第6話 そして日常へ

 夜の住宅街は、ひっそりと静まり返っている。等間隔に並ぶ街灯が、とぼとぼ歩く男を照らしていた。背中からは哀愁が漂う。彼以外に、通行人の姿はなかった。


 半ば予想がついていたことだけれども、陽清はその結果にかなり落胆していた。


 この身体は異世界で過ごした時のまま。身体能力は上がったままで、身に着けた剣術も自由に発揮できる。昼間の体育を経て、彼はそう結論付けた。

 となれば、もう一つ期すべきところがある。


 ――魔法だ。


「しかし、見事に何も起きなかったのである」


 ぽつりと漏らした呟きは、たちまち空へと吸い込まれていく。

 代わりに冷たい北風が異世界帰りに襲い掛かる。


 ランニングがてら、この間とは別の公園を見つけ出し、試行錯誤すること一時間。

 身に着けた数々の呪文は、意味のない羅列と化していた。


 虚空に向かって、やれ火炎ファイアだの、加速アクセルだの、治癒キュアだの、叫んでいると、その姿はどう見ても不審者のそれ。

 しまいには、本人自体も羞恥心を感じる始末。最後の呪文を口遊んだ後、彼は逃げるように公園を去った。

 

 だがしかし。

 魔法が使えたところで、何かあるわけでもない。確かに、日常生活に便利なものはいくつかあるが、ないならないで別に構わない。

 だってそれは、今まではなかったものだ。異世界から戻ってきた、というのはそういうことだ。神秘ありえないことと決別し、この世界の理に従って生きていく。


 だから、ちょっとはがっかりしながらも、陽清はそこまで気にしていなかった……というのは、ただの強がりだが。

 

