第13話 更ける夜
包帯の端を、怜奈はテープでピタッと留めた。そこをポンと、軽くはたく。
そしてテキパキと、使い終わった道具を片付け始める。
「ふぅ、上手くいったかな。これで終わりです。どうですか?」
「問題ない。ありがとう。——慣れてるんだな」
「よく、パパの手伝いをするので」
怜奈の言葉に、陽清は曖昧に頷いた。
電灯の下に左腕をかざす。そこには、真新しい包帯がぴったりと巻かれてある。少しきついが、そこまで違和感はない。
完璧な処置。彼は目を丸くして、ありありとそれを見つめていた。
だが、怜奈はそんな陽清の態度を妙な方向に解釈したらしい。
目を細め、軽く頬を膨らませ、不機嫌そうな表情を作る。
「もしあれでしたら、パパにちゃんとお願いしておきましょうか?」
「いや、それは」
「わかってます。隠しておきたいんですよね。だから、こっそり連れてたんですから」
二人の秘密ですね、と怜奈は人差し指をそっと自分の唇に当てた。
男心をくすぐるような色気のある仕草だった。
その艶めかしさに、陽清は強くドキリとさせられた。
瞬間、頭が沸騰する。顔に感じる熱は尋常ではない。
慌てふためきながらも、何とか彼女の顔から視線を外した。
「じゃああの、そろそろ教えてもらえます? あの公園でのこと。柳上君自身のこと。そして、始業式の日のことも」
「…………ええとだな」
ずいっと迫ってきた命の恩人。そのぬくもりや香りに戸惑い、気圧され、陽清の言葉尻は濁る。
たじたじになって、右の頬を掻く。やや後ろにのけぞって、何とか距離を置こうとするが、すぐそばの壁に阻まれた。
はっきりしない客人の態度に、怜奈はまた一つ不満を募らせた。その顔が一段と曇る。
「あっ! この期に及んで、誤魔化そうとしてます? 無駄ですよ。私、この目ではっきりと見ましたから。柳上君と変な黒づくめの人が闘ってるの」
「そんなつもりはない。こうして巻き込んでしまったわけだし。というか、椿屋さんやっぱ見てたのか」
「はい。だってその、あんなに念押しされたら気になるじゃありませんか!」
力説する姿は、教室で見るような物静かさはない。目がこれでもか、と言わんばかりにキラキラと輝いている。この好奇心満々な姿こそ、椿屋怜奈の本来の姿のようだ。
もっとも、本人にしてみれば猫を被っているつもりは毛頭ないのだろうが。自然とした振る舞いの中に、興味を持てる対象が出てくるとがらっと変わる。ただそれだけのこと。
「あの、柳上君はいつもああいうことしてたんですか?」
「ああいうことって?」
「トレーニングです。なんだかとても大変そうに見えましたけど」
「まあそうだな。最近始めた。……って、知らなかったのか」
「あれ、私、教えてもらいましたっけ」
「そうじゃなくて、夜もつけていたとばっかり」
目前の少女はぽかんとした表情で、ふるふると首を振った。
それを見て、陽清は内心舌打ちをする。とんでもない勘違いをしていた。おそらく、夜に感じた気配は、暗殺者のものだったのだ。
迂闊すぎて、自分が嫌になる。
「そうか……くそ、失敗した」
「? で、あの闘っていた人は」
「俺にもわからない。襲われたのは今日が初めてだ」
「なるほど。災難でしたね。でも、二人の打ち合い凄かったです!」
「どうして興奮してるんだ……」
その憧れと尊敬が入り混じった煌めく瞳は、陽清にとってただくすぐったいばかり。こそばゆくてまたしても目を逸らした。
「どこであれだけの剣術を? 柳上君って、別に剣道部じゃないですよね」
「筋金入りの帰宅部だ」
「おうちが道場やってるとか?」
「それも違う」
「じゃあどうして?」
「まあその、色々だな」
「ふうん、色々、ですか」
怜奈は唇を尖らせた。ともすれば、平時の彼女は周りより大人びて見える。だが、この数分は年相応、いや、非常に子供っぽい。
そんなギャップに、陽清は完全に振り回されていた。
「じゃあその傷は? 初めて見たときは、もっとざっくり、ぱっくりいってました。でも、さっきはすでにかなり塞がっていた。《普通の人間》の治癒能力には思えないんですけど」
「これまた、ずいぶんと刺のある言い方だ。俺は別に、バケモノなんかじゃない」
