第8話 潜む影
自宅への帰路の途中。十字路を前にして、陽清は突如として足を止めた。家までは残り三分ほど。普通に歩けば、という前提条件の下で。
たちまちくるりと後ろを振り返る。達人じみた素早く無駄のない動作。
だが、そこに異変は見当たらなかった。歩いてきた片側一車線の道が広がるだけ。路肩には、宅配トラックが一台停まっている。
陽清は腰に手を当てて、肩を落としてため息をついた。
最近、誰かにつけられている。
以前の彼ならば、フィクション憧憬症候群からくる自意識過剰だと、自嘲気味に笑うだろう。そんな感覚、他人から見れば、あまりにも痛々しい。
柳上陽清は決して特別な人間ではなかったのだから。
だが、今の陽清は異世界での経験を有している。
深い森の中、暗い洞窟の内部、廃墟と化した城内、どれだけの奇襲を受けてきたことか。
妙な気配を感じるようになったのは、先週の木曜日からだ。あの時もこうして、一人通学路を歩いていた。
あの時は気のせいだと思った。しかし,今日の昼休みの時みたいに、校舎内でも視線を感じることが重なった。
自分は誰かに見張られている。そう考えると、ちょっと気味が悪くて仕方がない。
もう一度トラックを睨みつけてから、陽清は再び前を向いた。そのままゆっくりと歩き出す。
数歩進んだところで、彼は予兆なく地面を力強く蹴り飛ばした。
スピードを制御しつつ、本来まっすぐ進むはずの十字路を右に折れる。ちょっと行ったところ、家の陰になっているところで陽清は足を止めた。
ターンをして、じっくりと何かを待つ。
傍から見れば、痛い高校生にしか見えない。
そのうちに、人影が路地から飛び出してきた。
陽清の姿を認めて、それは身体をびくつかせ止まる。
「わあっ!」
「…………椿屋さん?」
そこにいたのは、陽清と同じく美化係を務めあげる椿屋怜奈。
必死に肩を上下させながら、彼女は膝に手をついて息を整えている。よほど全力で追いかけてきたことがわかる。
それでも、何とか陽清の方を見上げてきた。長い横髪が、呼吸に合わせて弾む。特徴的な丸目は、軽く赤みが差していた。
とりあえず、陽清は容疑者が落ち着くのを待った。
彼にしても予想外の事態。相手が、こんなあからさまな罠にかかったこともそうだが、何よりその正体が。
もし昴なら、気の利いた言葉の一つや二つを掛けるだろう。だが、この男にそんな余裕はない。辛そうなクラスメイトを、心配そうに見つめるのでせいいっぱいだ。
「それで、こんなとこで何やってるんだ?」
「あの、それは、ええと、その……」
もじもじして、しどろもどろになる怜奈。赤らめ顔ぎみなのは、全力疾走の後だからだけではなさそうだ。
陽清は、表情を緩めて一つ息を吐きだした。緊張しなくていい、という意思表示のつもりだ。
「俺をつけてたんだよな」
可愛らしい尾行者はその質問に黙って頷くだけだ。今度はそっぽを向いて、陽清のことなど決して見ようともしない。
「どうしてだ?」
「お礼が、言いたくて」
「……お礼? いったいなんの」
智世をはじめとして、陽清に借りのあるクラスメイトは多い。だが、その中に怜奈はいなかった。そもそも彼女とは、係の仕事以外で関わったことはない。
心当たりなど、微塵もなかった。……無論、ただ一つを除けば。
「始業式の日、私を救ってくれたの、柳上君ですよね」
「違う。残念だが、俺じゃない。車に轢かれて、無事で済まないわけないだろ」
「でも不思議な力をお持ちのはずでは」
「……どういう意味だ」
的を射た言葉に、陽清は微かに顔を歪めてしまう。
動揺を顔に出した同級生を前にして、怜奈は勢いを取り戻していた。ばっちりと視線を合わせて、不敵な笑みを浮かべる。
「柳上君って、勉強もスポーツも万能ですよね。でも一年生の時は、そんなんじゃなかったって、聞きました」
「……能ある鷹は爪を隠す、とかって言わないか」
「だいぶ大胆不敵な発言ですよ、それ」
くすりと、怜奈は笑みをこぼした。
陽清としては、どうにも居心地が悪い。何か見透かされてる気がして、自分の劣勢をかなり強く意識させられてしまう。
「実は体育の先生に無理を言って、去年の柳上君の体力測定の結果を見せてもらいました。どの種目も平均並みか、ちょっと低いくらい。それが今年は全部学年トップだなんて、すごいですね」
「そりゃどうも。ったく、それって守秘義務違反とかじゃないのかよ」
陽清は毒づきながら、慇懃無礼に頭を下げた。
怜奈の言葉には、多分に他意が含まれている。おちょくるような、挑発するような。その顔も、口元は緩んでいるくせに、目は笑っていない。
「それと、実力テストの結果なんですけど、私の知る限り、一桁順位って初めてですよね? 柳上、なんて苗字見た覚えがありません」
「…………ああそうだな。でも、どっちも凄い努力をしたのさ」
「そう言われると、否定できませんね。素直に称賛します」
堅い言葉を使っている辺り、怜奈は不信感を拭ってはいないらしかった。実際、声の調子などは平坦なまま。
今のは我ながら苦い言い訳だった。陽清は内心舌打ちする。
だが、他に何と言えばよかったのか。実は異世界で数年冒険して帰って来たんだ、なんて言った日には、異常者としてより怪訝な視線を向けられかねない。
だから、はぐらかす。面倒事は避けたいし、向こうに余計な気遣いをさせたくない。
「ということで、俺はただの一般人だ。轢かれる寸前の椿屋さんを、救うなんてできない」
