第62話 だいよくじょう
「はぁ……」
旅館の大浴場は俺の貸し切り状態だった。
ちょうど宿泊客が少ない時期に来たらしく、大浴場で赤の他人と鉢合わせにならずに済みそうだった。
大浴場全体は学校のプールほどの広さがあり、これを独り占めできるのは中々贅沢なことをしている気分だった。
すると、大浴場の戸がガラガラと開いた。
「おう」
入ってきた須郷が手を挙げた。
「綾瀬は大丈夫だったのか?」
「今頃部屋で伸びてるぞ。ひっくり返った亀みたいにな」
「明日あいつ起きれるかな」
「さあな。まあ、あれでもいつもよりはマシだ」
二人で湯船に浸かる。
去年泊まったホテルは個室に風呂がついていたので、何気に一緒に風呂に入るのは初めてだった。
「美也ちゃんも今、風呂か?」
「ああ。そうだぞ」
「じゃあ、今壁を隔ててすぐ隣には、美也ちゃんが風呂に浸かってるってわけか」
「中学生みたいな発想するんじゃないよ」
「これは二つの意味で、『だいよくじょう』だな」
「気持ち悪いし、面白くもないな」
「実際のところ、お前美也ちゃんと同居してるんだろ? なんかポロリとかねえのかよ」
「あるわけ――」
いや、そういえば美也と一番最初に会った日にあったな。
素っ裸のまま洗面所から出てきて、度肝を抜かれたことを思い出す。
「……お前、まさかあるのか?」
「ん? あ、いや」
「おいおいおい、聞いてねえぞ。そんな話」
「いう必要もないだろ」
月日にしてみればおよそ二か月程度前なのに、もうだいぶ昔の話のように感じる。
「で、お前らはこれから同じ部屋で寝泊まりするわけだが」
「まだ何か?」
「お前、そろそろ何かアプローチしたらどうなんだ? お前から美也ちゃんに何かするの見たことねえぞ」
「その話か」
濡れて垂れてきた前髪を掻き上げる。
「あの子に対しては、俺から何もしないことに決めてるんだ」
「へえ? なぜ?」
「……あの子が、そういう眼をしていたからだ。自分の手で成し遂げたいっていう」
あの夏祭りの日を思い出す。
今まで言語が不自由な彼女が、一生懸命自分の想いを口に出そうとしている。
それを俺は、見守ってやるべきだと思った。
俺ができるのは、彼女をただ受け入れることだけだ。
「ただ……」
「ただ?」
「……そろそろ、何か動くかもな」
美也は毎日ちょっとずつ変化していっている。
そしてこの旅行で、何かが大きく変わる。
そんな気がする。
「へえ。まあ、だらだらと関係続けるよりはいいじゃねえか。俺も、お前らには進展してほしいしな」
そう言って須郷は湯船から上がった。
「もう上がるのか?」
「ああ。俺はもう部屋に帰って寝るよ」
「おやすみ」
「ああ、おやすみ~」
須郷が浴場から出たのと同じタイミングで、男が入ってくる。
宿泊客かな、と思うと、男はまっすぐ俺の元に向かってくる。
「よう」
「あれ、あんた」
「なかなかいい旅館じゃねえか」
新田だ。
「いつの間に……」
「俺の仕事は早いからな」
新田はゆっくりと湯船に浸かる。
「ふう〜、ここ最近、仕事ばっかりだったからなあ。たまにはこういう旅館に泊まるのも、悪くねえな」
「仕事って、何の仕事なんですか」
「美也の保護って言ってるだろ」
「それってそんなに疲れる仕事なんですかね」
「あのなあ、俺もお前の見えないところで仕事してるんだよ」
本当かねえ、と首を傾げてしまう。
「それに、西ノ宮家の件を忘れちゃいねえだろうな?」
「忘れてませんよ。でも、今日は特に何も起きなかったじゃないですか」
「甘いな、お前は」
新田は肩に手をあて、首を回した。
「そう油断ならねえぞ」
「何故ですか?」
「お前、美也の祖父がどんな人物か知ってるか?」
「知らないですけど」
「
「剛腕?」
「なかなかのやり手みたいでな。元々は病院長みたいだが、政界にも顔が利くし、大抵の金持ちや企業の社長と顔見知りみたいだ。おかげで政治家でさえ顔色を窺う始末だ」
「実際にいるんですね、そんな人」
「今は田舎の別荘でひとり寂しく暮らしているみたいだけどな」
そんな人物が、美也の祖父なのか。
現首相に、医学界の大物を肉親に持つとは、改めて美也の血筋ってすごいな、と思った。
「まあ、孤独な老人が、実の娘が遺した孫がいるって知ったら手元に置きたくなる理由もわかる気がするな」
「でもだからって、引き渡すわけにはいかないでしょう」
個人的な感情はともかく、美也は世間的には存在しないはずの首相の娘だ。
他の人間においそれと渡せるわけがない。
「せいぜい気を付けとけよ」
新田も早々と湯船から上がった。