 あれやこれやと考えている内に、気が付けば自宅の前に。

 苦笑しながら、陽清はドアを開けた。鍵はかかっていない。不用心だと思いつつ、外出時とは違いがある玄関を見てすぐに考えを改めた。


「あ、兄さん、帰ってきた」

「わざわざお出迎えか。これは、どうもありがとう」

「そういうわけじゃないし。たまたま、ですけど」


 玄関からまっすぐに伸びる廊下の途中に、星佳が立っていた。パジャマ姿で、しっとりと髪が濡れている。どうやら、ちょうど風呂からあがったところらしい

 彼女はムッとした表情で、陽清の方に近づいてきた。甘ったるい香りが、ぶわっと広がる。


「そうか。いまだに毎朝、一緒に登校するようせがんでくる辺り、そういう可能性があってもおかしくないと思ったんだけどな」

「なっ……! だ、だれも、せがんでなんか! わたしは、兄さんが一人だと寂しいだろうからって」

「へいへい、いつも感謝してますよ。心優しい妹を持って、俺は本当に幸せ者だなぁ」

「そうそう、感謝してよね。――そうだ。父さんが話があるって」


 悪態をつきながらも、恥ずかしい様子を隠せない星佳。だが、本来の用件を思い出し、無理矢理表情を取り繕う。


 陽清はちょっとだけ眉根を寄せた。そのまま首を傾げる


「親父殿が? 悪いことをした覚えはないんだが」

「現在進行形でしてるでしょ」

「妹とお喋りするのが罪だとは恐れ入った」

「……はあ。リビングにいるから早めに行った方がいいよ。今頃お酒が十分回っている頃かも」


 星佳は冷やかすように言って、駆け足で階段を上っていった。

 タンタンタンと、リズミカルな音が止むのを待って、陽清はようやく靴を脱いだ。しっかりと靴を揃えてから、自分に用があるという人物のもとへ向かう。


 リビングに入ってすぐ、細い通路を抜けると、全体を見渡せる。父親は、一人食卓にいて、晩飯兼晩酌を楽しんでいた。


「陽清、帰ったか。おかえり」

「ただいま。親父の方こそおかえり」

「おう、ただいま」

「相変わらず、奇妙なやり取りしてるわね、この親子は」


 けだるげな声が飛んできたのは、テレビ近くのソファの方から。

 ぐでっとした格好で座っているのは母親。息子の方には目もくれない。


 目の前に座るよう父に顎で促されるままに、陽清は腰を下ろす。


「で、何の用でしょうか?」

「それはこっちのセリフでもある。最近、夜中にどこほっつき歩いてやがる」

「夜の散歩、あるいは、身体づくりのランニング」

「お前がどっちもするようなタマか。筋金入りのインドア人間め」

「子どもの頃は親父殿に散々外で遊んでもらいましたけど?」


 予想通りの問答に、陽清は至極冷静に言葉を返す。


 父は、減らず口をと言って、息子をじっと見つめた。ちゃんと答えろ、とその目はきつく語っている。


「別に悪いことをしてるわけじゃないよ」

「それは当たり前だ。もしそうだとしたら、すぐにでも警察に通報しなければ」

「市民の義務をよく守ってるんですね、親父殿」

「ああ、俺は小市民だからな」

「自分で言うことかしら、それ」


 またもやおかしな言い合いを始めた夫と長男に、たちまちソファの主は茶々を入れた。テレビに視線を固定しながらも、耳だけは二人の方に向いているようだ。


「そんな深刻な問題じゃないでしょ。深夜徘徊ってわけでもなし。塾通いの子なら、もう少し遅いわよ」

「それはちゃんとした目的があるからだろ。ハルの場合は違う。逆に、月子つきこは心配じゃないのか」

「これがセイだったら、あたしも叱るけど。でも、ハルだしねぇ。男の子だし、それにもう高校二年生だから、あまり気にかけるのも過保護ってものでしょ」

「しかしだなぁ」

「そもそも、毎晩帰宅が遅いどこかの誰かさんが言う資格はないんじゃなくて」


 それは、父にクリティカルヒットした。

 父はたちまち言葉を飲み込んで、神妙な顔をしてしまった。どこか気まずそうに、視線を泳がせる。


「ということだ。まあ、ほどほどにな」

「親父の方こそ、残業をほどほどに。身体、気を付けろよ」

「けっ。息子に心配されるようじゃ俺も先が知られるな」

「照れてるのよ、お父さん」

「知ってる」

「つきちゃ~ん、いちいちやめてくれよ……」


 陽清の父大地は、見た目こそ昔気質の堅苦しい真面目人間風だ。顔に深く刻まれた皺は、それなりに威厳を感じさせ、基本的には表情が硬い。

 だが、中身はそれに伴っていなかった。それでもこうして、子どもたちの前だけでは立派な父親像を演じようとする。

 大抵は、妻の手によって、粉々に粉砕されるが。


 話は終わった、と言わんばかりに、勢いよく陽清は立ち上がった。いつまでもここにいたら、そろそろいい年になる夫婦のじゃれ合いを見せつけられかねない。


 そのまま強い足取りで、リビングを出て行こうとする。

 だが、その扉の前で一度立ち止まると、躊躇いがちに後ろを振り返った。


「心配かけてごめん」


 小さい、聞こえないくらいの声量で呟くと、彼はすぐに歩き出した。その顔には僅かに赤みが差し、扉の開閉は素早い。


「なんかあいつ、大人になったな」

「そう? 高校二年生って、あんなもんじゃないかしら。――それより、早く片付けてくださるかしら、ご主人様!」


 陽清の去ったリビングでは、月子が夫に対して憤りを露わにしていた。毎晩毎晩のやり取り。だから、これは形式上の物にすぎない。

 大地もまた、ポーズとして謝罪の言葉を口にしながら、食事を再開する。先ほど感じた、息子へのちょっとした違和感など、とうに消え去っていた。