「私はそんなことを言いたいわけじゃ。ただその、柳上君のことが知りたいだけなんです。いっぱい不思議なことを見せつけられて、気にならない人はいませんよ」
最後のほうは取ってつけたような言い方になっていた。
怜奈の顔は少し赤らんでいる。誤解を招く表現なのは自覚はあったのかもしれにあ。だから慌てて付け足した。
相手の揺れる瞳の奥に複雑な本心が薄巻いてるとも知らず、陽清は今後について軽く思案する。ここまで来ると、この押しの強い女子の追求を躱すことは難しい。
何より、手当てをしてもらった恩がある。嘘をつき続けるのは、不誠実な気がした。
果たして、どこから話したものか。
「——俺はさ、異世界に行ってたんだ」
悩んだ末に、元勇者が口にしたのはそんなありふれた前口上だった。
◇
怜奈は相槌一つうつことなく、クラスメイトが語る夢物語にしっかりと耳を傾けていた。一言一句聞き逃さんと、どこか鬼気迫っている。
話し始めから一時間ほど。
夜は深け、もう翌日はかなり近づいている。かつての陽清が達することのできなかった火曜日が。
「——で、戻ってきたのが始業式の日だったわけさ」
話に終わりは、ひどきあっけなかった。投げやりな口調、うんざりしきった表情、力のない首振り。陽清の雰囲気はどこまでも苦々しい。
初めこそ硬さがあった語り口も、話が進むにつれ柔らかく、時には実感を込めて。普段女子と接するときの、愛想のなさやぶっきらぼうさはすっかりなりを潜めていた。
パチパチパチ、小さいが力感のある拍手が響き渡る。
一人しかいない観客は、心の底から満足いった様子だ。キラキラと眩い顔で、懸命に手を叩き合わせている。
それで、ようやく陽清は我に返った。昂れば昂った分だけ、我に返った時の反動は大きい。その顔は一気に赤くなってしまった。
「すごい大冒険じゃないですか! どうします? 手記でも発表します?」
「いや、しないけど。椿屋さん、信じてくれるのか?」
「どうしてです? あれだけの大立ち回りを見せられた後じゃあ、信じるしかないですって。そっちの方が楽しいですし」
屈託のない笑顔を浮かべる同級生を目のあたりにして、椿屋怜奈は愉快なやつだと陽清は深く脳に刻み込んだ。かつての幻像は跡形もなく砕け散った。
「でも、それだけの大冒険なら、向こうにはかなり長くいたんじゃ。三日とかで倒される魔王とか、どこの明智だって感じですし」
「三日天下を踏まえてるんだろうけど、そもそもその人が魔王倒してるからな」
「えっ、光秀って、異世界帰還者だったんです⁉︎」
言葉を失って、陽清はきつく目頭を押さえる。心なしか頭痛を感じるのは、きっと怪我の後遺症に違いない。
対して怜奈はどこまで本気で言ってるのか。口の端が、意地の悪そうに歪んでいる。
「ゴネンダ」
「へ? あ、ああ、五年……って、五年も⁉︎ 結構長い。第一、よくそんな正確に」
「水先案内人役の女神が、事ある毎にイベントを祝ってくれたからな。ったく、あいつ……思い出したら、腹立ってきた」
「へぇ、女神様。なんだか、本当それっぽい」
「そんな素晴らしいもんじゃないけどな。こと、魔王討伐の旅に関して何の役にも立たなかった。いつも俺のこと揶揄ってばかり」
「えー、でもなんか楽しそうです」
「どこがだ。椿屋…………さんは、あいつのこと知らないからそう言えるんだ」
「そういうことにしておきますね」
ふふっ、と怜奈はほんわかと笑みをこぼした。陽清の語り口から、女神に対する親しみはありありと感じ取れた。
当人は今更そんなこと爪の先ほども意識してないが。相手の微笑みに、穏やかじゃないものを感じて、やや顔を歪める。
「でも、五年だったら計算があいませんよ? 柳上君、去年もバリバリ高校通ってましたよね」
「そうだな。だから、向こうとこっちで時間軸が大幅にずれてるんだと思う」
「じゃあ春休みという短い時間が、何倍にも引き延ばされた、と」
「詳しいことは、それこそ女神にでも訊いてみないとわからないが」
用意していた言葉を、陽清はさらりと言ってのける。
怜奈はそのまま顎に手を当てて、何かを考え込み始めた。そこに、陽清の話を疑うそぶりは少しもない。
