第92話 挑戦者

 カーテンの隙間から朝日が覗いていた。 

 薄く目を開けた俺は、思わず手で目を覆う。


 ちょっとだけ寝返りを打つ。


「……すぅ……すぅ」


 美也が俺の隣で寝息を立てていた。

 心地よい疲労が全身を包み込んでいる。


 一体何時間くらい眠っていたのだろう。

 いつ眠りについたのか定かではなかった。


 なにせ全てが終わった後はお互いスイッチが切れたように眠りについたものだから、記憶が曖昧だった。


「……美也?」


 俺は美也を揺り起こした。

 甘い幻想に浸る時間はここまで。

 そろそろ起きなくては。


「……んぅ」


 気持ちよく眠る美也を起こすのは忍びなかったが、いつまでも眠りこけているわけにはいかない。


「起きないと」

「……ん」


 美也は薄く目を開けた。

 この宝石のように輝く橙色の瞳を見るのも、久しぶりな気がした。


 というのも美也はずっと目を閉じていたものだから、もしかして俺は直視するのも憚られるような醜い顔をしていたのか、と不安になったものだ。


「……シュウ」

 

 力を抜くように美也はいった。


「そうだ、俺だぞ」

「……んぅ」


 自然と密着してきた。

 お互い裸である。


 下着がベッド周りに散乱したままだ。

 恐ろしく退廃的である。

 

「……このままやってたら昼になっちゃうぞ?」

「……むぅ」



 朝はナチュラルに口数が少ないのか、美也は気だるげに答えた。

 

「ほら、体起こして」


 美也の脇の下に手を入れ、強制的に体を起こさせた。


「下着を……ていうか、その前にシャワー浴びた方がいいな」

「……んむ」

「一人で立てるか?」

「……抱っこして」

「そんな、赤ん坊じゃないんだから」

「……腰、痛い」

「……わかったよ」


 それを切り出されたら言う通りにするしかなかった。

 美也を抱きかかえ、浴室に向かう。


 こういう時、ごめん、と言った方がいいのか少し悩んだ。


 もう別々にシャワーを浴びるのも面倒臭かったので、一緒に浴びた。

 

 ♢


 美也は朝食を済ませると、早速勉強机に向かった。

 俺は、とある人物に電話をかけていた。


 美也の大学進学に際し、学費は誰が工面するのか。

 奨学金も考えたが、はっきり言って難しいだろう、と思っていた。


 経緯はどうあれ、美也は中学卒業からこの歳まで引きこもっていたといわれても反論できない立場だ。

 探せば美也でももらえる奨学金があるのだろうが、それよりももっと確実な方法がある。


 金のある協力者に頼るのだ。


「もしもし、黒瀧です」

『黒瀧君か? どうしたのだ?』


 西ノ宮和文。美也の祖父だ。


「実は――」


 事を手短に伝える。

 要は美也の大学の学費を出してもらいたい、という話だ。


 この人は何かあったらいつでも連絡してきなさい、と名刺まで渡してきた人だ。

 きっと力になってくれる。

 逆にそれ以外に当てにできる人物がいなかった。


『ふむ、なるほどな』


 重々しく頷く気配があった。


『そのような金を用意するのは容易い』

「でしたら」

『まあ、待ちたまえ。容易いが、大金であることには違いない。それはわかるな?』

「わかってます」


 だからこそこの人に頼んでいるのだ。


『ポンと差し出す金でもない。故にいくらか、条件を設けさせてもらう』

「条件?」


 この人物は美也の祖父であることに違いないが、あくまでもこの人は俺に美也を託すことに決めている。

 故に協力するといっても過干渉はしないつもりなのだろう。


『まず、来年の入試には一発で合格すること』

「え、来年?」

 

 再来年のことだと思っていた俺は驚きを隠せなかった。

 来年ということは、つまり今から一月までに仕上げなければならないということだ。


「待ってください。帝東大の医学部ですよ? いくらなんでも今からじゃ間に合いません」

『大丈夫だ、問題ないだろう』

「せめてもう一年くらい猶予がないと」

『一年といってもね、美也はもう同年代の子と比べて一年遅れているんだよ? これ以上遅れを取るわけにはいかないだろう』

「しかし、今八月ですよ?」

『美也であれば、今からでも間に合う。君なら美也の知能は既に目の当たりにしているだろう?』


 確かに、美也の計算能力は目を見張るものがある。きっと俺がまだ知らないだけで、頭もずっといいのだろう。


 だがそれでも五分五分だと考えていた。

 医学部以前に、帝東大もかなり難易度は高い。


『あの子にとっての一年、君にとっての一年、そして私にとっての一年。同じ一年でも込められている価値は違う。もう一年も無駄にはできんのだよ』


 確かにその通りだと、認めざるを得ない。

 美也はこれから、失った月日を取り戻していかなければならない。

 そんな時にもう一年などと悠長に考えてはいられない。


 認識を改めなければ。


『そして次に、留年はしないこと』

「はい、それはもちろん」

『そして最後に……目指すからには、必ず医者になることだ』


 重々しい口調から一転、最後の言葉は慈愛に満ちた優しいものだった。

 きっと本人にいってやりたかっただろう。


 しかし彼もまた、白石玄水と同じ業を背負っている男だ。

 美也と関わろうとはしないだろう。


『この三つの条件を満たすこと。一つでも満たさなかったら、その時点でこの話は無しだ』

「わかりました」

 

