第81話 あきれるほどキスする

 バイトから帰還したのは午後八時を回った頃だった。

 

 暗くなった街をぼーっと眺めながら、車を走らせる。

 疲労が全身を覆っている。

 だが今は早く家に帰りたい思いでいっぱいだった。

 エントランスを抜け、エレベーターに乗る。


 部屋の鍵を開けた。


「ただいま」

「あ」


 部屋にいた美也が駆け寄ってきた。


「……おかえりなさい」


 笑顔で迎えられる。


「ごはん……できてる」

「それはありがたいな。お腹ペコペコだったんだ」


 今日の午後は珍しく客が多かったので、結構忙しかった。

 特に真夏に外の仕事は立っているだけで体力を消費する。


「……シャワーあびる?」

「そうだな。今汗だくだし、先にシャワー浴びるよ」

「……」

「……」

「……うん?」


 それとも私? とはならないようだ。

 てっきり知っててご飯とシャワーのくだりをやったのかと思ったが。

 

 単なる気遣いのようだ。

 


「とりあえず、シャワー浴びてくるよ」

「うん」


 シャワーを浴び、汗を洗い流す。

 浴室から上がると、美也は既に食卓についてた。


「待たせてごめんな。じゃあ、食べようか」

「うん」

「いただきます」

「……いただきます」


 食事を始める。

 帰ったら美也がこうして待ってくれる。

 

 会話が弾むわけではない。


 だが存在を近くに感じるだけでも、代えがたい安心感、そして幸福感を与えてくれる。


「ごちそうさまでした」


 食事を終える。


「皿洗いは俺がやるよ」

「え?」

「家事やってもらってばかりじゃ、悪いし」

「……シュウ、つかれてるのに」

「皿洗いくらいはできるよ」

「……じゃあ、一緒にしよ?」

「……まあ、それがいいかな」


 こうなると互いに譲らないであろうことは目に見えている。

 互いに納得できる着地点が見つかったなら、それで妥協するしかない。


 狭いキッチンで二人で洗い物を片付ける。

 美也が皿を洗い、俺が拭く。

 

 ふと、俺はベッドの上に置かれている見慣れない本が目に入った。

 

「参考書……?」


 高校の理科や数学で使う参考書だった。

 美也が昼間に買ったものだろうか。


「あの参考書、美也が買ったのか?」

「……うん」

「勉強に興味あるのか?」

「うん。……勉強、好きだから」


 最近の美也は受け答えが随分とはっきりするようになった。

 もはや言語障害というよりは、単にちょっと無口な子といっても通じそうなレベルだ。


 まだ舌足らずなところはあるものの、言葉による意思疎通は十分できる。

 これもまた、変化なのだろう。


「国語とか、英語とかは?」

「……にがて」

「そっか」


 やはり文系科目は苦手らしい。

 皿洗いを終えると、お互いのんびりとする時間となる。


 美也はベッドの上で横になり、俺は美也の隣に座りながら、テレビを見ていた。

 夜も遅くなると、風呂に入り、寝る準備を始める。

 

「明日は何しようかな……」

「うん?」

「いや、明日は特に予定ないから」


 バイトもなければ、サークルもない。

 家でずっとのんびり過ごす時間もいいが、たまには一緒に外で過ごしたい気持ちもある。


「明日どっか出かける?」

「……どこ、行くの?」

「そりゃ、その日に考えるけど」

「……いく」

「よかった」


 端的に言えばデートだ。

 ただし今回は計画も何もない、行き当たりばったりのデートだ。

 毎回格式張っているもよくない。

 たまには無計画さを楽しむのも大切だろう。


「そろそろ寝るか」

「うん」

「電気消すぞ」

「あ」


 美也が袖をつかむ。


「まって」

「どうした?」

「ちゅー」

「え?」

「ちゅー、は?」

 

 喉を鳴らすように言う。

 甘えるとき特有の声色だった。


「……いや?」

「嫌じゃないけど……」


 寝る前のキスは危険だった。

 眠れなくなる可能性がある。おまけにお互いブレーキが利かなくなる恐れもある。

 旅館の件でそのことを思い知っている。


「んー」


 美也が俺に唇を向け、目を閉じた。

 美也はどうしてもしたいらしい。


 俺はそっと美也の肩に手を置いた。

 軽く、短く済ませよう。

 それなら気持ちよく眠れる。


 顔を近づける。

 唇を重ねる。

 五秒、いや十秒。

 少なくとも息を切らすまでしないつもりだった。


「ん」


 離れようとした矢先、美也が俺の頭を抱きかかえた。

 

「んっ⁉」


 強く身体が密着する。

 頭が固定され、離れられない。


 

「んぅ」


 何度もキスされる。

 強く求められている感じのあるキスだが、荒っぽくない。


 静かで情熱的ではないが、深くて、内側で熱が燻ぶり続けるようなキス。


 だが何度も、長時間も続ければ熱が収まらなくなる。

 満たされることなく、ただ熱だけが膨張する。

 やっと、唇が離れた。

 

「はぁ……はぁ……」


 足りない。

 ボーっとする意識の中で、悶々とした感情が顔を出す。


 かれこれ二十分はしていた気がする。


 もっとしたい。もっとキスしたい。

 心臓の音が耳鳴りのように頭に響く。


 自分がコントロールできなくなり、まるで魔法にでもかかっているかのような気分だった。


「美也……」


 再び美也の肩に手をかける。

 夏とあって、互いに寝巻は薄着だった。


 ただこの布一枚ですら、二人を隔てる邪魔なものに思える。

 この考え方は完全にヤバいとは思いながらも、止めることはできない。


「シュウ……」


 美也も完全に熱に浮かされていた。

 再び顔を近づける。


 もうどうにでもなれ。


 美也が俺の服に手をかけた――その時だった。



「おい、お二人さん」



「「っ⁉」」


 思わぬ第三者の介入に、ばっと体を離す。


「盛り上がってるところ、すまないな」

「に、新田?」


 いつの間にか、新田がベッド脇に立っていた。


「いつ来たんですか?」

「『明日どっか出かける?』、のところからだ」

「めっちゃ最初じゃないですか」


 ということは、全部見られていたということだ。

 


「一度始まったらなかなか止まりそうになかったからな。ここで打ち止めにしておいた」 

「なんで最初から言わなかったんですか?」

「面白いものが見れると思ってな」

「……望みのものは見れたんですか」


 冷たい口調で尋ねる。

 熱がスーッと抜けていくのを感じる。


「お前らあれだな、まだまだピュアだな」

「はい?」

「いくときはもっとがっつかないとダメだろ。押し倒すような勢いでよ。その方が盛り上がるだろ? 俺からすれば、お前らのなんて子供の遊びだ」

「ご忠告どうも」


 自分としては十分盛り上がっていた気もするのだが。

 あれでも経験豊富な人間から見ればまだまだなのだろうか。


「……それで、何の用ですか?」


 ふぅ、と息を吐きながらいった。

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