第2話 運命の出会い

 何が起きたのか。


 突き飛ばされた女子生徒――椿屋怜奈つばきやれいなは、自らに降りかかったトラブルに、全く理解が追い付いていない。

 手を後ろについたまま、浅い呼吸を繰り返す。目を見開いて、ただ呆然と目の前の景色を見やっていた。


 黒い乗用車が、横断歩道の白いラインを大胆に侵している。もくもくと煙を上げて停車するは、ほんの一瞬前まで怜奈がいた場所。


 恐怖は遅れてやってきた。あと一歩、タイミングがずれていれば――その先のことを考えると、彼女の身に悪寒が走る。


 車のフロント部分は、酷い有様だ。ボンネットはひしゃげ、ガラスは前面ひび割れ。その奥で、運転手がぐったりとしている。激しい衝突があったことは、火を見るよりも明らか。

 猛スピードで交差点に突っ込んできた車が動きを止めた理由は、ひとえにその衝突にあった。


「……あ、あの、大丈夫ですか?」


 怜奈はおずおずと言葉を発する。


 彼女と車の間には、一人の男が立ち塞がっていた。着ている制服は、彼女の通う高校のモノ。後ろ姿だけでは、素性に判断はつかない。


「これは……」


 困惑しているのは男子生徒も同じだった。険しい顔をして、自分の身体の異常を確かめている。


 法定速度を大幅に上回った車とぶつかったのに、彼は相も変わらず仁王立ちしたまま。無傷らしく、辺りに一滴の血痕すら残っていない。


「ええと、お礼を……。その、助けていただいてありがとうございました」


 頭の中がぼんやりしながらも、怜奈はゆっくり立ち上がる。

 そして、男子生徒の前側に回り込もうとしたのだが。


「ま、待って!」


 次の瞬間には、男は走り出していた。あっという間にその姿は角を曲がって消えてしまう。


 怜奈はただ唖然とするしかなかった。仮にも事故に遭ったというのに、彼の動きはあまりにも俊敏だった。

 もしかして陸上部の人なのだろうか。制服の裾をあちこち払いながら、怜奈は暢気なことを考える。


「お礼、言いそびれちゃった……」


 ぼんやりと、男子生徒が走り去っていた方向を見つめる怜奈。未だ、彼女は困惑したまま。

 わかるのは、事故に巻き込まれかけたのを救われたことだけ。手首が少し痛むが、それ以外に身体に異常はない。


 漠然と佇む怜奈を現実に引き戻したのは、近くを車が通りがかった時だった。時間にして、数分後の出来事。


 路肩に停車した車から、運転手の女性が血相を変えて降りてくる。怜奈の方へ近づくと、何があったのかとすかさず問いかけた。


 その後、手分けして事後処理が始まった。警察と救急車を呼び、怜奈は煩雑な事情聴取に巻き込まれていく。

 せっかくの始業式。学年が変わって、一年を決めるうえで最も大事な日に乗り遅れてしまうことになった。


 これからどうなるのだろう。はっきりしない不安が、彼女の胸の中に広がっていく。とんだ門出になったと、やや自嘲気味になる。

 その中で、逃げ去ってしまった彼のことが一番気掛かりだった。自らを省みず、自分を助けてくれた勇敢な人。


 感謝の気持ちを伝えないといけない。そして、どうしても訊きたいことがある。


「あの人、何者だったんだろ」


 現実的にあり得ないあの身体の頑丈さが、何よりも怜奈の興味を惹いてやまなかった。



        ◇



 交差点からも学校からも離れた人気のないところで、陽清は足を止めた。

 息は軽く弾んでいるが、少しも苦しくはない。異世界むこうでは、もっと重装備で走り回っていたくらいだ。そこからすれば、大したことのない全力疾走。


 けれど、彼は大層戸惑っていた。自分の身体に、現在進行形で生じている異変に。


 柳上陽清は、取り立てて運動が得意なわけではない。むしろ、体育の授業――とりわけなんて忌み嫌うほど。タイムは遅い方だし、走り終われば倒れ込む。

 つまり、体力は高校生男子の平均よりやや下。運動神経だって、同世代の中で悪い方。


 でも彼は、500メートルほどの距離を一分もしないで駆け抜けていた。それでいて、疲労感はなし。

 そもそも、あるべきはずの痛みが皆無。自動車と大激突を果たしたというのに。


「どうなってるんだ、いったい……」


 あの時、確かに覚悟をした。強烈な衝撃が身体を襲うのを。盛大に轢き潰されることを。間違いなく死が訪れることを。

 それを是として、彼女と車の間に割り込んだ。ご丁寧に、大きく手を広げて、身を挺す姿勢で。


『死んだから、あなたはここにいるのです』


 女神と名乗るけったいな格好の女は、慌てふためく陽清に冷たく言い放った。


 はっきりと脳に刻み込まれた記憶。そして、今度ばかりは同じ事は起こらないと、本能的に理解していた。


 柳上陽清はあの場で命を落とすはずだった。


 だが結果は違う。

 彼はピンピンしている。イカれたのは、自動車側だ。