 しかし意外と普通の条件である。

 てっきりとんでもなく難しい条件を出されるのではないかと身構えていた分、拍子抜けした。


 まあ、三つとも易しい条件というわけでもないが、常識の範囲内だろう。


『では、私は失礼するよ』

「はい、ありがとうございました」


 俺はその場で一礼し、電話を切る。

 これで一応学費の件は解決だ。


 俺はすぐに別の電話番号にかけた。

 美也が勉強するにあたり、何よりも欠けているのは教材、テキストだ。

 

 俺が持っていた高校の教科書や参考書は一部を除いて実家に置いてきたか、あるいは捨てたかだ。

 大学に入ってからも勉強する英語のテキストだけは充実している。


『もしも〜し、こども110番で〜す』

「……おはよう、我が妹」

『ん、我が兄か』

「お前、寝起きだな?」


 さしずめ親からのモーニングコールだと思ったのだろう。

 寝起きの祐奈は必ずと言っていいほど不機嫌だ。


 そして不機嫌な時の祐奈はあえてふざけた態度を取ることが多い。

 まあ、いつもふざけた奴だが。


『おふぅ、兄の低音ボイスでまた寝ちゃいそう』

「電話中に寝るんじゃない」

『それで何の用なの、兄?』

「ああ、お前高校のテキストで余ってるのないか?」

『ん? テキスト?』

「一年で使わなくなった教科書とか、使ってない参考書とか」

『まあ、あるけど』

「それさ、譲ってくれないか?」

『え?』


 祐奈が怪訝な声を出した。


『別にいいけど、何で?』

「なんでって、そりゃ……」


 別に話したっていいだろう。

 隠すようなことでもない。


『へえ、美也ちゃんが大学に?』

「そうだ。だからテキストがいる」

『だったら喜んであげるよ、どうせ使わないし』


 今持ってるテキストもどうせ使わないだろうに、という言葉はすんでのところで呑み込んだ。


「ありがとうな。それと、実家に置いてある俺の教科書とかも探してくれないか? 明日取りに行くから」


 もしかしたら赤本もあるかもしれない。


「それと、この話星くんにも伝えてくれないか? 念のために」

『オッケーオッケー、任せておいて』


 電話を切る。

 そしてまた次の電話番号にかけた。


『……うぃ、須郷です』

「お前寝起きだろ」


 教師に呼び止めらて不貞腐れた不良のようなテンションだった。


『……何の用だ?』

「実はな――」


 先ほどと同じ説明を繰り返す。

 祐奈一人では心もとない。

 参考書やテキストは多ければ多いほどいいだろう。


『え、美也ちゃん帝東大うちの医学部受けるの?』

「そうだ。だからなんかいらなくなった参考書とか持ってないか?」

『どうだろうな……大半は実家に置いてきてるからな。少しだけしかないぞ』

「それでも心強い」

『それでいいならいいけどな。でも、俺はどうせ暇だし。実家に帰って段ボールでも漁ってみる』

「助かるよ」

『いいってことよ』

 

 電話越しで須郷が得意げな顔を浮かべるのが容易に想像できる。

 電話を切り、そしてまた次の番号へ。


 須郷から綾瀬へ。

 綾瀬から毛利、そして楠本先輩。


 そのすべての人が、協力するといってくれた。

 これだけでだいぶテキストは充実するはずだ。

 足りない教科があるときは買い足せばいいだろう。

 携帯をしまう。


 美也はその間もずっと、机に向かっていた。

 今は八月の終わりに差しかかっている。


 一月のセンター試験――今は別の名前になっているが――までは半年もない。


 それまでに、果たして間に合うのかどうか。

 予備校に通うことも提案したが、美也はやんわりと断った。


 彼女は自分のペースで勉強するほうが捗るようだ。

 独学で高認試験をパスしただけはある。


「なあ、美也?」

「……ん?」

「何か手伝ってほしいことあるか?」


 手持ち無沙汰だった俺は、美也に尋ねる。


「……ううん、大丈夫」

「……そっか」

「……でもね」

「うん?」

「……シュウは……見ててほしい」

「見ててほしい?」

「……うん」


 言ってから恥ずかしさが勝ったのか、美也は顔を伏せる。


「見守ってて、ほしい……」


 俺は迷うことなく、「わかった」と返した。

 昨晩も美也は言っていた。

 俺に、見守ってほしい、と。

 いくら才能があっても、たとえ一人で全部こなせるとしても、美也を一人にさせるわけにはいかない。


「見守ってる。けど、何か手伝ってほしいなら言ってくれよ?」

「……うん」


 美也ははにかむように笑った。

 俺の視線を受け止めながら勉強する美也は、真剣さを滲ませた表情ではあるもののどこか穏やかさがあった。


 その様子を見て、俺は大丈夫だ、と確信する。

 きっと美也なら、大丈夫だ。

 俺が傍にいる。

 一人にしないと決めたのだ。

 

 俺はベッドに腰かける。

 部屋を照らす朝日に眩しさを感じながら、俺は美也をただ見守っていた。

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