第72話 願望

 ビール缶をすべて開け終わった後、会はお開きとなった。


「さて、部屋まで送っていこう」


 立ち上がり、旅館の廊下に出た。 

 涼しい風が頬を伝う。

 そういえば、部屋に美也を待たせたままだった。早く帰らなければ。


「君は、大学に行って何を学んでいるんだね?」

「俺は今、心理学を」

「ほう。では、将来は臨床心理士か何かかね?」

「そうですね。ゆくゆくは」

「そうか。頑張りたまえ」


 和文老人は俺の肩に手を置いた。


「君は、あの白石に似ている。きっとなれるだろう」


 首相と似ているというのは褒め言葉なのだろうか、と一瞬首を傾げそうになった。


「あと、これを」


 名刺サイズのメモ用紙を渡される。


「これは?」

「私の連絡先だ。何かあったら、いつでも連絡するといい」

「いいんですか?」

「ああ。今の私はただの小金持ちのジジイだが、なるべく力になりたい」

「二つ連絡先が書いてありますけど、もう一つのは?」

「それは、関東にいる私の知り合いのものだ」

「知り合い?」

「私の古い友人だ。彼も、きっと力になってくれるだろう」


 メモ用紙に、名刺が挟んであった。

 一つは和文老人のもの。

 もう一つは、『しののめクリニック 院長 東雲由紀夫しののめゆきお』と書かれていた。


「ありがとうございます」


 何者であれ、美也の味方であることは違いないらしい。


「私は明日の朝帰ることにする」

「え、そうなんですか?」

「君と話せた。用件は済んだからな」

「美也と、会わなくていいんですか?」

「……いや、遠慮する。会うような立場ではない」

「美也にとっては、祖父ですよ?」

「存在上はそうでもほぼ赤の他人のようなものだ」


 和文老人はきっぱりした顔で言い切る。

 せめて顔合わせるくらいは罰は当たらないだろうに。


 美也にとっても数少ない血縁者だというのに、顔も合わせぬままとは悲しいではないか。


「彼女に必要なのは君の存在だ。私ではない。実際、君と一緒になってからだろう? あの子が言葉を喋るようになったのは」

「それも、不思議なんですよね」


 十九年間どんな治療を施してもうんともすんともいわなかった美也が、ただの大学生の俺の元に来てから急に回復傾向を見せ始めた。

 俺は、何か特別なことなどした覚えはない。


 心理学の学生とはいえ、まだまだ勉強中の身である俺が効果的な治療を施せるわけがない。


「なんで、美也は急に喋りはじめたんでしょう」

「ふむ。元医者である私の見解としては……」


 和文老人は顎に手を当てた。


「君は、患者の治療にあたって一番大事なことは何だと思う?」

「それは、医者の腕とか知識とかじゃないですか?」

「それもあるかもしれない。だが私が思うに、それは『患者自身の意思』だと思う」

「患者自身の意思?」

「どれだけ医者が先走ったって、患者が治療に前向きでなければ何の意味もない。患者が『治したい』と思うことが、治療の第一歩なのだよ」

「……それじゃあ、美也は」

「あの子は君と出会って初めて、自分の病と向き合えたのだと思う。きっと、君にどうしてもがあるんじゃないかな?」

「……伝えたい言葉、ですか」


 あの子は、ずっとその言葉を胸にしまっていたのだろうか。


「まあ、あくまで私の意見でしかないがな」


 和文老人は、とある一室の前で立ち止まる。

 

「そこ、俺の部屋じゃないですけど」

「いやいや、これは私の連れの部屋でな」


 和文老人と共に、部屋に入る。


 中から騒ぎ声が聞こえてくる。

 酒臭いが漂っている。


「――そんでよぉ、そのクソ上司、路上で寝ちまって財布を置き引きされちまったんだよ、ガハハハハッ! へッ、刑事デカのくせに笑っちまうぜ!」

「ハハハッ、新田。お前面白い奴だな! 誤解していたぞ」

「おうよ! まだまだのむぞぉ!」

「おい、武藤」


 和文老人が、新田と一緒に呑んでいた人物に声を掛けた。


「は、和文様!」


 武藤と呼ばれた大柄の男は、酒で顔を赤らめたまま頭を下げる。


「んぅ、なんだぁ? このジジイ? せっかく武藤と飲んでるってところによぉ。てめえ誰だよ」

「……西ノ宮和文というものだが」

「へえ、西ノ宮。気取った名前しやが――え、西ノ宮?」


 すっと我に返る。

 

