第12話 一難去って

 声のした方向に、陽清はちらりと視線を向ける。誰かが走り寄ってくる姿がはっきりと見えた。


 それはほんの一秒にも満たない時間。

 だが、意識を再び正面に戻すと、目の前には黒い虚空が広がるばかり。


 暗殺者は音もなく逃げ去った。

 気配遮断を活用した完璧な戦闘離脱。何一つ痕跡は残っていない。


「逃げられたか……」


 悔しそうに吐き捨てるが、あくまでもただの強がり。

 ……命拾いした。気力を振り絞ってもなお、陽清の反応は遅れていた。事実、右腕は微かにしか上がっていない。

 張り詰めた糸が切れて、ぐらりと身体が揺らいだ。咄嗟に右手を支えにして堪える。芝生は冷たく、土はいやに湿っていた。


 なんとか立ち上がろうとするも、力が入らない。左腕の痛みはすっかり復活していた。抉れた傷口からはドクドクと血が流れたまま。呼吸は浅くなり、自然と顔が歪む。


 陽清には寝転ばないようにするだけで精一杯だった。全身の血管が激しく収縮し、胃の奥底に澱が蓄積していくのを感じる。


 結局、《彼女》がやってくるまで、陽清はその場を動けずにいた。


「だ、だいじょうぶですかっ、柳上君!」

「…………つばきやさん? どうしてここに」


 目撃者の正体は怜奈だった。動きやすい服装、左手にはビニール袋を提げている。

 全力で走ってきたせいか、息は絶え絶えだ。顔は赤らみ疲労に歪むが、すぐに驚愕の色で塗りつぶされてしまう。


 ボロボロの陽清の姿が、彼女をひどく怯えさせたらしい。


「とにかく手当てをしないと……ええと、ハンカチしかないな。柳上君、何か持ってませんか」

「いや、俺も特には。って、そんなことより」

「とにかく傷口を洗って、水道はちょっと遠いか。歩けますか、柳上君?」


 怜奈に普段のおっとりした様子は微塵もない。どこか活力に満ち溢れている。


 右手にぐっと体重をかけ、陽清は歯を食い縛った。

 普通なら、難なく立ち上がれるはず。だが、今回ばかりは大仕事だった。


 足元がふらつく。依然として左腕は感覚はないし、左足もまたどうにも利きが悪い。血が多量に抜けたせいもあるかもしれない。頭には靄がかかったまま。


 そこを、ぐっと怜奈が支えた。背中に手を回して、身体を密着させる。


「さ、肩貸しますから」

「…………い、いや、平気だ。一人で歩けるから」

「そんなわけにはいきません」


 ということで、陽清はなぜか自分より一回り小柄な女子の肩を借りて歩くことに。水道までの距離はおよそ五十メートル。二人の距離はごく僅か。


 身体がより熱を帯びていく。心臓が跳ね上がるのは、痛む傷口のせいではない。

 くっつく彼女の柔らかさや、甘い香りが、陽清の理性をかき乱していく。傷口の痛みが、一層増したような錯覚が彼を襲う。


「なあ、さっきの警察っていうのは」

「あんなの嘘です。びっくりしました、戻ってきたら柳上君が襲われてるから。それで咄嗟に」

「頭いいんだな」

「よく、もうそ――考えてたので」


 怜奈が謎の単語を口走りそうになったのに、陽清は全く気付かなかった。機転の良さに感心していたし、そもそもあまりうまく頭が働いていない。


 ようやく水飲み場に辿り着いて、怜奈は蛇口を捻った。そっとハンカチをその下にかざす。


 陽清は近くにゆっくりと腰を下ろした。片膝を立てて、またもや右手を地面につく。寄りかかるようにして、ゆっくりと呼吸を繰り返す。ようやく、右半身は動く様になっていた。


