第70話 昔話

 俺は言われるがまま、腰を下ろした。


「二十年前を思い出すな」

「え?」

「君は、あの男によく似ている」


 西ノ宮和文は懐かしげな顔をした。


「あの男というのは」

「白石玄水だよ。雰囲気というべきか……若い男の意力に満ちた目が、あの時の白石と重なってしまってな。ついつい懐かしくなってしまった」

 

 愉快そうに笑う。

 俺と、白石首相が似ている?


「しかし、やはり母娘というべきかな。似たような男を好きになるとはな。フフ、因果よな」

「あのさっきのは、一体どういう?」


 先ほどまでとの雰囲気の変わりように、俺は混乱を禁じ得ない。


「悪くは思わないで欲しいのだが、君を試したかったのだよ」

「た、試す?」

「君の、覚悟をね」


 覚悟、などとなんとも大仰に出たものだ。


「元々、私は美也を引き取る気などなかった」

「じゃあ、本当に俺と話すためだけに?」

「ああ。それとな、一目見たかったのだよ。月乃の遺した子を」


 そういうと、西ノ宮和文は缶のビールを再び手に持った。


「飲むか?」

「……いただきます」


 少しの逡巡の後、缶を受け取る。


「今度こそ、乾杯だ」


 お互い、控えめに缶を触れ合わせる。

 缶を開け、ビールを口にする。

 冷たい液体が喉を通る感覚が心地よい。


「美也の存在はな、月乃が教えてくれたのだ」

「本人が、ですか?」

「ああ。家を出奔したあの子が連絡をよこしてきたのは、あれが最初で最後だな」

「いつぐらいなんですか?」

「美也を出産した直後だよ。写真も送られてきた。見てみるか?」

「み、見てみたいです」


 西ノ宮和文は懐をまさぐった。

 そして、一枚の写真を取り出した。


「これが、月乃と、美也が生まれた直後の写真だ」


 写真を受け取る。

 

「あ……」


 女性が赤子を抱いている写真だ。

 淡い色の髪に、琥珀色の瞳。

 美也と同じ特徴を持った、綺麗な女性だった。

 

 ただ美也と違う点がいくつかあった。

 髪が短かった。ショートボブくらいだろうか。

 目尻の長い、切れ長の目を持つ美也と比べ、目がくりっとしていて、名家のお嬢様というよりは、大学を出たばかりの活発な女子学生のように見える。

 しかし、赤子を愛おしそうに見つめる表情は、まさしく「母」の顔だった。


「これ……」

「どうかしたのか?」


 記憶の蓋が外れる。栓が外れたワイン樽のように、思い出がぼとぼととあふれ出す。それは鮮明な記憶となって、俺の頭をぐるぐると回った。

 十年前の出来事。


 俺が、この人に会った日のことだ。



 ♢



 俺の名前の由来は知っているだろうか。

 

 秀斗。しゅうと。シュート。


 名前の由来は至極単純で、それは両親がサッカーファンだったからだ。

 一時期買っていたハムスターに「マラドーナ」と名付けるくらいには。

 

 俺も「マラドーナ」とならずによかったと思う。


 そんな両親の影響もあってか、小学校に入ってからサッカークラブに入った。


 それなりに本気だった。チーム内でもうまかった方だったと思う。

 

 小学四年生になった頃。

 急にサッカーの練習が疎ましくなった。

 

 前々から嫌だったわけではない。

 むしろ練習に勤しむ間は楽しくやっていたと思う。


 でも、練習・試合に行く前、「嫌だなぁ、行きたくねえな」と思うようになってしまった。

 飽きた、というのが最も正しいのだろう。

 両親には言えなかった。俺がサッカーを始めたとき二人は心から喜んでくれたし、試合の時はどちらかが欠かさず応援に来てくれた。だからこそ、「飽きたから辞める」とは切り出せなかった。


 だから、サボったのだ。

 親に黙って、だ。


 練習が始まる時間になっても、俺は公園でブランコに揺られていた。

 気分は良くなかった。


 ――今日も頑張ってね。


 笑顔で送り出してくれた母の言葉が突き刺さる。

 このころの俺は、学校を一日だって欠席せず、授業中にもいねむりひとつしない、「真面目」が服を着て歩いているような存在だった。


 当時の俺にとって「サボる」という行為は、神職者にとって神に暴言を吐く行為と同じくらい後ろめたいことだった。


 ブランコに揺られること、早三十分。

 雨が降ってきた。

 ああ、これで練習中止になるな、とぼんやりと思った。

 

