第90話 探し求めるもの

「こんなことを言っていいのかわからんが」

「……」

「大きく、なったんだな」


 戸惑い混じりに、そう言った。


「……うん」


 目を逸らさず、表情を変えず、美也は頷く。


「やっぱり母さんの面影があるな」   

 

 白石玄水は気まずそうにいった。

 美也の前で母親の話題を出して激昂されないものか、と怯えているかのようだった。


 だが、どうしても言わずにはおけなかったのだろう。


「今までの話、聞いていたのだろう?」

「うん」

「盗聴か。新田のアイデアか何かか。度し難い男だな」


 諦めたように息を吐いた。


「幻滅しただろう?」

「……」


 美也は無言のまま、じっと父親の目を見据えた。


「十九年間も、ずっと私は父親であることから逃げていた。月乃が亡くなった後もな。とんだろくでなしと、思っただろう?」


 白石玄水は自嘲気味に唇を歪める。


「ねえ」

「なんだ?」

「お母さんのこと……」

「ん?」

「今も、想ってる?」


 不意を衝かれたような顔をした。 


「少し、座ろう」

「……うん」


 再びベンチに腰掛ける。

 秀斗と座った時よりも、少し距離が出来ていた。


「確かにな、私は政治家としてのキャリアを捨てることができなかった。だが別れを告げられたあの時も、私たちの間には確かに愛があった。そう思っている」

「……」

「月乃が死んだと聞いた時は、正直心が折れるかと思った。もしあの時違う選択をしていれば、と思わない日はない。取り返しのつかない、選択だった」


 唇をかみしめた。


「だが君の存在を聞いて、せめて君を引き取ってくれる人が見つかるまで支援をすることに決めた」


 黒瀧秀斗は美也の信頼を得て、さらに不治と思われていた病まで回復させてみせた。おまけに彼には西ノ宮和文の後ろ盾がある。

 だからこそ、美也を彼に託すことに決めたのだ。


「言い訳に聞こえるかもしれんが、月乃が身籠ったと知った時は、月乃と共にその子を育てていくと決断していた。なんとしてもこの子を守ろうと、な。結果はこのザマだが」


 白石玄水はあくまで卑屈だった。


「手、出して」

「手?」

「……いいから」


 美也に言われ、おずおずと手のひらを差し出した。


 美也はその手に、自分の手を重ねた。

 そして、何かを握らせる。


「これ、あげる」

「これは……」


 美也は手を離す。

 白石玄水の手のひらには、黄玉のペンダントが握られていた。


「これは、月乃のものだろう?」


 美也にペンダントを突き返そうとする。

 母親に託されてから、肌身離さず持っていた品だ。


 美也にとって、宝物のはずだ。

 しかし、美也はその手を押し返した。


「持ってて……」

「な、何故だ」

「私は、もう大丈夫だから」


 美也は静かに頷く。

 表情は、穏やかだった。


「シュウがいるから……もう平気。でもあなたは……お父さんは、独りだから」

「美也……」

「お母さん……お父さんとは、一緒にいない方がいいって……それがお父さんのためだって、言ってた」

「月乃が、そんなことを?」

「うん……でも、私はそう思わない、から」


 白石玄水は少し驚いた顔を浮かべた。


「お父さんには……お母さんが必要」


 再びペンダントを握らせた。

 

「……そうか」


 白石玄水の口元が緩んだ。

 

「美也は大切な人を、見つけることができたんだな」

「……うん」


 美也は頷く。


「お父さんは……お母さんのこと、大切?」

「ああ、そうだ。今も」

「なら……」


 美也は、父の手を握った。


「お母さんのこと、忘れないであげて……」


 ゆっくりと手を離した。

 

「すまない、な」


 美也の父親であることを捨てた。

 だがそれでも美也は、父親が大切な人と一緒にいることを願ったのだ。


「最後に一つだけ、いいか?」

「……うん」

「私は、二度と君の前に現われない。もう決めたことだ」

「うん」

「でも、せめて……」


 美也と目が合う。

 黄玉色の瞳だった。


 夜の闇の中で、小さな輝きを放ったその眼は白石玄水の双眸を見詰めていた。

 その時、絵画の世界に吸い込まれるかのような、不思議な心地がした。


「せめて遠くから君の幸せを、願わせてくれないか?」


 一度手を引くと決めた以上、もう美也に何もしてやることができない。

 何もできないのなら、せめて祈ることしかできなかった。


「……うん」


 それを聞いて、美也は静かに頷く。

 雲が晴れ、月明かりが二人を照らす。


 光を受け、ペンダントは仄かに光を反射した。


 白石玄水はペンダントをぎゅっと握りしめていた。

 

