第69話 積もる話

 旅館の廊下に出ると、涼し気な空気が頬を撫でた。真夏だというのに、心地が良い。

 

 左右を見渡す。

 シュウはどこに行ったのだろうか。

 

 普通に考えれば、アキトかマイの部屋に行ったと思うのが自然だ。だが、今回ばかりは違う。

 そんな予感があった。


 所在が分からないまま彼と離れ離れとなるのは先程の件も含めれば二度目だ。


 でも、さっきとは違う。

 心は落ち着いている。


 『眼』を使えば、どうということはない。彼の居場所を突き止めることくらい。

 この眼は、大切な人を見つけ出すための眼。他の誰でもない、彼を見つけるための眼だ。


「……」


 案の定というべきか、やはり二人の部屋ではない。

 しかし誰かの客室にいるようだった。


 誰だろうか。

 ともかく、歩を進める。


 そういえば、と私は思い起こす。


 今日の朝、妙な老人とすれ違った。

 妙、といってもどこがと指さすことはできない。ただ、直感的に奇妙な感覚を覚えた。


 視線は動かさず、意識だけを向けられているかのような感覚。

 それに、あの老人の気配が、母親に似ている気がした。


 シュウのような内的なものではなく、もっと外的、例えば血のようなもの。


 ――血。

 

 母親の実家。

 母はあの家の一人娘のはずだ。祖母はもう亡くなっていると聞いている。

 

「……」

 

 部屋の前まで来る。

 もし、あの老人が私の思う人であれば、シュウと二人きりにさせるのは不安だった。

 

 戸をノックしようと、襖の前に立った。


 ――本気で言ってるんですか、そんなこと。


 動きが止まる。

 シュウの声が聞こえた。



 ♢




「さあ、かけたまえ」

「……失礼します」


 まるで面接官と就活生のようだった。

 二人で広縁のテーブルに腰かける。


「そう緊張しなくてもいい。……飲むか?」


 西ノ宮和文は、そういって酒を勧めてくる。


「いえ……酒は飲めないもので」

「そうか。残念だ」


 もちろん嘘だ。

 酒は普通に飲める。もっといえば酒は強い方だった。


 だが、この老人の前でアルコールを飲むような真似は、サバンナに裸一貫で飛び込むようなものだろう。

 少なくとも、これからアルコールを交えながら話をする雰囲気でもなかった。


「まず、私のことは聞き及んでいるだろう?」

「……何のことですか?」

「美也の祖父だ。今まで、美也が世話になっている」


 とぼけても、無駄というわけか。


「……あの、一体何の用ですか? わざわざ部屋にまで招いて」

「そう焦ることもないだろう?」

「……美也を待たせているもので」

「ほう」



 興味深そうに西ノ宮和文は目を細めた。



「仲は良いようだな」

「……」

「あの子が、他人に懐くとは珍しいこともあるものだ」

「え?」


 まるで今まで見てきたかのような言葉だった。


「月乃も、昔は人見知りだったからな。言語が不自由な美也がそうなるのは、自然な流れだろう?」

「……貴方は俺たちのこと、どこまでわかっているんですか?」

「最初からだ」

「最初? どの最初ですか?」

「君たちの事情はすべて知っていると、そう考えてもらって構わない」


 内心ため息を吐く。


 この老人の前で駆け引きをしようにも、やはり大物というべきか、経験値が違い過ぎる。

 鉄の鎧を着た兵士に木の枝を持って突っ込んでいるかのような気分だった。


 俺は、この老人に太刀打ちできるのか。

 目の前の老人を見据える。

 

 見た目は普通の老人にしか見えないものの、臓物が縮み上がるかのような圧迫感が俺を締め付けていた。


「白石玄水との間に子が産まれたことも、そして二人が別れたことも、美也が言語障害だということも、そして三年前に月乃が死んだこともな。そして美也は二か月ほど前、君が引き取った。違うかね?」


 お題目でも唱えているかのような、淡々とした口調だった。

 静かな、よく通る声が、部屋に響く。


「なら、今頃俺のところに現われて、一体何の用なんですか?」

「君と直接、話がしたくてね」

「俺と?」

「ああ。それでわざわざここまで来た」


 美也ではなく、俺と?