 活性化したままの痛みと熱がぐちゃぐちゃに混ざって、ある種の浮遊感を形成している。


「ちょっと痛いかもしれないですけど」

「いや大丈夫だ。むしろ悪いな」


 怜奈は濡らしたハンカチを陽清の傷口に当てた。優しい手つきでその周囲を拭いていく。

 水が染み込むたびに、痺れるような痛みが走る。重たく渦巻いていた感覚の全てを吹き飛ばして、陽清は叫びそうになった。


 それでも、ただじっとクラスメイトが手当してくれる様子を見守る。気恥ずかしいのに、目を離せないでいた。


「思いの外、出血がひどいですね……とりあえず、きつく縛って。問題ないですか?」

「ああ、平気だ。ありがとう」


 左肘のやや下辺りに、白いハンカチが結ばれた。傷口をなるべく広げないように、結び目はかなり頑丈だ。

 それでも完璧な止血には至っておらず、すぐに赤い染みが広がっていく。


 怜奈はさっと、陽清の顔を見上げた。


「痛みますか?」

「いや、別に」

「……嘘ですね」


 ぼそりと言って、怜奈は顔を歪めた。再び傷口の方をじっと見やる

 その呟きは、陽清の耳には届かなかった。


 夜の静けさが、二人を包み込んでいく。


 陽清は静かに体力の回復を待っていた。ひとまずの応急処置は終わったものの、未だ動き回れる体調にはほど遠い。

 こうして息を整えているだけで、少しづつ麻痺は治り、痛みは引いていく。件の左腕はともかく、あと数分もすれば歩けるようにはなるだろう。


 沈黙が続くにつれて、陽清は次第に冷静さを取り戻す。

 ひたすらに、気まずい。何か言わなければ、と思い口を開くが、言葉が続かない。


 言わなければいけないことはたくさんあるのに。まずはお礼。次は質問。そして早く帰るよう促す。

 あの暗殺者がどこにいるか、わかったものではない。ここにいては、彼女にも危険が及んでしまうだろう。


 だが、冷静になるにつれて、反対に混乱は増していく。

 なぜ自分は、こんな人気のない夜の公園で、クラスメイトと二人きりでいるのか。

 その相手が人気のある女子とくれば、意識するなというのが無理な話。身体の熱は、一向に引いてくれる気配はなし。


 その相手、椿屋怜奈といえば、さっきからじっとうつむき加減のまま。その憂いある横顔は、果たして何を考えているのか。


 だが、やがて意を決したように、彼女は勢いよく立ち上がった。


「柳上君、私の家にいきましょう!」

「…………あの、それはどういう意味」


 だ、と聞こうとしたが、言葉は曖昧になって霧散した。

 怜奈が強引に陽清の腕を引っ張り上げたから。あろうことか、左腕を。かなりの力強さで。


「いや、待ってくれ! そこまでしてくれなくても……」

「ダメです、放っておけません! 逆にどうするんですか。普通に病院に行ける事情じゃないんでしょう」

「それはそうなんだが」


 痛いところを突かれて押し黙る陽清。

 それを見て、怜奈は満足したように笑って頷く。


 怜奈はそのまま陽清を力づくで引張って行く。

 意外とパワフルだな、と彼のの中でこのお淑やか系女子のイメージが変わり始めるのだった。



        ◇



 ということで、春清は八帖程度の部屋にポツンと一人。可愛らしい花柄のクッションの上に、堅苦しく正座をしていた。漂うフローラルな香りが、彼の気分を落ち着かなくさせる。


 窓辺の一角には、薄いピンク色のカーテン、白い勉強机、簡素なシングルベッド。逆側には大きなクローゼットと、凸凹と棚が三つ並ぶ。

 バランスよく配置された家具。特徴的なのは、姿見とドレッサー。鏡面はしっかりと磨かれ、台の上はカラフルな小瓶がまとまって置いてある。


 掃除は隅々まで行き届き、余分なものは少ない。主の几帳面さがよくわかる。


 陽清の視線はさっきから泳ぎっぱなし。ひたすらに居心地が悪い。ここは異性の部屋。妹のとはまるで勝手が異なる。


 頭は酷く冷静。痛みはかなり治まった。白いハンカチが痛々しいものの、体調も元通り。

 けれど唯一、心臓だけが激しく跳ねあがっている。 


「早く戻ってきてくれないかな……」


 その呟きはどこまでも孤独。より虚しさに拍車をかける。


 椿屋医院は、総合公園から徒歩五分くらいのところにあった。

 陽清はそこの娘さんの手を借りて、多めに時間をかけて到着。闇の中でも、白を基調とした建物と、並列の一軒家は目立っていた。どちらも二階建て。


「ラッキー! パパお風呂みたいです」


 自分の家にも関わらず、怜奈は注意深くその外観を見て回った。浴室に明かりが灯っているのを見て、派手にガッツポーズ。

 慌てて玄関へと戻り、そっと扉を開けてクラスメイトを招き入れた。その後は、速やかに一階の廊下突き当りにある自室を目標に、スニーキングミッションを実行した。


「ふぅ。まずは一安心っと。ちょっと待っててください。なるべく早く戻ってきます」


 彼女は男を置いて、なぜか嬉しそうな顔で部屋を飛び出していった。不用心というか、無頓着というか。

 どこぞの誰かとは違い、異性をそこまで強く意識していないような行動だった。いや、そこまで考えが及んでないだけ。

 

 彼女は、謎の使命感に突き動かされている。

 それは強大で、陽清が発した色々な反論を全て封じ込めてしまった。そして、彼の抵抗する気力を一切合切に奪った。


 陽清はそんなことを思い出して、また緊張を強めた。もう痛まなくなって久しい傷口がズキリと疼く。すっかり赤黒い変色した血の染みに、鮮やかなもの混じる。

 身体の火照りは、収まるところを知らない。


 コンコン。


 じっと身を固くして息を潜めていると、小さく扉がノックされた。

 ドキリとしながら、一つ唾を飲み込む。怜奈だろうか。しかし、この部屋の持ち主なら躊躇いなく入ってくるのでは……瞬時に、思考を巡らせる。


 再び扉を叩く音が続く。ふーっと、静かに息を吐く陽清。


「私です、怜奈。手が塞がってて、開けてもらえますか」

「あ、ああ。すぐ開ける」


 やや拍子抜けしながら、彼はすっと立ち上がった。足がしびれていたせいで、ちょっとよろめく。

 情けないな、と苦笑いしつつ、扉を開けて怜奈を迎え入れた。どうにもあべこべである。


「ありがとうございます」

「いや、それは俺のセリフというか……ってか、大荷物だな」


 怜奈は腕一杯に色々なものを抱えていた。包帯、正体不明の薬瓶、ピンセット、ガーゼ。一通りの医療道具が揃っている。

 陽清の言葉を、彼女は笑顔のまま黙殺した。代わりに、びしっとクッションを指さす。


「私これでも医者の娘ですから。――さぁ、柳上君。服脱いでください」


 どうしてこうもこの少女は物騒な言い方しかしないのか。

 陽清はほとほと呆れ果て、間の抜けた顔を晒すことしかできなかった。

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