 ♢


「帰ってきたみたいだな」


 新田の声で、俺は顔を上げた。

 道路の向こうから美也が歩いてくる。


 そのまま無言で車の後部座席に乗り込んだ。


「話し合えたみたいだな」


 新田がまず話しかけた。


「……うん」


 神妙な顔をしたまま、美也は頷く。


「その、ちゃんと折り合いはつけられた?」 


 今度は俺が尋ねた。


「……うん」


 先ほどとさして変わりない反応だった。

 ずっと何かを考えているかのような表情で、上の空といった様子だった。


「とりあえず、帰るか」


 新田は車を始動させた。

 夜道を走り、俺のマンションに着く。


 その間、美也は一言を喋らなかった。


 部屋に入る。

 

 せいぜい二時間ちょっとの出来事だったのだが、旅行から帰ってきた時のように部屋が懐かしく思えた。


「とりあえず、ケリをつけられたってことでいいのか?」


 なんだかんだこの作戦に一番リスクがあった新田が、その成果を確認してきた。


「うん。ちゃんと、話し合えた」

「そうか。まあ、それなら手を貸した甲斐があったな」

 

 実際話は盗聴器越しに聞いていたのだが、音だけではその場の空気や両者の表情まではわからない。

 

 俺も新田もこれ以上言葉をかけることはしなかった。


 その時、誰かの携帯が鳴った。


「おっと、俺みたいだな」


 新田が携帯を取り、電話に出た。


「はい、新田です。……はい、はい。……え? 本当ですか?」


 新田がちらっと俺と美也を見やった。


「今日ですか……。……はい。……はい。……わかりました」


 失礼します、といい、新田は電話を切った。

 新田は珍しくしかめっ面だった。


「なにかあったんですか?」

「ああ、ついさっき指令が下ってな。任が解かれることになった」

「え?」


 突然のことに一瞬驚くも、すぐさま納得がいった。

 そうだ、この新田はいわば首相の使いだ。

 白石玄水が美也に関わらなくなった以上、新田も美也と接触しなくなる。


「もう、ここには来ないってことですか?」

「ああ、今日付けでな。急な話だよな?」

 

 上司や組織に身勝手さに呆れているかのようなため息を吐いた。


「じゃあ、もう今日から?」

「まさか寂しいとか言い出すんじゃないんだろうな?」


 新田はニヤッと笑う。

 実をいうと、寂しいんですよ。


 そう言いかけたものの、この得体のしれない迷惑極まりない男にどこか仲間意識を感じていたことが恥ずかしかった。


 相手は単に仕事の付き合いだというのに。


「あのなあ、そもそも俺みたいな公務員のおっさんが、一人暮らしの大学生の家に入り浸っていることがおかしいんだ」


 文章にしてみれば異常すぎる状態だ。


「あの人が美也と関わらないようにしたのはな、美也に普通の女の子になってほしかったからだ。だから俺も、去らなくちゃならない」


 新田は肩をすくめる。


「……」

「どうした、美也?」


 終始無言を貫いていた美也が、新田をじっと見詰めていた。


「なんだ、邪魔者がいなくなって清々したって感じか?」

「……新田、さん」


 美也は新田の正面に立った。



「……今まで、ありがとう、ございました」


 慇懃いんぎんに、頭を下げた。

 不意打ちだったのか、新田は咄嗟に言葉を返し損ねた。


「俺からも。今まで、ありがとうございました」

「よせよ。柄じゃねえ」


 照れ隠しなのか、顔の前で手を振った。

 

「はあ、もう帰るからな」


 新田は残業から上がるサラリーマンのように言い放つと、玄関で靴を履いた。


「今更だけどよ」

「ん?」

「まあ……俺も遠くから、応援してる」

「……」

「……じゃあな」


 新田が背を向け、部屋を出た。

 その背を、俺と美也は見送る。


 新田の背が遠ざかるのを見て、この奇妙な縁がようやく終わったのだと実感した。

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