 

「さて、色々と話したい思いもあるが、単刀直入に言わせてもらいたい」

「……なんですか?」

「美也を、引き渡すつもりはないかね?」


 やはりこの手の話か、と俺は身構えた。

 ただの世間話で終わるはずがないと思っていたが、さすがに不意打ちだった。


「……それは、一体どうして?」

「わからないのかね?」


 試すような口調でいった。


「美也にとって、私は実の祖父だ。君は? 君は彼女にとって、何者なのかね?」

「……」

「君よりも、実の祖父である私が彼女を引き取る。その方が、自然だし、健全だ」

「引き取ろうとする理由になっていないでしょう、それは。正当性の話なんてしてませんよ」


 落ち着け、ペースに呑まれてはいけない。

 とにかく、黙って話を聞いてはいけない。


 相手の狙いはもうわかっている。

 なら、俺の目的は一つだ。なんとしても、美也を引き渡すわけにはいかない。


「私の一族の話は聞き及んでいるかね?」

「西ノ宮家、ですか」

「そうだ。でもそれだけじゃない。美也の血筋だ」

「血筋?」

「そうだ。あの『眼』、そして淡い色の髪。元々は、私の妻――つまり、美也から見れば祖母から受け継いだものだ」

「……それが、どうかしたんですか?」

「私の妻――恵美えみというんだが、地元の有名な神社の生まれでな。美也と同じ、眼と髪を持っていたよ。若い頃にそっくりだ」


 西ノ宮和文は背もたれに体を預け、視線を宙に彷徨わせた。


「美也は娘の形見であると同時に、私の妻の形見でもある。それに今、西ノ宮家は養子を迎えて存続させているが、やはり正当な血筋を迎えるべきだと思ってね。西ノ宮家は大昔から続いている家だ。絶えさせるわけにはいかないのだよ」


 本音なのか、それとも建前なのか。

 判断がつかない。


「……理由はわかりました。けど、何でその話を俺にいうんです? 美也か、あるいは美也の父親にいうのが筋ってものじゃないですか?」

「美也は父親を信頼していない。そして、君のことは信頼している」


 なるほど。

 つまり、俺さえ切り崩せば美也の同意なしでも美也を引き取れると思っているのか。


 確かに、美也の拠り所は父親の白石首相でも新田でもない。

 俺なのだ。

 俺がもしこの老人になびくことになれば、美也はそれに従わざるを得なくなる。


「どうだね? 美也を引き渡す気はないかね?」

「……お断りします」


 それがわかっているからこそ。

 俺がここで首を縦に振るわけにはいかない。


 逆に俺は一体どんな条件を出されたら首を縦に振るのだろうか。

 全く想像できない。故に、この決断が揺らぐことは決してない。


「なら聞くが、まだ学生の身である君が、あの子のことをずっと支えることができるというのかな? あらゆる責任が取れると?」

「責任の話じゃない。あの子の意思です。あの子が俺の元に居続けようとする限り、俺は彼女を手放したりしません」


 毅然として、言い放った。


「ふむ……喋らぬ彼女の意思を汲み取っているとでも?」

「少なくとも、娘に望まない縁談を押し付けて逃げられた親よりは。彼女の意思を汲んでいる」

「ほう、私を煽るとはな。余裕がある」


 感心したように、言った。

 そしてそれは、どこか他人事のようにも感じた。


「では、いくらだ?」

「……は?」

「いくら渡せば、応じてくれるのかな?」

「――本気で言ってるんですか、そんなこと」

  

 頭に血が上るのを感じた。

 ぎゅっと拳を握りしめた。

 

「ふざけないでいただきたい……」

「金以外のことなら、何が望みだ?」

「望み? 決まっているでしょう、そんなこと……」


 俺の望み。

 どんな財産を積まれようが、揺るがぬ望み。


 どんなものよりも価値のある望み。


「あの子と一緒にいること。それが俺の望みですよ」

「……どうしても譲らぬか?」

「あの子の帰る場所は、俺の家うちだ。それ以外の、どこでもない」

「……そうか」


 西ノ宮和文は、腕を組み、俯く。


「他に用がないなら、これで失礼します」


 俺は立ち上がり、背を向ける。

 話はつけた。

 これ以上ここにいる理由はない。

 部屋に美也を待たせている。


「フフ……」


 背後から、笑い声が聞こえた。

 

「ハハハ、あぁ、なるほどな。ハハハッ」


 愉快そうな、心の底から楽しんでいるかのような、気持ちのいい笑いだった。


 振り返る。


「いやぁ、この私が一杯食わされるとは。あの時以来よな」


 部屋を支配していた、まるで大仏のような圧倒的な威圧感が消え失せる。

 そこにいたのは、年相応に衰えた、どこにでもいるようなただの老人だった。

 

「かけたまえ」


 面接官のような、値踏みするような眼差しも無くなっていた。

 その目には、優しげな光が宿っていた。


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