第71話 託された願い

「ん~、なるほどね。練習をサボっちゃったと」

「そう」


 口に出すと頭の中が整理される。

 結構くだらないことで悩んでいるんだな、と改めて認識する。


 見知らぬ女性に悩みを打ち明けた恥ずかしさが、遅れて込み上げてくる。


「優しいね、君は」

「そうかな」

「そうだよ。ご両親のこと、そこまで気に掛けられるなんて」

「そんなことない……俺のわがままだよ」

「それじゃあ、君はもっとわがままになるべきだね」


 女性は細い脚を組んだ。


「もう辞めちゃったら?」


 思いついたことをそのままいったかのような、あっさりとした口調だった。

 ただ気を遣わない、ぶっきらぼうな言い方ではなかった。


「代わりにさ、何か新しいこと始めようよ」


 友達を遊びに誘うような距離感の近さだった。

 大人らしく説教くさいことでもいうのかと思っていたので、拍子抜けした。

 

「新しいことって何?」


 それに興味を惹かれるように、俺は身を乗り出していた。


「なんでもいいんだよ。例えば、バスケとか?」

「バスケかあ」

「運動は得意なんだよね?」

「うん、運動は得意だよ」

「もしこのままサッカーを辞めちゃっても、わだかまりが残ったままじゃ嫌だよね? だから、代わりに何を始める。ご両親にも、『新しくやりたいことが見つかった』って言い訳できるし。いい塩梅あんばいだ」

「でも、言い辛いよ」


 単に「飽きたから辞める」と切り出すよりはハードルは低くなったが、それでも後ろめたいことには変わりなかった。


「ご両親のこと、そんなに怖いの?」

「怖いとかじゃなくて、まあ父さんは怖いけど、そういう問題じゃないんだ。単純に、申し訳ないっていうか」

「も~、健気だな~、君は」


 いじらしいものでも見ているかのように、女性ははにかむ。


「大丈夫だって、君の選んだことなら、どんな選択肢でも応援してくれるよ」

「そうかな」

「親っていうのは、そういうものなんだから。子供が親に気を遣うことなんてないよ」


 私も親だからね、一応、と女性は付け加えた。


「う~ん」

「納得いかない?」

「そんなことないよ。ちょっとは……楽になった」

「ちょっとなんだ」

「でも、帰ったら母さんに正直にいうよ」


 自分でも驚くほど自然に、そういえた。

 この女性と話しているうちに、頭がすっきりしたのかもしれない。


 いつまでもうじうじ悩んでいるよりは、𠮟られても正直に言った方が自分のためだ。

 

 そう考えられるようになった。

 

「そっか。うん、それがいい」


 うんうん、と女性は頷いた。


「もう雨上がったね」

「あ、ホントだ」

「帰るの?」

「うん、母さん、多分心配してるだろうから」

「そっか」


 心なしか女性は寂しそうな笑みを浮かべた。


「雨が止んでいるうちに、帰るよ」


 玄関に向かい、靴を履いた。


「そうだ。傘持っていきなよ」

「え?」


 女性が長傘を差しだした。


「また降り出すかもしれないし。ああ、返さなくていいよ。これはあげるから」

「あ、ありがとう」


 女性の『眼』を見る。

 この世のものとは思えない、煌々とした瞳に、しばらく呼吸を忘れて見惚れてしまう。


「どうしたの?」

「な、なんでもない」

「また悩みがあったら、いつでも来ていいよ」


 女性はそう言って、笑顔で送り出してくれた。


 ♢


 それから女性に会ったのは一度だけ。


 初めて会った日から三年経ったある日。


 祖父が入院していた病院に見舞いに行った時のことだった。

 祖父の病室に向かう途中、廊下で偶然すれ違った。


「あ……」


 身覚えがある顔に、つい声を上げてしまった。


「あれ?」

 

 向こうも、首を傾げた。

 あの時のラフな格好と違い、髪を一纏めにして白衣を着ていた。


 しかしあどけなさの残る顔に、そのフォーマルな姿は似合っておらず、コスプレをしているようにも見えた。


「いつかのサッカー少年?」


 そういえば、お互い名前を言っていなかったな、とこの時になって気づいた。


「たぶんそうです」

「あらあら、久しぶり!」


 成人式で同級生と再会したときのような喜び方に、こっちの方が驚いてしまう。


「お医者さんだったんですか?」

「まあ、医者といえば、そうなのかな? ここでカウンセラーとして働いてるんだよ」

「カウンセラー?」

「患者さんとカウンセリングしたり面接したりしてる」

「へえ」


 あまりピンとこない業務内容だったが、病院に勤めているということは色々と難しいことやってんだろうなあ、とあまり深くは考えなかった。


「君は、ここで入院してるの?」

「いえ、祖父のお見舞いに来たんです」

「一人で偉いね」

「そんなことないです」

「それに、身長も伸びた?」

「少しだけですけど」

「へえ、いつかのサッカー少年が大きくなったものだねえ」

「あ、サッカーは辞めたんです。今は、バスケやってるんです」

「バスケ始めたんだね。道理で背が高いわけだ」


 あの日、家に帰った後。

 俺は両親にすべて打ち明けた。

 練習をサボったこと、もうサッカーをやめようと思っていること、そして何か新しくスポーツをしたいこと。


 言っている間はスラスラと口に出せたが、話を切り上げようとすると口を閉じるのが怖かった。

 話が終わった途端、「そりゃならん!」と怒鳴りつけてくるのではないか、と思い、だらだらと言い訳じみたことを垂れ続けた。


 ――もういい。

 