それを見て、彼はほっと胸を撫で下ろした。一つはぐらかしてあることに、気づかれなくてよかった、と。
異世界転移の原因。それが怜奈を事故から庇って、命を落としたことという事実を、陽清は黙っていた。
彼女にとっては、気持ちのいい話ではない。それに、あまり気にしていないようだったわけで。
「椿屋さん、悪いけど俺、そろそろ帰るよ」
「え~、もうちょっとお話しして欲しいです」
「もう夜も遅いしさ」
「…………はっ、もうこんな時間! 私ったら、すみません。かなり疲れているはずなのに」
部屋の主はどぎまぎと慌てだした。さすがの彼女も、こんな時間に男子と二人っきりのマズさはわかっているようだ。
緊張は伝播すると言うが、それは陽清にもたちまち伝わった。唐突に、妹の『あいびき』なる物騒な単語を思い出して、頭はオーバーヒート。視線が宙を彷徨い始める。
部屋の中に、じんわりと静寂が広がっていく。住宅街のやや外れにあって、さらに夜間と来れば、非常に外は静かなもの。
そのうえ、リビングから距離があるとあっては、家の騒音は届きづらい。
二人の硬い息遣いだけが交差する。どちらも、決して目を合わせようとはせず、頬を赤く染めるばかり。
だが、こうした気まずさに関しては、陽清の方が一枚上手だった。陰キャ生活が長い彼にとって、
素早く立ち上がると、わざとらしく咳払いをした。
「じゃあ本当に行くから」
「は、はい。あっ、玄関まで見送りを……でも、パパにバレるかもだし」
「いや、その心配はない」
未だ動揺しまくりの怜奈を差し置いて、陽清はしらっとあらぬ方を指さした。
「ここから出ていくから」
確かに、と小さく呟いて、怜奈は神妙な顔で頷く。
気まずい空気は、一瞬にしてちぐはぐなものへと変わった。
◇
コツン、コツン。
また聞こえた。不思議なことも、重なればその神秘性は薄れる。
確実に誰かが窓に悪戯している。星佳はピタリと動きを止めた。
ベッドの上に上体逸らしの要領で寝そべり、足をバタバタと子供のように。その手に固く握られてるのはスマートフォン。
動画投稿サイトで、女子高生に人気のありそうなものを片っ端から漁っていた。
「なんだろう……」
小さく呟いてみても、胸に灯った不安の火は消えない。むしろ、その勢いは増す。
本当なら、隣の部屋にすぐのでも駆け込みたい。だが生憎と、彼女の最も頼りにする人物は不在だ。四時間ほど前に出て行ったきり、連絡もつかない。
階下に逃げ込もうか。両親はまだ起きている。
けれど——
シャー、立ち上がると、星佳は躊躇いなくカーテンを引いた。
予感があった。もしかすると、
それに彼女は、どちらかと言えば臆病よりも大胆であった。
こわばっていた彼女の表情は、すぐに呆れたものに変わる。
「なんなの、兄さん。忍者にでもなったつもり?」
窓の外、屋根の上にいた人影を見て、星佳はすぐに窓を開けた。何食わぬ顔で、予想通りの奴が潜んでいた。
一瞬頬を緩めたものの、すぐに呆れた顔を作る。腕を組んで、じろりと眼差しを一つ。
冷たい夜風が、内にいる人間の髪を揺らす。ごそっと、なにかが擦れる音を伴奏にして。
「それもいいかもだが、今日は宅配便だ」
「タクハイビン……ああ、なるほど」
差し出された緑のロゴの入ったビニール袋を、星佳はにんまりと受け取った。
すぐ中を確認する。カップの、高級そうなアイスが二つしっかりと入っていた。触れてみると、問題なく冷えている。そして未開封。
「よし、ゆるそう!」
「ははぁ、ありがとうございます、姫さま」
「冷凍庫に入れてくんね」
「ついでに水持ってきてくれ」
「は~い」
朗らかに返事をして、彼女は部屋を出ていく。袋の持ち手で蓋をするようにしながら。
結局、星佳はなにも訊ねなかった。兄はどうやら隠し事をしているらしい。それに帰ってきた時は、ちょっと顔が赤かった。
でも、気にしない。何があっても、兄は兄、自分は自分。兄妹でも、踏み入ってはいけないラインがある。
始業式の日からどこかおかしいと思いながらも、彼女は決してそれを口に出すことはしないのだ。
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