第88話 駄々っ子

 今日はよく月が見える。


 うんざりするほど建物が並ぶ街の中で、忘れ去られたかのようにポツンと存在する公園。

 照明の類はなく、月明かりだけが辺りを照らしている。


 揃ってベンチに腰掛けた。


「ここ、大丈夫ですか? 人が通りかかったら」

「問題ない、こんな寂れた通りなどこの時間に通らない。仮に通ったとしても、この暗がりでは顔も見えまい」


 確かに互いに手が届く距離ではあるが、相貌は明瞭に見えない。これで白石首相だと特定するのは不可能だろう。


 とはいえ、密会するには心許ない場所であることには違いない。


「月乃と私の関係については、大体聞いているな?」

「大まかには……詳しいことまではさすがに訊いてないですけど」

「そう、だろうな」


 声の震えが伝わってくるほど、辺りはしんとしている。

 虫の鳴き声一つ、しやしない。


「月乃とは、大学で知り合った。友人の紹介だった。当時の私は、少し人見知りで、周囲から言わせればガリ勉の、とっつきにくい奴だったと思う。そんな私に、よく月乃は喋りかけてくれてた。今思えば、お互いに一目惚れだったのだろうな」


 一目惚れか。

 確かに美也に惹かれたのも、今思えば一目惚れだったのかもしれない。


「だが、和文さんは交際を認めてくれなくてな。月乃はそんな実家に嫌気が差していた。だから、連絡を絶って関西を出た。そこで新しい暮らしをはじめて、一緒になるために」


 この話もすでに何度も聞いている。

 最初に聞いた時はよくできた演劇のシナリオみたいだと思った。


 だが今は当人が隣にいるせいか、ずっと身近に感じる話だ。

 


「それから数年経ったある日のことだ。月乃の妊娠が発覚してな。その時は駆け落ちした身で、それに私は政治家として活動している真っ最中だった。籍を入れるのに、まだ踏み込めなかった。だが、月乃の妊娠で、ついに籍を入れる決心がついた……その時だった」


 白石玄水は深く息を吐く。


「唐突に言われたんだ。『別れよう』って」

「え?」

 

 別れを切り出したのは西ノ宮月乃のほうだったのか。


「揉めに揉めてな。特にお腹の子はどうするつもりなのか、言い合いになってしまって。それでも、『自分が育てる』といって、譲らなかった」

「……それで、別れたんですか?」

「そうだ」

「一体、どうして?」

「月乃は最後まで理由を言わなかった。彼女が単に私に愛想尽かしたというだけなら、まだ理解できたかもしれん」

「そうじゃなかったと?」

「月乃の真意に気付いたのは、ちょうど私が首相に就任した時だ」  


 白石玄水が首相に就任したのは三年ほど前だったはずだ。


「たぶん、月乃は私の足枷になりたくなかったんだろうな」

「足枷?」

「……ああ。政治の世界でのし上がるのは厳しい。特に首相となれば実力だけじゃなく、時運も必要だ。そんな世界で地盤も後ろ盾もない私が生き残るには、手段を選んでいられなくてな。正直家庭を顧みる暇は無かった」

「でも、今は……」

「君だから言っておくが、私は世間でいわれているほどクリーンな身ではない。ここまで来るのに、無茶だってした。法的にギリギリなことも、何度もやってきた。だがそれができたのはな、私には失うものが何もなかったからだ」


 口を開くたびに、その瞳が濁っていく。

 瞳孔に闇が広がっていく。


「月乃が私のもとを離れたのは、私が政治家としてのキャリアを捨てたくないという野心に気づいていたからだろうな」


 何かがすれ違っていたわけでも、愛がなくなったわけでもない。

 自分のためを想って愛する人が去っていったのだとしたら。


 自分に置き換えると、ゾッとする。

 もし美也が俺のために別れを切り出して来たら、きっと俺は正気じゃいられない。

 



「だが、気づいたところで遅かった。その時には、月乃はもう……」


 そこで、俺は和文さんが「君と白石玄水は似ている」といったことを思い出した。

 

 そうか、きっとこの男は。

 美也を失った俺なのだ。


「……今さら言えた義理ではないがな。月乃が別れを切り出したときも、私はそこまで必死に止めなかった。心の中で、わかっていたんだ。月乃がいて子供まで生まれれば、それだけで枷になるということに」

「だから、自分が捨てたもの、だと?」

「別れてから、月乃は連絡を絶って住所も変えた。だが、私はそこまで必死に探さなかった。私は逃げたんだ。美也の父親として生きることをな。体の弱い月乃が子供を一人で育てて、そしていつか破綻が起きるかもしれないと、引っかかっていたはずだったのにな」


 生ぬるい風が頬を撫でる。


「私は最初から、あの子の父親ではなかった。父親面するつもりはない。これ以上、こんな男があの子と関わるべきではない」

「……かも、しれませんね」


 俺は否定はしなかった。

 愛した人と、その間に生まれた子から目を逸らし続けてきた男。


 立場は全く違うが、気持ちはわかる。


「……でも、それがなんだっていうんです?」

「……なに?」


 ♢


『あなたはやっぱり、美也に会うべきですよ』

「……切り出しやがったな」


 黒瀧秀斗たちがいる公園から少しそれた道路脇に、一台の車が止まっていた。


「意外とバレないもんだな」

「……」


 運転席に腰かける新田と、助手席で静かに傍受された音声を聞く美也。

 音質は良くなかったが、周辺が静かだからか二人の声がクリアに聞こえる。


『……会う資格などないよ、私には』

『資格? 何の資格ですか? 親が子に会うのに何の資格がいるんですか?』

『私はあの子の親ではないよ』

『あなたにとってはそうかもしれないが、血がつながった親子であることは否定できないはずです』

「言い合っているな」


 その場にいなくても、声だけで緊迫した空気が伝わってくる。


『……だめだ』

『なんで、ですか』

『……怖いんだ』

『怖い?』


 行きずりの性交で揉める男女のような会話だ。


『あの子はきっと、私を憎んでいる。一度、見捨てた存在だ。会っても、きっと口を利いてくれない』

「……っ」


 美也はその言葉に、すっと目を細めた。

 先ほどから眉一つ動かさずに会話を聞いていた美也の、初めてのリアクションだった。


『それに、会ったところでどの面下げて会えばいいんだ?』

『どんな面であったとしても、それでいいじゃないですか』

『……一体、何を話せばいいというんだ』


 プレゼン前に教授に助けを乞う不真面目な大学生のようなことをいう。


『言いたい事なんて、沢山あるでしょう?』

『……どうだろうな。自分でも、よくわからない』

「言い訳が苦しくなってきたな」

 

 新田は苦笑いした。

 いつも毅然として野党の質問攻めを受け流す姿は見る影もない。

 普通の大学生の正論に返す言葉もないらしい。


「だが、こりゃ意地でも会うつもりはなさそうだ」

「……」


 その時、美也が助手席のドアを開けた。


「おい、美也?」


 新田の声を振り切り、美也は走り出した。


「ちょ、どこいくんだよ!」


 新田が慌てて、運転席から出た時には、すでに美也の姿は暗闇に呑まれていた。


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