第84話 夢と未来

 昼食を済ませ、俺と美也は近くの商業施設に足を運ぶ。

 今度はどこに行こうかな、とフロアをぶらつく。


「ねえ」

「どうした?」

「あそこ……」

「うん?」

 

 美也がフロアの一角を指さした。


「書店? あそこに行きたいのか?」

「うん」


 美也からリクエストがあるとは珍しい。


「わかった。行こうか」

 

 そういえば昨日、参考書を買っていたようだが、何かまた気になる本でもあるのだろうか。


 書店に入る。

 勉強のための新書や参考書以外では訪れる機会は少ない。小説や漫画は嗜む程度には読むが、趣味というほどではない。


「何が見たいんだ?」

「あっち」


 美也が向かった先は、やはり参考書のコーナーだった。

 

「ん……」

「勉強が好きなのか」


 漫画や小説には目もくれなかった。


「数学は、好き」

「そうなのか」

「国語は……苦手」

「それは、なんでだ?」

「んぅ……」


 説明が難しいのか、美也は言葉に詰まる。


「数学は、答えは……一つ」

「まあ、数式に当てはめればそうなるな」

「国語は、一つじゃない、から」


 つまり美也は、論理的思考に優れているが、文学的表現を相手にするのは苦手らしい。

 文学的表現を扱う国語は解釈によって複数の答えが想定される。もちろん解答の正誤はあるものの、正解へと至るプロセスは数式のように一定ではない。


 しかし美也は共感性や感応性が高い子だと思っていたので、国語が苦手だというのはあまりピンとこない話だった。

 文章が読めるかどうかは別、ということだろうか。


 美也は数学の参考書を手に取り、ぱらぱらとめくった。


 祐奈と星くんが家に来たときに、美也が実際に数学の問題をあっという間に解いてみせたことがある。

 

 美也の計算能力、頭の回転の速さは目を見張るものがある。

 俺よりもずっと頭のいい子だ。


 環境が違えば、俺の後輩になっていたかもしれない。

 これだけの才能を秘めていたにもかかわらず、この歳まで実質的に引きこもっていたのはもったいない限りだった。


 本当はこの子は、すべてを持って生まれてきたはずなのに。環境と病がそれを許してくれなかったのだろう。


「なあ、美也?」

「ん?」


 まだ間に合うはずだ。


 この子の病は治りつつあり、言葉による意思疎通もできるようになった。

 だが社会的に見ればこの子は依然として「引きこもり」に他ならなかった。

 


「美也は何のために勉強してるんだ?」

「なんの、ため?」


 美也は首を傾げる。


「勉強っていうのは、何か目的があってするものだろ?」

「……」

 

 美也は押し黙る。


「わからない……」

「……そうか」


 やはり今の美也は、勉強そのものが目的であって、何かのために勉強をしているわけではないらしい。


 勉強が好きという点は悪いわけではない。

 ただ、今の彼女には、目標が必要だ。

 単に俺と美也との関係ではなく、美也自身の目標が。


「美也はさ」

「うん?」

「大学に興味はないか?」

「……え」


 美也は困惑したように声を漏らす。


「大学は、好きなことを学べる。きっと美也にも、学びたいことが見つかる」

「……むり、だよ」


 美也は俯く。


「だって……高校、でてない」

「それは大丈夫だ」


 高校を卒業していなくても、大学を受験する方法はある。

 例えば文科省の実施している高卒認定試験に合格すれば、大学受験の資格を受けることはできる。


「美也は将来やってみたい事とかないのか? あるいは興味のある職業とか」

「……」


 美也は少しだけ躊躇う。


「医者……」

「医者?」

「うん……」

 

 あまり知られたくないことだったのか、美也は恥ずかしそうに口を結ぶ。



 医者を志すのは美也の生まれが西ノ宮家であるからか、それとも幼少期に病院で過ごしていた時期が長いからだろうか。

  

 どちらにしても、ちゃんと美也にもなりたい職業があるということだ。


「大学の医学部に入ることができれば、きっとなれるよ」

「国語、苦手……」

「それは俺が教える。美也の学力なら、必ず受かるよ」


 気休めや出まかせなど微塵もない、確信めいた強い言葉で言う。

 

 

「考えてみて、くれないか?」

「……」


 じっと美也は、俺の目を見詰めてくる。

 それに俺は、黙って返した。


「……うん」


 長い時間をかけ、ようやく美也は頷いた。


 ♢


 家に帰ったのは午後三時ごろだった。

 ノープランの割には結構成功ではないか、と振り返る。

 

 猫カフェで癒されたし、ボムの樹は美味かったし。

 書店を出た後は服を見たりして。

 

 楽しい一日だった。

 家に帰った後は、夕食までのんびりと過ごした後、それぞれ風呂に入り、就寝の準備を整え始める。



「こんな時間になんなんすか?」

「悪いと思っている。でも重要なことだ」

「またですか」


 午後九時ごろ。

 またしても新田が訪ねてきた。


「とりあえず、入れてくれないか?」


 二日連続での新田の訪問だった。


「手短にお願いしますよ」

「なんだ、この後予定でも詰まってるのか」

「別にいいでしょ、なんだって」

「また二人でナニかするつもりだったのか?」

「重要な話じゃなかったんですか?」


 デリカシーの欠片もない男である。


「そうそう、重要な話だ」

「なら早く本題に入ってください」

「首相の予定がついたぞ」

「もうですか」


 意外と早かったな、と内心驚く。


「明日の夜だ」

「しかも明日ですか」


 そこまで早いとは思ってもいなかった。せいぜい一、二週間はかかると思っていた。


「場所は?」

「それは当日伝えられる。セキュリティー的な問題でな」


 さすが首相。スケールが違う。


「俺が当日その場所まで案内する。お前はそこで首相と話せ」

「やっぱり、美也は置いていくんですか?」

「首相は美也と話す気はないらしい」


 やはり一対一での話し合いになるのか。


「今日はそのことだけ伝えに来た」

「……電話で済む内容でしたね」

「首相との密会についての情報を電話で話すか?」


 言われてみれば確かに。


「じゃあな」

「あ、ちょっと待ってください」

「なんだ、手短に済ませるよう言ったのはそっちだろ?」

「聞きたい事というか、相談があるんですけど」

「相談だと?」


 新田に、美也の大学進学について話した。

 美也が大学に行きたいと意思表示したわけではない。だが、もし美也が行きたいと願うなら、その時のために準備をしておきたい。


「大学か」


 新田は腕を組む。


「不可能な話じゃないな」

「本当ですか?」

「そもそも、美也はもう高卒認定試験をパスしている」

「え?」

「美也自身は、知らないがな。首相がいざってときのためにこっそり受けさせていた」


 高認試験をこっそり受けさせるってどうゆうことだよ、とは思ったが。

 文科省に便宜でも図ったのだろうか。


 だが何にせよ、白石首相は美也を大学に通わせるための準備を整えていたということになる。

 これは、ひょっとすると、いけるかもしれない。


「だが、もし仮に受かったとしても、大学の費用はだれが負担するんだ?

医学部は金がかかるぞ?  まさかお前の親か?」

「いえ、それについては当てがあるんです」


 ちょうど金を余らせた暇そうな老人がいるではないか。


「それなら、あとは首相と話し合うんだな。俺が何か言える口じゃない」


 新田は肩をすくめる。


「じゃあな」

 

 扉が閉められた。

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