ずかしい、あれ聞かれてたのか。

 「いやぁ、あれは、その、おまじないみたいなもので・・・途中で霊に取り込まれてブレーキが握れなくなってその・・・」

 「真言を唱えれば良かったんじゃない?」と優里香は不思議そうな顔をして返した。

 そうだ、その手があったか。


 「あ、維純みて!」と優里香に声を掛けられて、私は彼女の視線の先を見た。

 「真言の効果で、霊が本来の姿になってるよ」

 視線の先には、為辺さんと藻掻いている霊がいる。私はその霊の姿を見て、思わず目を見張った。


 まだ子どもなのだ。年端もいかぬ少年だ。服は現代的で、古くからその地にいる類のものでもない。

 「ああ、ああッああ・・・!」

 少年は唸り声を上げながら、こちらを睨んでいた。

 その年不相応な強い憎悪に、思わずたじろいでしまう。


 為辺さんは、バッグの中から黒くて大きめの秘密箱のようなものを出した。

 「ああ、やっぱり封印するのか」と、優里香が呟く。

 「封印・・・?」

 「ああいう悪意が強くて危険な霊は、追い払うんじゃくてしっかり『封印』するんだ。封印された霊は、その効力が続く何十年かは、箱の中から出られない。そんで互助組織の方で保管して、効力が切れそうになった箱にまた封印の術をかけなおすんだ」少し低い声で優里香が言った。

 救いがない話だ、と思った。


 為辺さんは秘密箱を慣れた手つきで開けていく。彼が何か唱えると、その少年はおびただしい叫び声をあげながら、箱に吸い込まれていった。少年が箱に入ると、為辺さんは箱を閉め、素早く箱の仕掛けを戻していく。

 秘密箱の最後の仕掛けを戻した瞬間、ふっと周りの空気が軽くなった気がした。


 「今日の仕事はこれで終わりだ。ご苦労だった。あとは駐屯所に報告だけ行って帰るぞ」

 為辺さんと優里香は、近くに停めてあった車に向かう。

 木々を縫って差し込む太陽の光と、背後から吹き荒ぶ風を浴びながら、私は暫し立ち尽くしていた。


 あんな小さな子どもが、どんな目に遭って、あんな憎悪を抱いたのだろう。


 真実はもう知る由もない。全ては、黒い箱の中に。


       *                     *


 「ふう、疲れたー」

 俺――新藤しんどう希一きいちは、資料作りの手を休め、背伸びをした。この資料の提出期限はまだ余裕があるし、少し休憩をしようと思った。

 ふと、自分の向かいのデスクの女性を見る。生真面目な表情で、キーボードをカタカタ叩いている。メイクは薄く華やかじゃないが、周りのキャピキャピした女共より、仕事のできるキャリアウーマンという感じがして、俺は好きだ。少しだけ染めた長い髪は片方だけ耳にかけてあり、その中で一房だけ鎖骨に垂れている。鎖骨にある黒子ほくろが色っぽい。

  「新藤君、集中できないんだったら珈琲コーヒーでも飲んできなさい」

 視線を感じたらしい彼女――宵村よいむら恵理えり課長は、こちらを一瞥もせずに言った。

 「俺、苦いの苦手なんスよ。だから課長を見て目の保養?にしてました」と言ってみるが、何処吹く風といったように、彼女はキーボードを打ち続けていた。


 この発言は、半分冗談、半分本気だ。彼女は俺よりもずっと年上だが、俺は年上好きだし、シングルマザーとして仕事に打ち込む姿にも惹かれていた。

 なので、彼女がまだ此処にいるうちに、少しでも脳裏に焼き付けておきたかった。

 「あの、課長・・・本社にご栄転するって、本当ですか?」

 俺がおずおずと尋ねると、課長のキーボードを打つ手がピタッと止まった。

 「誰に聞いたの?」と課長は呆れたように聞いてきたが、それには答えず、ああ、転勤しちゃうんだなぁ、としんみりとしてしまった。

 「本社に転勤ってことは、引っ越さないと難しいですよね。娘さんは転校するんですか?」と聞くと、課長の眉がぴくっと――注意して見ていなければ分からない位僅かにではあるが――動いた。

 「一人暮らしをするわ。娘はそこそこ有名な進学校に通っているし、転校したくないと言うと思うの」

 。娘に相談してないんかい!と心の中でツッコんだ。

 「まあ、娘さんが通ってるの科峰ですもんね。凄いですよね!さすがは出世街道を行く課長の娘!」と笑って言うと、課長は少し俯いてボソッと言った。

 「いくら頭が良くても、それ以外で問題があるんじゃどうしようもないわ」

 え?と聞き返したが、課長はそれ以上は何も言わず、再びキーボードを叩き始めた。

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