第9話 奇跡と邂逅
「目覚めなさい、勇者ハルキヨよ」
それは、とても懐かしく馴染み深い声。
無機質なはずなのに、確かな温かみがある。
真っ暗な空間に、陽清はうつ伏せで倒れていた。
声が聞こえて、意識が叩き起こされる。ただ、まだ頭は少しぼーっとしていた。思考が上手く繋がらない。
「繰り返します。目覚めなさい、勇者ハルキヨよ……って、言いづらいですね、やっぱり」
「……失礼な奴だな」
相手がすぐに化けの皮をはがしたため、陽清はゆっくりと身体を起こした。
視界は暗闇に包まれている。それでも、じっと前を見つめていると、段々と案の定のシルエットができあがった。
漆黒の中でも、その黄金の長髪は眩いくらいの輝きを放つ。その姿は、文字通り神々しい。見間違えようが、なかった。
「アリシア……どうして? 俺はし――」
「賢明ですね、勇者ハルキヨ。自分が死んだことはおわかりとは。しかし、仮にもこの世界の魔王を倒したはずですよね。それが、心臓を一突きされたくらいでぽっくりいくなんて。ああ、情けない。アリシアは、ハル君をそんな子に育てた覚えはありません!」
スイッチが入ったように、アリシアは激しく捲し立てる。表情をころころ変え、時には身振り手振りを交え、さながらお転婆で元気のいい村娘だ。
陽清には依然としてわからないことばかり。唯一判明したのは、自分がやはりあの一撃で命を落としたということだけ。
……それと、遠回しに罵倒されていることも。
「無茶言うな。どんなトレーニングを積んだって、心臓は鍛えられないだろうが!」
「そもそもですね。簡単に刃が通じること。そして、たかが心臓を一突きされたくらいで、あっさり意識を失ったこと。どちらも、おかしいと思いません?」
声を荒らげる来訪者を、女神は少しも意に介さない。しれっと言い返して、相手の勢いをなし崩しにする。
ぐぬぬ、と元勇者が悔しそうにしたのを見て、彼女は勝ち誇ったような顔をした。鼻を鳴らして、玉座ならぬ神座にふんぞり返る。
その態度にムカつくものを感じはするが、陽清も納得はしていた。
「お前にはその理由がわかるってのか」
「ええ、簡単ですよ。それはね、敵さんが相当の手練れってことです!」
「……バカだ、こいつ」
「うわぁ、女の子に面と向かってそういうこと言いますかね~」
「人間扱いしたら、『私は女神です』とかキレるくせに。とんだ、ダブスタだな」
呆れてため息をつく陽清。この女神のテキトーっぷりは今に始まったことではない。慣れてはいたが、久しぶりだったので、ちょっとだけ微笑ましかった。
「だいたい、俺の死因なんてどうでもいい。そんなことよりこっちの質問に答えろ。なぜ俺はここにいる?」
「ワタシが呼んだからに決まってるじゃありませんか」
「…………は?」
その返答は、予想できていた。
ここは神界――女神アリシアに言わせれば。
そんなことは、陽清にもよくわかっている。今まで自分からここに来たことはない。いつも、この人を食ったようなアホ女神に召喚される。
だが、それは過去の話。自分はもうこの世界、ひいてはその管理者との関係は何もない。方法ではなく、理由を知りたかった。
困惑しながらも、彼は頭を働かせる。基本、もったいつけて思わせぶりな態度をとるこのクソ女神に対抗するには、決して思考する、ということを忘れてはいけない。
「……それはあれか? またこの世界にトラブルがあった」
「いえいえ、そういうことではなくて。単に、あんな無様に命を落としてしまった、元勇者様が憐れで、哀れで」
「なぜ二度繰り返す……」
ぐすぐす、わざとらしく口に出して、さらには、どこからか取り出した白いハンカチで目を拭い始めるアリシア。だが、涙は一滴も流れていないし、それどころか唇は愉快そうに曲がっている。
「つまり、俺を助けてくれたのか……でも、もう手助けできないとか言ってたよな」