 これが、柳上陽清の日常。あまりにも平穏で、あまりにもありふれている。


 だから、魔法なんて彼には必要ないのだ。待ち受ける冒険も、倒すべき敵も、この世界には存在しないのだから


 しかし、そんな彼を監視する者たちがいた。元勇者が、それに気づくのはもう少し後の話。



        ◇



 ――とん。

 錫杖を一つつくと、水面に波紋が広がった。浮かんでいた映像は、歪んでゆっくり消えていく。


 やがて、室内は再び暗黒に包まれた。奥行きも何もなく、ただぽつりと、一脚の椅子が存在するのみ。


「また見ていらしたのですか、アリシアさま」


 声を掛けられる前に、彼女――女神アリシアは振り返っていた。静寂が支配する漆黒の部屋に、しないはずの足音を聞いて。


 歩み寄ってくるのは、背の高いすらっとした女性。やはりというか、アリシアと同じように清らかな雰囲気を漂わせている。


「覗き見なんて趣味が悪いわね、フィリール」

「それは、あなたさまの方でしょうに」

「じゃあ、お互い様か」


 アリシアはふっと頬を緩める。どこまでも淑やかで洗練された仕草だ。

 対照的に、フィリールは少し顔をしかめた。こほんと、わざとらしく咳ばらいをして非難を顕わにする。


「で、用件は何でしょう、女神見習いフィリールよ」

「お夜食をご用意しました、女神アリシア」

「いらないわよ。太るもん」

「それはいつもぐうたらしてるからですよ」


 フィリールは、部屋の片隅に目をやった。闇が晴れて現れたのは、人間界から持ちこんだ娯楽の品々だった。

 咎められたアリシアは、むすっとしたまま頬を膨らませる。荒っぽく杖を叩いて、それらをまた闇の中に隠す。


「ではいっそのこと、フィットネスクラブでも始めましょう。会員は、貴女とワタシだけ、ですけれど」

「またおかしな言葉を覚えて……そんなに向こうの世界が――いえ、あの人のことが気になりますか」

「そんなわけあるはずがないでしょう?」

「知ってますか? アリシア様は、嘘をつくとき右の眉が吊り上がるのです」

「それはあなたの見間違いではなくて、フィリール?」


 あからさまなブラフを、アリシアは表情を変える事なく毅然と払う。女神然としたその姿に、後光さえ差し込んだ。


 ……もっとも、すぐに右眉に触れたものだから、全てが台無しになったのだが。


「そんなにお気に入りなら、ここに留めておけばよかったのに」

「残念だけど、秒で断られたわ。こんな何もないとこは嫌だ、って」

「真の姿を見せればよかったのでは?」

「そういうわけにはいきません」


 主の言うことに、フィリールは鈍い反応を見せた。神界でのルールは不文律につき、この従者も女神の発言に理解が及ばないことは意外と多い。


「……では、せめてこっちの世界にいさせる、というのは」

「ダメよ。隣の部屋で聞いてなかった? 彼は役目を果たしたの。それはつまり、居場所を失ったのと同義。元々この世界の尊大でない彼は、速やかに退出するしかない」

「厳しいんですねぇ、そして色々と面倒……」


 フィリールは素直な感想を述べる。異世界者の扱いなんて、神の占有事項。詳しい取り扱いなど、彼女の知るところではない。


 従者の間延びした一言に、アリシアはくすりと笑みを零す。時折見せる素の姿は、なんとも女神の好みであった。


「ということで、向こうの世界に還してあげるしかなかったわけです」

「もう二度と、彼がここに来ることはないのですか?」

「当然でしょう。違う世界にいるのだから、ワタシはもう干渉できない。できるのは、ただこうして視ていることだけ」

「でも、一度は来たわけですよね? だったら、もう一回くらい」

「それはこの世界が危機に瀕したから、取り決めによる契約ルールで――って、一から説明するのは、面倒だからしないわ」


 女神はげんなりした顔で、手を力なく振った。口調の砕け方からして、心底うんざりしている。


 ほっと安堵の息を漏らす従者フィリール。どうせ長話になるのは目に見えている。それに付き合う気分ではなかった。

 なにより――


「ほら、アリシア様。さっさと行きますよ。夜食が無駄になっちゃいますから」

「はいはい。で、メニューは何なのでしょう」

「いんすたんとらーめん、というやつです。美味しそうだったので取り寄せてみました」

「……あなたもしっかり、あっちの世界に興味あるんじゃない」


 苦笑して、アリシアは立ち上がった。先を歩くフィリールの後ろに、黙ってついていく。


 部屋を後にする前、彼女は一度後ろを振り返った。

 そこにはなにもない。厳密にいえば、見えていないだけだ。座に立てかけてある、豪奢な杖を振るえば、そのベールは剥がれる。


 向こうの世界に干渉はできない、というのは嘘だった。正しくは、するつもりはない、だ。

 この世界を救ってくれた勇者は、本来の居場所で元通りの生活を取り戻している。


(ただ、万が一のことがあれば――)


 思いかけて、女神は自らを自嘲気味に顔を歪める。

 一瞬思い浮かべたようなことは起こりえない。彼は――柳上陽清は、決してもう女神の加護を必要とはしないのだから。

 彼は向こうの世界で、平穏無事に過ごしていく。


 それでも、あるいは、もしかすれば。

 儚く、いじらしい未練が、女神にらしくない行動をさせていた。

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