このことをいうためだけに、わざわざ来たらしい。
「西ノ宮和文……」
美也の実の祖父。
その人物が、もしかしたら美也を引き取ろうとするかもしれない。
そうなれば俺と美也の関係はそこで絶たれる。
ただこの件で厄介なのは、客観的に見ればその方が美也は幸せなのではないか、と思ってしまうことだ。
経済的余裕があり、数少ない肉親である祖父と一緒に暮らすというのは、決して悪い話ではない。
少なくとも、元から付き合いがあったわけでもなく、見ず知らずの他人であった俺の元で暮らすよりは。
「……はあ」
息を一つ吐き、俺は湯船から出た。
浴場から上がり、脱衣所で旅館の用意した浴衣に着替える。
男湯の暖簾をくぐる。
「あ、美也」
「……ん」
女湯を出たところで、美也が待っていた。
「そういえば、部屋の鍵俺が持ってたな」
美也もまた旅館の用意した浴衣を羽織っていた。
帯の結び方がわからないのではないかと思ったが、夏祭りで浴衣を着た経験が生きたようだった。
長い淡色の髪を下ろし、風呂を上がったばかりの美也は、夏祭りの時の美也とはまた違った色香がある。
カジュアルで、くだけた雰囲気だが、非日常感が出ており、ドキッとする。
美也と一緒に部屋にもどる。
眠るにはまだ早く、かといって何かするには微妙に遅い時間だった。
試しにテレビを点けてみる。
数年前に話題になった映画が放送されていた。
「へえ、今日これやってたんだな」
内容は知っていたが、何となく気になって見入ってしまう。
途中買ってきた酒を一缶だけ開ける。
まあ、一缶だけなら大丈夫だろう、とビールを口にする。
「……」
「ん? 気になるのか?」
美也が俺の持っているビール缶に視線を落とした。
興味があるようだが、まだ美也は十九だった。酒を飲ませるわけにはいかなかった。
俺はビール缶を机に置いた。
「……?」
俺が勧めるわけにはいかない。
しかし、美也が勝手に飲んだのならギリギリ大丈夫だ。
美也は俺の顔色を窺いながらゆっくりとビール缶を掴み、自分の元に引き寄せる。
ビール缶を持ち上げ、口につける。
そして、一口、ビールを口に含んだ。
あれ、ていうかこれ、間接キス――
「ん」
美也がちろっと舌を出し、唇をなめた。
妙に艶めかしい仕草に、俺は咄嗟に目を逸らす。
「な、何ともないか?」
「ん~? うん」
特に変わりない様子だった。
変わった味の飲み物を飲んだ、といった顔だ。
意外と酒は平気なのかもしれない。綾瀬が弱すぎるだけかもしれないが。
「ならよかった」
美也からビール缶を受け取る。
でも、美也が口を付けたんだよな、これ。
須郷との間ではちょくちょくあったことではあるものの、さすがに美也が相手となると色々と意識せざるを得ない。
「ん?」
「な、なんでもない」
ぐいっ、とビールを喉に通す。
空になった缶を、机の上に置いた。
俺は何も気にしていない、と暗にアピールするかのようだった。
程よくアルコールが回り、段々と眠気が襲ってくる。
ちょうどその時、テレビで流れていた映画が終わる。
「そろそろ寝るか?」
「……うん」
布団を敷く。
いつもは一人用の狭いベッドを二人で共有していたので、ちゃんと二人で二つの布団で寝るのは初めてだ。
旅行先で、和室で、浴衣姿で、布団で、そして美也と一緒に寝る。
この特別感は、やはり旅行ならではだ。
横になる。天井がいつもより高く感じた。
「電気消すぞ?」
「……うん」
電気を落とす。
いつもすぐ隣にいるはずの美也が、今日は少し離れた布団で寝ている。
少し寝返りを打てばそれだけで縮まる距離でも、俺にとっては遠く感じた。
「……む」
隣の布団がもぞもぞと動く。
俺の体が、温かく、柔らかい感触に包まれる。
「み、美也?」
「ん~」
隣の布団から這い出てきた美也が、やはりいつものように俺の体に抱き着いてきた。
「ちょ、美也? 隣の布団があるだろ? 早く戻って——」
「――やぁだ」
「え?」
「やだ~」
呂律の回っていない声だった。
よく見てみると、美也の顔は少し赤らんでいた。
薄く開けた目はとろんとしており、どこかぼーっとした表情を浮かべている。
「ん~、えへへ♪」
美也のか細い手が俺の背中を上下する。
俺も眠気を押さえられなくなり、大きなあくびをする。
まあ、いいか。
結局このいつもの姿勢が一番落ち着くのだから。
美也の身体に腕を回すと、背中をポンポンと優しくたたく。
耳元で静かな呼吸が聞こえ始める。
それを聞き、俺も目を閉じた。
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