第56話 導き

 ※第47話「月の瞳」の前半の続きとなる部分です。

 


――――――――――


 あの時、どうして彼についていったのか、自分でも不思議に思う。

 

「え、俺の家に行くってことでいいのか?」

「……(こくり)」

「そ、そうか」


 頷いた後、なんで承諾したのだろうと思った。

 雨にしばらく打たれていたので早く屋内に入りたいという気持ちもあったが、かといって見ず知らずの男性の家に転がり込むのはさすがにどうなのか。


 とはいえ、そう重大なことにはならないだろうと考えていた。

 彼の言動や表情から、邪な感情は見出せなかった。

 それに、彼の顔立ちに、どこか既視感があるのも気になった。


 私は一度見た相手の顔は絶対に忘れない。

 彼とは一度も会ったことがないのは断言できる。


 なのに、その顔立ちに何故か懐かしさを覚えてしまうのはどうしてだろう。

 

 相合い傘を差しながら、彼の横顔をちらっと見た。

 彼は気まずそうに、何とか話題を出さないと、と逡巡していた。


 結局沈黙を保ったまま、彼のマンションに着く。

 郵便ポストには、「黒瀧くろたき」と書いていた。


 聞いたことのない名前だった。

 彼が郵便ポストから郵便物を回収する際、宛先に書いてある名前が一瞬だけ見えた。


 ――黒瀧秀斗くろたきしゅうと


 エレベーターに乗り、彼の部屋の前に着く。

 鍵を開け、促されるまま部屋に入った。


 物が少なく、よく整頓されている部屋だった。

 男性の一人暮らしは生活が荒れるという偏見があったのだが、そうでもないようだった。


 その後、シャワーを浴び、少しトラブルがありつつも、雨が上がるまで彼の家に留まった。

 彼は変わった人だ。 


 見ず知らずの私にここまで親切にしてくれる。

 それに騙したり、嘘をつかない、正直な人であることがわかる。


 正直な人は、とても好きだ。

 なぜなら人が嘘をつけばすぐに分かるからだ。

 すぐにわかってしまうからこそ、正直な人は一緒にいると心地よかった。


 それに、私が一向に喋らなくても彼は気にする様子はなかった。


 私は人とコミュニケーションを取ることができない。

 

 筆談や手話による会話もできない。

 思いを言語化しようとすると、直前になって頭が空っぽになり、何もできなくなる。


 まるで呪いのようだった。

 しかし私が最も辛かったのは、人と会話できないことでなく、人が私と会話を試みようとしなくなったことだった。


 最初は誰もが私に憐れむような目を向け、優しく接してくれる。あるいは珍しい障害を持つ私に興味本位で近づいてくる人もいる。

 しかし関係が続けば次第に私と「会話」を試みるのが面倒くさくなる。


 正直、それは仕方がないと割り切っていた。

 私は相手に何も伝えられないのだから、相手に負担がかかるのはどうしようもない。


 それでも、だんだんと煩わしそうに私を避けるようになるのが、苦しかった。その行動を理解できてしまうのも、余計に辛かった。

 

 でも、彼はちょっと不思議そうな顔をしただけで、態度が変わる気配はなかった。ちゃんと私の眼を見て、話しかけてくれた。


 

 雨が上がり、彼の家から出る直前まで、彼は私を気遣っていた。


 彼がくれた傘を持ち、マンション出た。

 短い時間だったものの、印象深い人だった。

 

 マンションを出てからというもの、彼のことがずっと頭を巡っていた。

 だからこそ、目の前に立つ人の気配にも気づかなかった。


「ったく、手間かけさせやがる」


 新田だった。

 家を勝手に出ていった私を探していたらしい。

 新田は曲がりなりにも警察の人間であるため、私の位置は筒抜けだったようだ。 


「まさか男の家にホイホイついていくとはな。さすがの俺も予想外だったぞ」


 しかも新田はどうやってか、彼の家を盗聴していたようだった。

 国家権力とはつくづく怖いものだ、と思う。


 すると新田は、私の手に見慣れない傘が握られているのに気づく。


「……なあ、今、お前を引き取ってくれる奴を探しているのは知っているな?」


 私は頷く。

 母が亡くなってから三年も経つ。母が遺してくれた資金は多くなく、その上私は一人で社会生活を送れる状態ではなかった。


 病を完治するには、他人と関わりながら長期的な治療をする必要がある。

 失語症のリハビリにも、人とのコミュニケーションが効果的といわれていることから、私の治療にもそのような方法が取られた。


 だが両親の生い立ちが影響して親戚には頼れず、赤の他人で私を引き取ってくれる人を探さねばならなかった。

 