「もうお開きにしろ、武藤。そこの公安の刑事は部屋に返しておけ」

「はっ!」


 殿様に拝謁する侍のような意気だった。


「というわけだ、新田。また今度だ」

「もう終わりなのかよ」

「部屋までは送ってやるよ」

「うぅ、悪いな。また呑もうな」

「いつかな」


 武藤と新田は仲良く肩を組みながら、部屋を出ていった。

 新田の監視下でどうやって俺に接触したのだろうと思っていたが、まさか懐柔されていたとは。

 ここぞというところで役に立たない男だ。


「さて、君の部屋に戻ろう」

「そうですね」


 部屋の前まで、来る。

 再び和文老人と向き合った。


「ここでさよならだ。困ったことがあったら、いつでも連絡してきなさい」

「……あの、本当に美也に会わなくていいんですか?」

「平気だ。今更私が会ったところで、逆にあの子を困らせるだけだろう」


 やはりどうやっても、美也と会う気はないようだ。


「ではな。元気で」

「そちらこそ」


 握手する。 

 皺だらけの手は分厚く、まるでの職人のようだった。


 手を離し、和文老人は背を向けた。

 とぼとぼと、部屋に戻っていく。

 

 杖を必要としない確かな足取りではあったものの、その背中は小さく見える。


 一人娘を失った孤独な老人が、そこにあるだけだ。


「……戻るか」


 部屋へと入る。

 

「あれ?」


 美也がいなかった。

 一人分の布団は敷かれており、電気もついている。


 しかし美也の姿と、部屋の鍵がなかった。


「どこいったんだ?」


 ♢


 

「はあ」


 和文は息を吐く。

 自分の家から出るのは久しぶりだった。

 別荘でひとり過ごす日々は退屈と孤独の二重の苦だった。ペットを飼い始めることも考えたが、もし自分に何かあった時にペットの面倒を見る人もいないので、諦めた。



 先程の青年との会話を思い出す。

 若い頃の「白石玄水」に似ている青年。

 あの青年なら、あの子を任せられる。


 これで月乃への償いとするつもりだった。

 許せ、ということもできない。自分にできることを、やっただけだ。


 廊下を渡り、部屋の近くまで来る。

 部屋の前に、人影があった。


「……月乃?」


 遠くからでも目立つ、淡い髪色、琥珀色の瞳。

 その人物がこちらを見た。


「……美也」


 目尻の長い、切れ長の目。

 特徴は母親を受け継いでいても、目元の感じは父親から譲り受けたものらしい。


 美也はじっと、和文を見詰めている。


「まさか、聞いていたのか?」

「……うん」


 少し後ろめたそうに、美也は頷いた。

 

「そうか」


 会うつもりはなかった。

 一目見れれば、十分だと思っていた。


 それなのに――


「大きくなったな」


 つい、そんな言葉をいってしまった。

 そんなことをいう資格などないのに。


 美也はただ黙って、その言葉を受け止めた。


「……おじいちゃん」

「……っ」


 和文は目を見開く。

 

 ――こんな私を、祖父と認めてくれるのか。月乃といい、美也といい、どうして私を恨もうとしないのだろうか。


 美也に近寄る。

 そっと、頭に手を乗せた。


 美也は何の抵抗も見せなかった。


「本当はもっと言いたいことがたくさんあるのだが……」


 いざ実際に会った時、何をいうべきか忘れてしまった。

 だが、これだけで十分だった。


 美也が私を祖父と認めてくれただけでも。


「部屋で待たせている人がいるのだろう?」

「……」

「行きなさい」


 置いていた手を、離した。


「君に必要なのは、私ではないからな」


 美也は視線を伏せた。

 なんとなく察したのだろう。


 これで別れだ。

 もう二度と、会うことはないだろう。


「大丈夫だ」

「……?」

「彼が必ず、君を幸せにしてくれるとも」


 美也の背中をとん、と叩いた。


「さ。部屋に戻りなさい」

「……うん」


 美也が背を向ける。

 廊下の角に差しかかる。

 

 最後に美也が振り返る。

 唇がわずかに動いた。


「バイバイ」


 

 

 

 

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