「そのつもりだったんですけど、まあコトがコトですから」
女神は何でもないことのように答えた。
あまりにも白々しすぎて、陽清は毒気が抜かれてしまう。そんなんでよいのだろうか、その心が曇りがかる。
たとえ女神の気まぐれだとしても、助かったのは
さすがに、やりきれなさは強い。あとこみ上げるは、怒濤の自己嫌悪。
ひとまず、神界に招待された案件を、彼は良しとした。
「お前には訊きたいことが山ほどあるんだが」
「ええ、そうでしょうともね。ずっと、視ていましたから、貴方のこと。眠っている時、ご飯を食べている時、学校で授業を受けている時、あと、トイレとかおフロ――」
「……お前がそこまで変態だとは知らなかった」
「じょ、冗談ですよぅ」
それは女神すら凍てつかせる視線。柳上陽清は、この瞬間、神殺しの眼を得た……というのは、妄言だが。
しばらく渇いた笑みを浮かべていたアリシアだったが、突然、その表情をきりっと引き締めた。途端、二人を包む空気感すらがらっと変わる。
女神モード……どこまでも真面目で、人間味のない雰囲気を纏った彼女のことを、陽清は密かにそう称していた。畏敬と、ほんのちょっとの揶揄を込めて。
「残念ですが、時間はほとんどありません」
「いつものことだろ。また弱いところを突かれたからって、無理矢理話を終わらせようとしやがって」
「えへへ、バレちゃいましたか……でも今回は本当にいつも以上に時間はないのです。これは、あまりにもイレギュラーすぎる出来事なので」
思わせぶりな女神の態度に、陽清はただ黙って耳を傾けることにした。その口調の重々しさは、彼にしても初めて聞いた。
「貴方に伝えておかなければならないことは二つ。一つ目は、襲撃者の正体。といってもはっきりしたものではありません。ただ、貴方の命を狙う者がいますということだけ。そちらの世界は、決して安寧と安らぎだけに満ちてはいないようです」
「みたいだな。まあ気を付けるよ」
「そして、もう一つ。この奇跡は一度だけ。次、死に瀕した時には、ワタシはもう手を差し伸べてあげることはできない。貴方は然るべきところに行くことになる。柳上陽清は、あくまでもそちらの世界の理に従う存在なのだから」
私にはその権限がない、アリシアは苦悶の表情で漏らす。どんな時も余裕を崩さない彼女が、こうして悔しがるのは珍しいことだ。
かつて魔王に裏をかかれた時でさえ、素直に感服して見せたほどだった。
女神のそんな様子に、陽清も強い警戒心を抱いた。襲撃者のことはともかく、アリシアの加護がもう期待できないのは、本当らしい。
てっきりこれもまた、異世界帰りの特典かと睨んだがそうではなかったようだ。一瞬湧いた、甘い考えを捨てる。
アリシアの言っていた通り、もう自分は異世界に招かれたゲストじゃない。いるべき世界で、粛々と生きていくだけ。危ない真似は、気を付けなければ。
「わかった、覚えとく。今回は本当に助かった」
「いいのです。救われたのは、こちらの方ですから。――さあ行きなさい、ハルキヨ。貴方には為すべき使命があるはずです。たぶん、おそらく、めいびー!」
なんたる説得力のなさ。けれど、アリシアの口調はありがたい教えを伝える時のそれ。実際、これで女神だというのだから
いまいち締まらないなと思いつつ、まあ彼女らしいと陽清は頬を緩める。
本当はもう少し話していたかった。わからないことはたくさんある。でもそれ以上に、こうしたくだらない言い合いが楽しかった。
間違いなく、それは異世界での日常の一部。今の彼に、欠落感を抱かせる要素の一つ……暖かな気持ちが胸に芽生えているのを、彼は気づかなかった。
だがそれはできない。ここはもう自分のいる場所ではない。とにかく、向こうの世界に戻って襲ってきた奴をとっちめる必要がある。