 実の父が現在首相ということもあって慎重にせざるを得ず、三年経った今も、見つかっていない。


「もし今のやつが引き受けてくれたら、お前はどうする? お前は、あいつと一緒に住むことになっても、それでいいか?」


 唐突にそう尋ねてくる。

 どうだろう、と私は思った。


 この時は彼と一緒に暮らすことになると思っても、何の実感もわかなかった。

 でも全く見ず知らずの他人よりは、短い時間であっても信用できると思った人の方がいいと思った。


「……そうか、わかった」


 新田は沈黙を肯定と受け取ったのか、携帯を取り出し、誰かと連絡を取った。

 それから先は怒涛の展開だった。


 新田は彼の経歴、勤務先、連絡先、家族、交友関係、その他一切に至るまで調べ上げ、夜中に彼の家に突入した。


 新田は単刀直入に、「美也と一緒に暮らせ」と切り出した。 

 最初はさすがに彼も目を白黒させ、渋るような態度を取ったが、新田が口八丁で丸めこもうとする。


 徐々に劣勢になっていく彼を見て、こんな形になって申し訳ないな、と思ってしまった。


 そして彼と一緒に暮らすことが、あっという間に決まってしまった。

 私も急展開に頭が追い付いていなかったが、動揺よりも眠気の方が勝っていたようで、段々と頭が働かなくなる。


 そんな最中、彼の友人らしき人物が部屋に訪れ、家に送りに出て行ってしまった。


 電気がついている部屋の中、ベッドに横になる。  

 私は眠る直前まで目を開けているため、薄目を開けながら意識が落ちるのを待った。


 彼が帰ってきて、シャワーを浴びている間もそうしていた。

 そして、彼が風呂から上がり、部屋に戻ると、電気を消した。


 一瞬にして、視界が奪われる。

 暗闇。

 それを理解した瞬間、ビクッと跳ね起きた。

 

 私にとって視界を奪われるとは、五感全てを奪われることに等しかった。

 起き上がり、彼が横になっている方へ向かう。


 とにかく怖くて、不安で仕方なかった。  

 彼に縋るように抱きついた。

 

 すると彼が背中をそっと撫でた。

 くすっぐたくも、背中を伝う温かい感触が心を落ち着かせてくれた。


 彼は一緒に寝ることを提案した。

 私は小さく頷いた。


 一緒のベッドに寝そべると、自然と彼と密着する。

 彼の心音が伝わってきた。


 だんだんと、私は呼吸を整えることができた。

 彼は包容力がある人だった。

 無条件に私を受け入れてくれる。

 すごく安心する。


 でも彼は、私と密着してガチガチに緊張していた。

 心音もどんどん早くなっている。


 私は彼と眼を合わせた。

 鼻先が触れ合うような距離で、じっと見つめ合う。

 しばらくして彼の動悸が落ち着いていくのが伝わる。


 ゆっくりと目を閉じ、やがて規則的な呼吸音が聞こえてきた。


 私の眼は、母親譲りの、特別な眼だ。

 この眼には、相手と感情や感覚を共有する不思議な力がある。


 エンパシーのように相手の気持ちを受信することもできれば、自分の感情も電波のように相手に送りつけることもできる。

 

 彼が眠ったのを確認すると、私も目を閉じた。

 

「……ん」


 彼の体温はとても温かい。

 匂いも、心音も、感じているだけで安心できた。クセになりそうだった。


 そして、およそ三年ぶりに、私はぐっすりと眠ることができた。



 


 今にして思えば、この時から、彼のことが好きになっていたかもしれない。






――――――――――


 この回想は物語の1〜5話にあたる部分です。



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