第91話 目を閉じれば

 新田が帰った後、俺と美也は順番に風呂に入った。


 事が終わってみると自分が思っている以上に疲弊していることに気づく。

 体力というより、気力を使った一日だった。


 だが、目的は達することができたという安堵もある。


 こういう幕引きがベストであったのか、俺にはわからない。少なくとも美也と白石玄水が納得しているのなら、俺がこれ以上口を出すべきではないのだろう。


 風呂から上がると、美也がベッドの上で手招きをしていた。

 手にはブラシが握られている。


「よし、わかった」  


 いつものブラッシングである。

 美也は背を向ける。


 淡色の、絹のような髪にブラシを通す。

 一切の抵抗なく、スルスルと通った。


 膝までかかる長髪なのに、一体どういう手入れをしているのだろうか。


「なあ、美也?」

「……ん?」


 美也は振り返らずに返した。


「あのペンダント、渡してよかったのか?」

「……うん」


 美也は頷く。


「それはまた、どうして?」

「……あれは、お父さんに必要なものだから」

「必要、か」

「うん」


 美也は言っていた。

 お父さんは独りだから、と。

 

「お父さんは……可哀そうな人、だと思う」

「可哀そう?」

「うん。……寂しそう、だった」


 今まで父親に対して悪印象しか持っていなかった美也が同情の念を見せたことに、少しだけ驚く。


 だが、俺も同意見だった。

 あの人は、まるで十字架でも背負っているかのようだった。

 それであそこまで卑屈だったのだろう。


 彼は、自分がやったことは美也の引き取り手を探していたことぐらいだと言っていた割に、美也の病の治療や、高認試験の手配までしていた。


 実際は、自分が思っているよりもずっと美也のことを気にかけていたはずなのだ。


 しばし沈黙が続いた後、美也が息を吐くようにいう。


「お母さんの決断は……間違っていた、と思う」

「え?」


 ブラシを持つ手が止まる。


「二人はやっぱり、一緒にいないと」


 美也は俺に言っているというよりも、自分自身に言って聞かせているかのようだった。


「大切な人とは、一緒にいなきゃ、ダメ……だと思う」

「……そうか」


 ブラッシングを再開する。

 一度孤独を味わった美也だからこそ、父親の気持ちがわかってしまうのだろう。


 そして、あれだけ母親のことを敬愛していた美也が母親の決断を間違っていた、というのは、それだけ二人に一緒にいて欲しかった証左でもあるのだろう。


「ねえ……?」


 美也が振り向く。

 上目遣いで、俺の目をじっと見つめる。


「シュウ……は」


 俺の手にそっと指を絡ませてくる。


「シュウは、ずっと一緒にいてくれる?」


 不安を滲ませた表情だった。

 美也の指に込める力が強くなった。


 俺は美也の手を握り返すと、背中に手を回し、抱き寄せる。


「離れやしないよ」

「……ん」


 未来は誰にもわからない。

 ずっとそばにいられるか、なんて断言できない。

 

 でも、俺はこの子から離れるつもりは毛頭ないし、そして離れたくない。

 きっとこの想いだけは変わらないと断言できる。


「私、大学、行く」


 美也は俺に抱きしめられながら、そういった。


「決めてくれたのか」

「うん。今、きめた」

「よかった」

「見守って、くれる?」

「もちろんだ」


 大学への入学、しかも医学部となれば半端な勉強では到底敵わないだろう。

 しかしそれでも美也が望むなら、俺はそれを全力で応援してやりたい。


 体を離す。

 少しだけ顔が火照っていた。


「じゃあ、今日はもう眠ろうか」

「まって」


 袖を掴まれる。

 

「どうした?」

「ん……まだ、寝たくない」

「え?」


 どういうことだ、と問う前に口が塞がれていた。

 唇に柔らかい感触が押し当てられ、一瞬息がつまる。


 キスされたのだ、気づいた頃には唇は離されていた。


「はぁ……」


 美也は感嘆とも恍惚ともつかない、ため息を吐いた。


「ん……」


 もう一度、キスされる。

 いつもの触れるような優しいキスとは違う、押しつけるような荒々しいキスだった。


 俺はされるがまま、美也のキスを受け止めていた。

 なんだか気配というか、雰囲気がいつも違うな、と思ったその矢先。


「ん⁉︎」


 口内に、何かが潜り込んできた。

 体に電撃が走る。

 反射的に仰け反りそうになったものの、美也にきつく抱きしめられる。


 舌だ。

 舌を入れてきたのだ。しかもかなり深々と。


 体の熱がぐんぐん上がってくる。

 何も考えられず、ただ無我夢中で美也の舌を受け入れた。


「ん……はぁ」


 唇が再び離れた。


「……苦しい」

「え?」


 そこで、自分が美也の体をきつく抱きしめていたことに気付く。


「あ……ごめん。痛かった?」

「……ふふ、ちょっと」


 美也は微笑を浮かべる。

 目元にはうっすらと涙の跡があった。

 

「そんなに痛かった?」

「ううん、違うの」

 

 美也をそれを袖で拭う。

 

「わからない、けど……しあわせで」

「幸せだと泣いちゃうのか?」

「……そう、かも」


 美也は少し照れくさそうに、はにかんだ。


 そうか、この子は今、幸せなのか。

 それを知れただけでも、俺は満足だった。


「ねえ」

「うん?」

「もうちょっと、だけ……」

「……そうだな、あと少しだけ」


 そう言いつつも、お互いもうキスだけで済ますつもりはなかった。

 ベッドの上で抱き合う。

 何度もキスを繰り返す。

 俺が上で、美也の手が俺の背に回されていた。


「……暑い」

「……そうだな、暑いな」


 部屋はクーラーがガンガンに効いているにもかかわらず、サウナに入っているかのように体が熱い。


 一旦体を離し、上体を起こす。

 美也も上体を起こすと、パジャマのボタンを外し、脱ぎ去る。

 それを枕元にキレイにたたんだ。


「……」


 美也が下着に手をかけたとき、思わず目を逸らしてしまう。

 これが現実の出来事ということが半ば信じられずにいた。

 だが俺も服を脱ぎ去っていくたびに、これが現実なんだという実感を肌でひしひしと感じる。


 生まれたままの美也の姿は、それは息を呑むほど美しかった。

 思えば出会ったばかりの時も事故で見てしまったこともあったな、と思い返す。


 流麗なラインを描く、ほっそりとした体つき。

 しかし出会った時より、心なしか女性らしい凹凸があるようにも見える。


 俺は美也を、正面から抱きしめた。


「……ん」


 美也もまた、抱き返してくる。

 肌のぬくもりを感じる。

 美也のふくらみが当たるのがわかる。


「好き……愛してる」

「うん。俺も愛してるよ」


 心拍数が上昇し、下腹部が締めつられるかのような感覚に襲われた。

 二人してベッドに倒れる。


「まって」

「……なに?」

「……電気、消して」


 頬を赤く染めながら、美也は言った。


「わかった、電気だな」


 リモコンを手に取る。


「電気、消すぞ」


 電気を消した。

 灯りが消失する。


 暗闇の中で、美也の息遣い、そして肌の温もりだけが感じられた。

 美也の表情も、少しだけ見える。

 

「――きて」


 そう言ったのと同時、美也が目を閉じたのがわかった。

 

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