為すべきことを、陽清は確かに一つは持っていた。
「それでは、ハルキヨよ。本当にお別れです。もう二度と、貴方がここに来ることはない。これは絶対です」
「……本当に世話になった、アリシア。その、元気、で――」
突然、陽清の意識は落ちた。プツリと、コンセントが抜けたテレビみたいに。
身体はゆっくりと、崩れ落ちていく。だが、足元から闇に飲み込まれていく。頭がアリシアの視界を通過しきると同時に、柳上陽清がここにいた、という事実は完全に消失した。
何もない空間に残るのは、アリシアだけ。彼女は微動だにせず、ただじっと虚空の一点を見つめている。そこには、おおよそ感情と呼べるものはない。
そこへ、近づいていく人影が一つ。足音を立てずにひっそりと。まるで、暗闇から生えてきたみたいな存在感のなさ。
「言わなくてよかったんですか?」
「また盗み見。なんともまあ、女神らしい趣味だわね」
「見習い、です」
「あと少しの話よ」
アリシアは、現れた従者の方を一切見ようとしない。そっと立ち上がると、神座を譲るように一歩横にずれる。
フィリールはそっと神座に触れてみた。人間界には存在しない物質で作られた椅子。豪華な意匠は神の威厳を象徴している。座面部分は、ペガサスの羽根を詰め込んクッション。その座り心地は、
「それにね、話してどうするの? ハル君には関係ないもの」
「ハル君……だいぶ素が出てますよ、アリシア様」
「いいのよ、別に。貴方だって、そこまで畏まる必要もない」
もうね、とくすぐったそうに女神はこぼす。
ようやく、アリシアはフィリールの方に身体を向けた。憑き物が落ちたような晴れやかな表情。ともすれば、その微笑はややあどけない。
すっと、錫杖を差し出す。女神と呼ばれる存在になってから、片時も彼女が手放さなかったものだ。そこに、神の権能の全てが詰まっている。
「ねぇ、フィリール。初仕事として、頼みたいことがあるのだけれど」
「ええと、できる範囲で、ということなら」
元上司の纏う悪戯っぽい雰囲気に、フィリールはちょっと戸惑っていた。それはその願いを聞いても、変わらない。
ともあれ、神界での一回限りの奇跡的な時間はこうして幕を下ろしたのだった。
◇
意識が自然に覚醒する。
陽清はガバっと慌ただしく身を起こした。
「どうなってるんだ……?」
すぐに、強烈な違和感に襲われた。
彼がいたのは柔らかいマットレスの上。周囲には飾り気のないデザインの家具がそれっぽく配置されている。窓際にある大きな学習机が印象的。
そこは、どう考えても柳上陽清の自室だった。
ご丁寧なことに、今自分は部屋着代わりのスウェット姿。胸に刺し傷もない。
ごくりと唾を飲み込む。
目覚めたばかりだというのに、眠気は皆無だった。わけのわからない状況に囲まれているせいで、頭は妙に冴えている。
様々な疑問が浮かんでは、彼の心に重しとなって沈んでいく。
ベッドの上で身動きすることなく、彼は怪訝そうにじっと壁の一点を見つめるばかり。胸を突き破ろうとするような心臓の動きが、かなり鬱陶しい。
カチカチカチ。
置時計の音が妙にうるさい。
振り返って、窓の方を見やる。カーテンの隙間から漏れる光は、間違いなく朝の日差しだ。
流れるように、目覚まし時計へと視線を向けた。
「……月曜日のままだ」
表示を見て、陽清は大きく目を見開いた。
そのまま四つん這いに、時計の方に近づく。力強く両手で掴み、液晶に表示されるデジタルな情報をまじまじと眺めた。
今日は、四月三度目の月曜日。時刻は、午前七時。
つまりは、自分が命を落とした日の朝だ。
それは奇しくも、異世界から帰って来た時と同じ。
またしても、死んだ日の朝に戻されていた。
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