 別に、元々肉体が頑強だったわけじゃない。むしろ、貧弱の部類に入る。

 上背だけ、同年代の平均を少し超えるが、体重は軽い方。筋肉量だって、かなり少ない。


 だからこれは、間違いなく異常だ。先の運動能力の件といい、自分の肉体に何か変化が起きている。

 他でもない陽清自身がそう考えたからこそ、その場を逃げ出した。女子生徒の安否は気になったが、見た目には無事に見えたわけだし。


 立ち尽くす陽清の横を、一台の自転車が通り過ぎていく。乗っているのは、やはり彼と同じ高校の男子学生。

 遠ざかって行く後ろ姿をぼんやりと眺めて、我に返った。謎は残るものの、今は学校に急がなければいけない。

 新学期初日から遅刻なんて、悪目立ちが過ぎる。


 今度は別に走るでもなく、彼はゆっくりと一歩を踏み出した。

 イレギュラーはあったが、十分に間に合う時間だ。


 さっきのことはひとまず忘れよう。今は取り戻した日常に適応しなければならない。

 そう自分に言い聞かせる陽清の頭には、先の事故現場の映像がずっとこびりついていた。


        ◇



 新しいクラスになったというのに、二年三組の教室内は騒がしい。

 生徒たちの歓談の声で満ちている。話題は様々。旧知だから取り留めのないことを話すものもあれば、ご丁寧に自己紹介を交わすものもある。


 そんな中、教室ほぼ中央の席でこそこそとスマホを弄っている人物がいた。

 彼は好きでそんな目立つ場所にいるわけではない。出席番号が男子の中で最後なので、女子との境となるところに座らされているだけ。


 そんな《陽当たり》のいい場所で、彼は一人外界から取り残されていた。


(スマホはマジで便利だわ)


 SNSの検索バーには、御嘉地みかち学園の文字。その下に、いくつかの書き込みがヒットしている。

 だがどれも、大した中身はない。


 ちょっとした感動を覚えながら、陽清は少し落胆した。知りたかったのは事故の詳細、あの女子の安否。


「顔、汚れてるぜ?」

「……え?」


 突然話しかけられ、彼はスマホを落としそうになった。

 挙動不審になりながら、声のした方を見る。


 その主は右隣の男子生徒だった。セットに時間のかかっていそうな髪型に、浅黒く焼けた肌。爽やかな感じのするイケメンで、陽清とは住む世界が違いそう。

 彼は、陽清に示すように、自分の頬を指さした。ニカッと気持ちのいい笑みを浮かべながら。


「ここ、ここ」

「ここ?」

「いや、そっちじゃなくて……とりあえずほら、これ使えよ」


 爽やかイケメンは、顔の汚れたクラスメイトに向かって、ウエットティッシュの容器を差し出した。


 いきなりすぎて、自覚のない陽清は戸惑うばかり。容器と男子の顔をちょっと見比べて、やがておずおずと手を伸ばす。


「一枚だけだぜ?」

「ああ、ええと、ありがとう」

「気にすんなよ」


 取り出したウエットティッシュで、顔全体を拭く陽清。改めて眺めると、ところどころに黒い汚れがついていた。

 きっと事故の時に付着したものだろう、そう自己解決して、忌々しげに丸めた。制服の身だしなみには気を付けたが、他の所まで考えが及んでいなかった。


「俺、南波昴ななみすばる。お前は?」

「……柳上陽清」

「陽清か、よろしくな」


 昴は満足した様子でにっこりとほほ笑んだ。どこか人懐っこい印象があり、彼の少年らしさを見事に演出している。


 見た目、雰囲気ともに、南波昴は陽キャだろう。少なくとも、陽清はそう思った。地味で大人しい自分とは真逆の人物。つい、苦手意識を覚えてしまう。


「で、お前、鏡見てこなかったのか。もしかして、寝坊したとか」

「そういうわけじゃないけども」

「ふうん。じゃあ来る途中で何かトラブった」

「……いやそんなこともない。どこで汚れたんだろうな」


 昴は退屈そうに鼻を鳴らした。元々そんなに興味があるわけではなかった。


 無意識といえど真実に迫られて、陽清はかなりドキリとしていた。取り繕った笑顔は少しだけ不自然だ。


「そういえばさ、陽清は何組だった?」

「七組」

「だったら、マサキとかユウイチとかわかる? 俺、バスケ部で一緒でさ」


 陽清は曖昧に言葉を返した。いたような気もすれば、いなかったような気もする。名字で指摘されれば、さすがに思い出すが。

 

 他愛もない話は、担任の教師がやってくるまで続いた。その頃にはもう、陽清の中のこの爽やかイケメンの印象は少しだけ変わっていた。

 案外いい奴なのかもしれない。人は見かけによらない。それは、陽清自身にも当てはまることだ。

 

 賑やかな教室の中には、勇者ハルキヨの姿はどこにも存在しなかった。

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