「むぅ。ほんとに、ほんとですか?」
「何度聞かれたって答えは変わらない」
怜奈はぐっと身体を近づけて、念押しをしてくる。彼女は陽清よりもかなり背が低いので、下から見上げる形だ。
不意の接近にどぎまぎしながらも、陽清は何とか言葉を返しきった。
しかし、もう限界寸前。これ以上話していると、ぼろを出しかねない。
「ともかく、もう俺をつけ回そうとするなよ。夜中とかは特にな。物騒だから」
相手の返事を待つことなく、陽清は走り出した。その姿が、ぐんぐんと小さくなっていく。
「……夜中?」
続けて、何の話だろ、と怜奈は呟いた。その瞳には、強い好奇心が宿っていた。
◇
いつか剣術を試しに来た総合公園に、陽清はいた。時刻は夜の九時を少し回ったところ。当然のように、辺りに人の姿は皆無。
怪事件は初報こそ大々的だった。だが以降は、決定的な報道はなされず。街の人間もすぐに興味を失い、その出来事は忘却の彼方に置き去りに。
今となっては、離れたところにある林の一部が欠けていることが、物証として残っているだけ。
「58……59……60っ!」
二メートル以上の高さにある鉄棒から手を放して、陽清はポンと地面に着地した。
腕にはかなりの乳酸が溜まって、さすがに呼吸は荒い。腰に手を当てて、雲だらけの夜空を見上げる。
戻ってきてからというもの、体力が有り余ってしょうがない。本来は運動など嫌いな陽清だが、身体がそれを求めていた。
初めは自室でできることをやっていたのだが、すぐに物足りなさを感じてしまった。そのためトレーニング場所は、様々な運動器具が存在するこの公園に。
公園での日課を全てこなして後は帰るだけ。もう少し息が整ったら、最後はランニングだ。家までは直線距離で二キロ、それをやや遠回りして五キロは走る。
もちろん、全力で。
「案外、何か部活でもやった方が効率的かもな」
独り呟いて、陽清はすぐにかぶりを振った。
勧誘に乗らないのは、偏に力を制御できる自信がないから。熱くなった時に、全力でプレーしかねない。その後に、待ち受けることはだいぶ想像がつく。
いっそのこと、体育が毎日あればいいのに。かつての己ではありえない思考。
当然、次の瞬間には陽清は苦笑する。第一、体育の時間でさえ不十分だ。その夜でさえこうして、日課は行うのだから。
この世界において、自分の能力は決して不要なもの。倒すべきモンスターなんて、日常にはいないのだ。
よく休憩を取ったところで、陽清は脱ぎ捨てたジャージの上を拾い上げた。草地の上に無造作に置かれたそれは、やや冷たい。この時期の夜はまだ少し寒い。
だが、それは火照った彼の身体にはちょうどいい。時折吹く風に、心地よさを感じながら、上着に袖を通す。
「無防備だね、異世界を救った英雄さんは」
声が聞こえた時には、全てはもう手遅れだった。
「っ――――!!!!」
突然、陽清の胸からナイフが生えてきた。
炭酸が弾けるように血が噴き出る。
ナイフの切先は赤く染まり、刃を伝って血が彼の胸元を汚す。
その一撃は、陽清の心臓を完璧に貫いていた。口からゴフッと、血の塊が飛び出る。
「あっけない」
「くっ……はっ……!」
声の主は勢いよくナイフを引き抜いた。一気に、鮮血が夜闇に飛び出す。
陽清の身体はゆっくりと崩れ落ちて行った。身体の向きを変えようとして、不格好に地面に仰向けになる。
吐き出す息は耳障りなほど荒く、全身から嫌な汗がとめどなく流れ続ける。
身体の中心部分が
それでも、何とか犯人の顔を見ようと、陽清は顔を動かす。
だが、見当たらない。賊は目的を果たしたと確信して、音もなく立ち去った後だった。
不思議と痛みは薄れ始める。代わりに視界がどんどんとぼやけていった。自分という感覚が曖昧模糊と揺らぐ。
全てがドロドロに溶けて混ざり合う。着実に
陽清はそれをよくわかっていた。
いったい何度、いや何百回と、向こうの世界で命を落としたことか。一通りの死因は経験済みだ。
だが、今回はそのどれとも決定的に違うことが一つあった。そのことを、彼自身がよくわかっている。
だってここは、自分が本来いるべき世界なのだから。
「アリ、シア……」
呟いた名は、二度と会うことのない女神の名前。
天に向かって、陽清はよろよろと手を伸ばす。それは、この身体でできる最後の抵抗。
救いを求めたのか。それとも、ただ心残りだっただけか。あるいは、死の間際の気まぐれか。
理由は誰にもわからない。当人でさえそうなのだ。
ゆっくりと瞼が落ちていく。
腕は力なく胸元へ。全身から、徐々に力が抜け、寒気を感じ始めた。
あっけない。いつも思うが、命の終わりとは実に無感動だ。陽清は、憎らしげに唇を曲げた。
心臓の鼓動が、どんどん鈍くなっていくのを、ひたと感じる。
後悔も疑問も恐怖も存在しない。
ぐちゃぐちゃとなった思考のまま、瞼が閉じていく。
やがて、陽清の意識は深い闇の中へと沈んでいった。
どこまでも、終わりなく、二度と浮上できないところにまで。
空には、いつの間にか月が輝いていた。
吹き抜けるそよ風は木花を揺らし、横たわった青年の身体をそっと撫でる。
恐ろしいまでの静寂が広がり、月明かりは辺りを薄く照らす。
どこまでも、寂しげな風景。
それが、柳上陽清の最期の瞬間だった。
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