第68話 コンタクト
歩き続けて体力の限界を感じつつ、何とか旅館の方まで戻ってくる。
夕食は道頓堀の適当な飲食店で済ませてきた。さすがに昨日のことは反省しているのか、綾瀬はアルコールを飲まなかった。
だったらもっと日頃から控えて欲しいと思うわけだが。
部屋に戻り、足を伸ばした。
時刻は八時過ぎだった。
「疲れたな……」
腰を下ろした途端、疲労がどっと押し寄せてくる。
一度座り込んだ以上、立つ気にならなかった。
「ふぅ……」
美也も疲れたのか、全身を脱力させてお尻をぺたんと下ろしていた。
とりあえず楽な格好に着替えて、しばらくぼーっとする。
「お風呂、入るか?」
体力が若干回復したので、俺はそう提案する。
「……うん」
「今度は美也が鍵持っててくれ。今日は俺も、長めに入るかもしれないし」
「うん」
美也に部屋の鍵を渡し、一緒に浴場に向かう。
「じゃあ、部屋で待ってて」
「……うん」
男湯の暖簾をくぐる。
更衣室で服を脱ぎ、浴場に入る。
「お、秀斗か」
今回は先に須郷が湯船に浸かっていた。
「いやあ、疲れた疲れた」
須郷が残業帰りのサラリーマンのような、くたびれた口調でいう。
「長かったなあ、今日」
「まあな」
俺もまた、湯船に入る。
疲れた体に湯の温かさが染みわたる。
バキバキの身体がほぐれていくのを感じる。
「にしても、秀斗さ」
「ん?」
「今日、美也ちゃんとなんかあったのか?」
「何かって?」
「途中から妙に仲睦まじげだったじゃん」
「まあ、そうかもな」
「お、珍しく認めるのか」
「今更否定することもないだろ」
疲れていたからか、いつものように変な意地を張る気力もなかった。
「なあ、秀斗」
「なんだ?」
須郷が妙にニヤニヤしていた。
「もしよ? もし、美也ちゃんから告白されでもしたら、お前どうすんだ?」
「その話か」
色恋沙汰になると疲れも吹き飛ぶのだろうか。
とことん中学生のようだった。
いつもは大学生らしく飲み会だのナンパだの、それらしい努力をしている割には、価値観は中学生どまりなのが、モテない原因なのだろう。
「前に言ったこと、覚えてるか?」
「前? どの前だ?」
「ほらよ、美也ちゃんが初めてうちの部室に来た時さ。そんで、俺と秀斗にコンビニに買い出しに行っただろ?」
「そんなことも、あったかもな」
「んで、俺は言ったんだよ。『秀斗は自分の気持ちに早めに答えを出した方がいいかもな』って」
「……あったかもな」
「結局、それどうなったんだよ?」
確かそれは、「もし美也が俺に告白してきたとしても、断れる気がしないんだ」、と須郷に漏らしたことで始まった会話だった気がする。
「お前の方から何もしないってことはわかったけどよ。でも、気持ちの整理はできてんのか?」
「整理って呼べるかは知らないが……」
今、考えよう。
もし仮に、まさに今日美也が俺に告白してきたとして——
「うん、大丈夫だ」
「大丈夫って、何が?」
「まあ、問題ないってことだ」
「なんだよ~、ごまかしやがって。教えろよ」
「なんでお前に教える必要があるんだよ」
「ちぇ、けっちくせ」
拗ねたようにいう。
「ま、いいや。俺は外野だからな。本人が納得してるっていうんなら、それでいい」
須郷は立ち上がる。
「俺はもう上がるぜ」
「ああ、また明日な」
「明日はどこ回るんだ?」
「今日で滅茶苦茶歩き回ったし、明日はのんびりと京都をぶらぶらするよ」
「ふ~ん、それもそれで楽しそうだな」
「じゃあ、おやすみ」
「おっす、おやすみ」
須郷が浴場から出る。
それと全く同じタイミングで、人が入ってくる。
また新田か、と半ばうんざりした気分になる。
昨日会ったばかりだというのに。
それとも、何か西ノ宮家の件で進展でもあったのだろうか。
俺は入り口に背を向けるような形で湯につかっていた。
足音がこちらに近づいてくる。
俺のすぐ後ろで止まった。
「隣、いいかね?」
「え?」
想定していた声とは違った。
低く、そして芯のある声が浴場に響いた。
後ろを振り向く。
老人だった。
声だけでいえば四十くらいだろうと見積もっていた俺は、その若々しい声に驚く。
皺が深く、しかし彫りが深い顔立ちもあって老いを感じさせない。髪も、後ろへ撫でつけられるぐらいには生えそろっている。
眼には力強い光がともっていた。
「あ、はい、どうぞ」
「失礼するよ」
老人は一礼し、俺の隣で湯に浸かる。
老人の身体は痩躯でもなく、そして無駄な脂肪もついておらず、引き締まっていた。
それにしたって、この老人、何で俺の隣に?
「ふむ……」
老人は無言で俺を見詰めてくる。
まるで値踏みするかのような目に、俺は困惑した。
なんなんだ、一体。
「あ、あの」
「なんだね?」
「な、何か俺に用ですかね?」
「ああ、失礼。じろじろと見てしまって。何分、一人暮らしが長かったものでね。こうして人と一緒にいてしまうと、つい、ね」
「は、はあ」
「悪い癖でね」
老人はははは、と愉快そうに笑う。
が、俺は気づいていた。
この老人、目だけは全く笑っていなかった。
「君は『黒瀧秀斗』君、で良かったかな?」
「……はい?」
唐突に名前を呼ばれ、俺はぽかんとする。
そして数秒経った後、俺は身構えた。
「……誰ですか? あなたは」
「初めまして、黒瀧君。こうして君と出会えて、光栄に思うよ」
老人は笑顔を浮かべる一方、すっと目を細めた。
「西ノ宮和文という、よろしく」
♢
シュウより先に風呂から上がった私は部屋に帰ると、まず布団を敷いた。
一人分だけ。
二人分敷いたところで、昨日みたいに一人分しか使わないだろう。
私のことだから、そう断言できた。
今は明るくとも、照明が消されれば何も視えなくなる。
『眼』が使えなくなれば、私は本当に、何もできなくなってしまう。
その時に、一人で眠れたことはなかった。
シュウと一緒に、シュウの温もりや匂い、心臓の音を感じて、そうして、初めて眠りにつくことができる。
今夜も、きっとそうなるだろう、と私は思った。
私は弱くて、ちっぽけな存在で、誰かの支えがないと生きていけない。
だからこそ、そんな私をずっと受け入れてくれていた彼に甘えてしまうのだろう。
彼は喋れない私に、何も文句を言ったことはない。
一緒に住んでいる時も、その対価を要求したこともない。
そのことを、ずっと心苦しく思っていた。
世話になりっぱなしで、支えられてばかりで、手を引かれることしかできない。
だからこそ、ほんの少しでも彼の役に立てたら。ほんの少しでも、手を引くことができたら――
「……おそい」
時計を見る。
私が湯から上がってから、かなり時間が経っている。
まだ浴場だろうか。
彼はそこまで長風呂ではなかったはずだが。
どこに行ったのだろうか。
不安は感じない。彼はいつかは、私のもとに帰ってくると知っているから。
でも、何も告げずに一人でどこか行く人でもない。
気になる。
「……」
私は部屋の鍵を持って、外へ出た。
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