 父さんが制止した。


 ――お前の想いはよくわかった。


 父の表情は相変わらず無表情だった。


 ――お前のやりたいように、やればいい。


 父さんはそれだけ言って、席を立ってしまった。

 無口な父さんは子と接する時だって無口だった。


 それからしばらくして、俺はバスケを始めた。

 バスケにしたのは、なんとなくだった。


 あの人にいわれたから、と意識したわけではない。

 今思えば、これも無意識に影響されたものだったのだろうが。


「そっかそっか、それはよかった」


 そういう女性は、あれから三年経っても全く変わった様子がなかった。

 むしろ化粧をかけている分、あの時よりも若々しく見えた。


「それより、よく俺のこと覚えてましたね。三年も前のことなのに」

「そうかな? 私は君のことよく覚えてるよ。印象深い子だったから」

「俺が、ですか?」

「うん。ちょっと変わった子だった」


 女性は目を細める。

 宝石のような光を放つ琥珀色の瞳が、妖しく輝いた。


「それじゃあ、そろそろ俺いかなきゃ」

「もう行くの?」

「この後、バスケの練習があるんです」

「そうなんだ。じゃあ、頑張ってね」

「はい」


 頭を下げ、女性の横を通り過ぎる。

 最後までその女性は笑顔で送ってくれた。


 病院を出てから、「そういえば、最後まで名前聞けなかったな」と思い至った。

 まあ、どうせまた会えるだろう、とこの時の俺は軽く考えていた。


 結局、それからその女性に会うことはなかった。



 ♢



 俺は写真を返した。

 

「実は俺、この人と昔会ったことがあるんです」

「何?」


 これにはさすがに、西ノ宮和文も身を乗り出した。


「時間にすれば二時間くらいですけど。あの人は病院で心理カウンセラーとして働いていました」

「……そうか。まさか君が、月乃と会っていたとはな」


 俺が元々大学で心理学を学ぶことに決めたのは、彼女の影響だった。彼女のことをあれからもずっと意識していたわけではない。

 むしろ高校に入ってから忘れてしまっていた。

 そして進路を決める際、ふと彼女の面影が脳裏を掠めた。心理士という仕事に興味を持つきっかけだった。


 しかしきっかけでも、俺にとっては道を示してくれた恩師に違いなかった。


 そうか、やっぱり美也は、あの人の娘だったんだ。


「手紙には、私への感謝と謝罪、子が産まれたこと、そして白石玄水と別れたことが書かれてあったよ」

「……美也が生まれた段階で、別れていたんですね」

「ああ。だが、私のもとを去る前の二人はとても別れる様子などなかった」

「なんで、別れたんですかね」

「さてな。理由については書かれていなかった」

「二人って、どんな感じだったんですか?」

「そうだな……。私の元を去る前、月乃に縁談の話が舞い込んでいたことは知っているな? その前から二人は付き合っていたらしい。そして縁談の話が進んで、実際に会うというところまで漕ぎつけた途端だ。白石玄水が突然訪ねてきてな」

「突然?」

「月乃と二人そろって、土下座してきたのだ。『交際を認めてください』って具合にな。必死で」

「そこまでしたんですか」

「そうだな。だが、私はそれを拒んだ」

 

 西ノ宮和文は深いため息を吐いた。


「あの時、私は娘の幸せより家の名誉を重視した。それなのにあの子と来たら、手紙で恨み言一つ書いてはいなかった」


 唇の端を噛んでいた。


「白石と別れ、身体が弱いあの子が一人で美也の面倒を見た。そして三年前に、倒れてしまった」


 最後の方は、声が震えていた。


「もし私が二人のことを認めていたら、結果は違ったのかもしれん」

「……後悔してるんですか」

「愚かなことをしたと思っている。あの子が死んだのは、私の責任だ。美也が独りになってしまったのも。娘を捨てた男が孫を引き取ろうなど、思い上がりもいいところだろう?」


 自嘲気味に唇を歪めた。


「本来なら、私が君を試す資格などない。だが、もしあの時に戻れたら、と思わない日はない」


 西ノ宮和文の目はどこか遠くを見つめていた。

 目の前の老人は、俺を通して誰かを見ているようだった。

 

「美也のこと、君に託したい」

「え?」

「君にしか、託せない。私が頼むのは筋違いかもしれない。だが、どうかお願いしたい」


 そういって、頭を下げた。

「あの時」のことを、この老人は今でも後悔しているのだ。

 だから「あの時」言うべきだった台詞を、ここで俺に言ったのだろうか。


「もちろんです。こちらこそ」

 

 俺もまた、慇懃いんぎんに頭を下げた。

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