 練習中止になるんだったら、別にいかなくてよかったんだ。と言い聞かせるしかなかった。

 しかし帰る気にはなれなかった。

 家に帰ったら否が応でも両親の顔を見ることになる。


 今もずぶ濡れの俺を心配して、風呂を沸かし、バスタオルを準備してまっている。

 

 とてもじゃないが、向き合う気になれなかった。


「はぁ……」


 どうしよう。

 どのタイミングで家に帰ろうか。


 後悔と不安が背中にのしかかる。


「風邪、引くよ?」


 何者かに、傘を差しだされる。

 顔を上げる。


 こちらを心配そうにのぞき込むのは、琥珀色の瞳を持つ女性だった。

 淡い色の髪を持っており、くりっとした目は活発な女子学生を思わせた。


「こんなところで、何をしているの?」


 彼女の眼を見た。

 優しげで、包容力のある目つき。


 その眼を見詰めるだけで、水底に吸い込まれるような心地がした。

 不思議な女性だった。

 

「とりあえず、さ。こんなところで座ってたら風邪ひいちゃうし、おばさんの部屋に来ない? 近くに私のアパートがあるから」


 セリフだけ聞いたら、子供を誘拐しようとしているようにしか思えない。

 さすがに俺も、知らない大人の人についていってはいけないことくらい、わかっていた。


 ただ、俺も雨に打たれて、体温も下がっていた。意識も朦朧としていてまともな思考ができる状態ではなかった。

 こくり、と無言で頷いた。


「そっか。じゃあ、いこっか」


 女性が手を差し伸べてくる。

 無意識にその手を取り、歩き始める。


 五分も経たないうちに、目的地に着く。


「着いたよ」

「ここ?」

「うん、ここ」


 二階建てのアパートだった。お世辞にも、あまり立派とは言えない、どちらかというと古臭さの漂う、鼠色の建物だった。


「こんなところでよければ、だけど」


 二階の三号室の扉を開ける。

 狭い部屋だったが、私物が少ない分広く感じた。


「ほら、服脱いで。シャワーはそこにあるから」

「う、うん」


 自分のことをおばさんと自称する割には、容姿はかなり若く見える。

 実際は三十歳前後なのだろうが、制服を着て「JKです」と紹介されても違和感がない。


 目の前で服を脱ぐのは抵抗があった。

 浴室に入ってから、服を脱ぐ。


 シャワーを浴び、さっぱりとする。

 頭を冷やし、冷静な思考を取り戻す。


 一旦シャワーを浴びたはいいものの、問題は何も解決していない。

 両親に説明すべきだろうか。

 だがこのまま隠してもバレないのなら、いいのでは。

 いや、しかし練習に来なかったら連絡されるのではないか。そもそも本当に雨で中止になったのだろうか。


「……はあ」


 だめだ。

 こうやって考えれば考えるほどエネルギーを無駄にしている気がする。


 身体を拭く。

 あの女性が用意してくれただろう服に着替える。


「あら、もう上がったの?」

「……うん」


 食卓の上に、パスタが置いてあった。

 ミートソースのパスタだ。


「ありあわせのものだけど。シャワー浴びてる間に、つくったんだ。もしお腹空いてるなら、食べていいよ」

「う、うん。……ありがとう」


 部屋を見渡す。 

 あまり行儀良くはないとわかっていたが、少し気になったところがあった。


 床に女児向けの玩具が置かれていた。最近遊ばれた痕跡はなかった。


「お、女の子がいるの?」

「ええ、そう、私の娘」

「何歳くらいなの?」

「君と同じくらいだよ」

「どこにいるの?」

「今は、病院」

「病院?」

「うん。あの子はちょっと……心が不安定で。ストレスを抱え込みやすいの」

「……そうなんだ」

「それより、おばさんは、君のことについて聞きたいな~」


 女性はいたずらっぽく目を細めた。


「あそこで、一体何してたの? 何か悩んでた?」

 

 無邪気そうにも見えるし、心からこちらを気遣うような優しさも垣間見えるような尋ね方だった。


「うん、実は――」


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