第58話 名俳優
「……ねえ」
肩を優しくゆすられ、俺は薄く目を開ける。
「シュウ?」
上から声が聞こえた。
ふわぁ、と軽くあくびをする。
「美也か」
俺は起き上がり、軽く背を伸ばす。
「おはよう、美也」
「……おはよう♪」
ぎょっとした。
まさか返事をするとは思わず、一瞬固まってしまう。
「……?」
「あ、いや、なんでもない」
柔らかい笑顔を向けられ、咄嗟に平静を取り繕う。
やはり不意に喋られた時の驚きは慣れないものだ。今後はこういうことも増えていくだろうに。
「あれ、もう飯つくってるの?」
「うん」
食卓にはすでに朝食が用意されている。
実家から帰ってからの美也は、俺よりも早く起きて、俺が起きるまでに朝食をつくってくれている。
俺はそんなことをしろとはひと言も言っていないし、むしろ俺が「手伝おうか?」というと、勢いよく首を横に振るのだ。
料理に関してはどうしても自分がやりたいようで、なので俺も任せるようにしていた。
顔を洗い、着替えと歯磨きを済ませ、食卓に着く。
「いただきます」
「……」
美也は黙って手を合わせた。
今日の朝食は和食だった。
白飯、味噌汁、焼き魚、漬物など。
黙々と料理に手を付ける。
うまかった。
一体いつの間に、こんな調理技術を身に着けたのだろうか。
ここ最近、美也を取り巻く環境に大きな変化があった。
それは携帯と財布の所持だった。
今までは持たせても意味がないので新田が管理していたが、つい数日前から「持たせてもいいぞ」と突然許可が出たのだ。
美也が簡単な単語を話せるようになってきているからだろう。
おかげで一人で買い物に出かけることもできるようになった。
そして、もう一つ大きな変化として、筆談(或いはメールでのやり取り)ができるようになった。
これで美也とのコミュニケーションが今よりずっと捗る――と思いきや、どういうわけか美也は筆談でのやり取りを断った。
その理由はよくわからなかったが、どうやら美也にもこだわりがあるらしい。
俺は最近の出来事を思い起こしながら、味噌汁をすすった。
「……ん?」
味噌汁を口に入れた瞬間、違和感が広がった。
俺は一人暮らしを始めてから味噌汁をつくったことはない。
なので実家の味噌汁の味しか知らない。
美也のつくった味噌汁は、俺が知っている味噌汁より薄かった。
そして俺は、味噌汁は薄味の方が好きだった。
しかしこのことは、両親どころか祐奈にすら言ったことがない。
もちろん美也にも言った覚えはなかった。
「……?」
美也が俺の様子を見て、首を傾げる。
「な、なんでもないよ」
まあ、そんなことはいい。今は早く朝食を済ませなくては。
美也に起こされることとなったが、今朝を急ぐのはちゃんと理由がある。
今日はまさに、大阪へと発つ出発日だった。
♢
「忘れ物はない?」
「……うん」
「ハンカチ、テッシュは?」
「うん」
「着替えもちゃんと三日分と予備分があるな?」
「うん」
「下着の方も大丈夫?」
「……」
「ご、ごめんって」
一瞬だけでも冷たい視線が向けられ、たじろぐ。
美也の怒った顔は別に怖くない――何なら愛らしく思える――のに、腹の下がひやっとする。
本気で怒ったなら何が起こるかわからねえな、と冷や汗を垂らした。
「じゃあ、行こうか」
「……うん」
キャリーバッグを手に持ち、俺たちはマンションを下りる。
美也のキャリーバッグは華奢な美也でも持ち運べる、コンパクトサイズのものだ。
直前になって祐奈に借りたのだ。
元々旅行に際して持ち込むものが少ない美也にとって、コンパクトサイズのもので十分だった。
須郷と綾瀬で話し合った結果、旅行の日程は三泊四日となっている。
泊まる旅館もそれぞれのお財布事情を考慮して、安過ぎず、高すぎず、それでいて満足度の高いものを選んだつもりだ。
待ち合わせ場所の駅前まで移動する。
駅前とあってさすがに人は多く、おまけに夏真っ只中ということもあって、げんなりするほど蒸し暑い。
「あっつ……」
「……あつい」
美也が同意するように顔をしかめる。
待ち合わせ場所を外にしたのは失敗だった。
「お、秀斗。先に来てたのか」
須郷が人混みの中から現れる。
「須郷か」
「暑くて敵わねえな、こりゃ」
「これで綾瀬が来てくれれば、中に入れるんだけど――」
とあたりを見渡すと、人混みの中から真っ黒な装いをした女性がこちらに向かってくる。
「待たせたわね」
「やっぱりお前か」
黒いパーカーにくるぶしまでかかる黒のストレッチパンツをはいた綾瀬が手を挙げる。
須郷はそれに渋い顔をした。
「お前、そんな格好して暑くねえの?」
「は? 暑いに決まってるでしょ?」
涼しげな顔で答える、綾瀬。
「じゃあなんで全身真っ黒なんだよ」
「あのねえ、オシャレのために暑さ寒さを我慢するのは普通のことでしょ?」
「言うほどオシャレか?」
人目の多い駅前に着ていく服とは思えない。
本人がそれでいいと思うのならそれでいいが。
「なんでもいい。とりあえず中に入ろう」
駅の構内に入る。
外よりはいくらか涼しかったが、中の方が人が多いのでむさ苦しさは変わらなかった。
「うぅ……」
美也がその人の多さに肩を落とした。
夏祭りの時はこの時よりさらに人が多かったものの、あの時と違って平時の人混みは嫌いであるようだ。
「新幹線の出発時間って、何時なの?」
「十時三十七分だ」
今の時刻は九時四十五分。
駅ならぶらぶらと見て回ることができるだろうということで、少々時間が空いている。
だが、美也がすでにばてていた。
「ちょっとゆっくりできる店に入るか」
駅の地下に降り、某有名コーヒーチェーン店に入った。
そこでしばらく腰を落ち着かせる。
「そういやよ、俺たちまだサークルの動画つくってないだろ?」
須郷がコーヒーを口に含みながらそう言う。
「動画ってのは?」
「ほら、あるだろ? 年度ごとのサークルメンバーが引退する前に動画つくるやつ」
「ああ、あれか」
うちは曲がりなりにも映研。
ただ映画を見るだけでなく、つくるのも活動内容に入っている。
ただ、うちのサークルはゆるゆるなので、映画作成に熱を上げる部員は少ない。
それでも引退するまでに最低一つは作品を残すのが決まりとなっている。
「んで、考えたんだけどよ、せっかく旅行なんだからそこで撮影も兼ねていった方がいいと思ってな」
須郷はバッグからデジタルカメラを取り出した。
部室にある備品だが結構な高性能で、今時動画撮影はスマホでできるものの、これで撮ったほうが格段に出来の良いものができる。
「撮影が俺がするってのは、前に決めただろ?」
入部するときに一応決めた役割だ。
「撮影担当が須郷、編集担当は俺、演出担当は――」
「私ね」
綾瀬が名乗り出る。
「でも、これだと、誰が動画に出るんだ」
つまり、俳優がいない。
撮る動画自体は特に取り決めはないため、二時間たっぷり使ったものでも、五分程度の短いものでも構わない。
なので、人が映らない動画でもいいのだ。
だが、それだとやはり味気ない。
「俺たち三人しか人手はいないから、まあ、作る動画は三分から五分程度でいいとしてだな。誰が出るんだ?」
「いるじゃない。秀斗のすぐ隣に」
「え?」
反射的に隣を見る。
「……?」
カフェラテをちびちびと飲んでいた美也は、三人の視線が自分に向いていることに気付き、きょとんとする。
「適任でしょ。ビジュアル的に動画映えするし」
「サークルのメンバーじゃないのに出させるのか?」
「もうほとんどメンバーなもんだろ、美也ちゃんは」
確かに美也が出てくれれば、それで問題は解決なのだ。むしろ珍しい淡色の髪に琥珀色の瞳を持ち、それでいて容姿が非常に整っている美也は、俳優としては最高の人材だ。
「別に無理な演技をさせるわけでもないし、セリフも用意しないからさ。それだったらいいでしょ? ね、美也ちゃん?」
「……ん? うん」
特に逡巡することなく、美也は頷く。
ビデオカメラでじっくりと撮られることに抵抗は感じないらしい。
「なあ、試しにカメラに向かって笑ってみてくれよ」
須郷がそんな無茶ぶりをしてくる。
須郷が美也にカメラを向けた。
「に、にぃ~……」
カメラに向かって最大限口角を上げる美也。
「おい、秀斗。美也ちゃんの脇をくすぐってやれ」
「なんでだよ」
「作り笑いがなあ……ぶっちゃけ下手くそ」
「……うぅ」
美也がしょぼん、とする。
美也の作り笑いは頬が完全に引きつっており、とても自然な笑顔とはいえなかった。
美也には悪いが、脇をくすぐってみるのも一つの手段かもしれない。
試しに俺は美也の脇腹をつん、と突いて――
「ひゃあ⁉︎」
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