第55話 バカップル
歌いだしたい気分だった。
これは決して上機嫌というわけではなく、あまりにも暇でやることがない故にだった。
「……暇だ」
「……」
迷惑な客が押しかけてくることもなく、実に平和である。
こんなに暇なら俺がいなくてもいいのではないかと思うが、セルフのガソリンスタンドは「危険物取扱者乙種4類」という資格を持った者が客の給油を監視しなくてはならない。
ガソリンは引火性の液体であり、文字通りの危険物なので無人で客に供給するわけにはいかないのだ。
なので一人で店番をするにはその資格を取らないといけない。
俺は張本先輩からの勧めにより半年前に資格を取った。
資格手当は月に数千円と多くはないが、長く勤めるほどメリットが大きかった。
「……っ」
美也がついに沈黙に耐えられなくなったのか、俺の服の袖をくいっと引っ張った。
「あ、悪い。ぼーっとしてた」
美也と向き合う。
外が完全に暗闇が下りているからか、ちょっと不安そうだった。
前から「美也は暗闇を恐れているんだ」と新田にいわれていたが、今回の件がそれに拍車をかけてしまったらしい。
これなら最初から見せなきゃよかったな、と思った。
須郷が言っていた、「一緒に風呂まで付き添った方がいいんじゃないか?」という台詞が現実味を帯びてくる。
「……う……あ、う」
美也は自分から何か言い出す気配を見せるも、言葉にならない。
不安がっている、ということしかわからない。
俺は俺なりに美也の言いたいことをくみ取ろうと努力しているつもりだが、やはりわからないものはわからない。
俺はエスパーでも何でもない。
できることを最大限やるしかない。
「……落ち着いて、大丈夫。俺が傍にいるって」
言った後に、「よくもまあ、そんな恥ずかしい台詞が言えたものだな」と呆れともつかない感情が湧いてきた。
椅子を寄せ、美也に片腕を回し、背中をさすった。
正直、顔から火が出るほど恥ずかしかった。
寝るときはベッドが狭いから体が密着してしまうのは仕方ないとしても、俺から接触するのは初めてではなかろうか。
「……ん」
美也が深呼吸したのが分かった。
美也が椅子を寄せる。互いの膝が当たる。美也の腕が俺の腰に回される。
控えめで、恐る恐るといった様子だった。
俺が拒まないとわかると、美也は前かがみになって俺の肩に顔を埋める。
俺はもう片方の腕を回し、美也の背中を撫でたりポンポンとしたりした。
この時の俺は「客に見つかったらどうしよう」とも考えず、ただ美也の息遣いを感じながら、ぼーっとしてた。
熱に浮かされるように、美也の背中を撫で続ける。
「……ん」
「ん?」
「んへへ」
美也が顔を綻ばせる。
ああ、やっと笑った、と俺もちょっと安心した。
しかしなんとなく互いに離れる空気にならず、密着したまま時間だけが過ぎる。
こうやって抱きしめていると、美也の身体が最近ふっくらしてきていることに気付く。
太ったというわけではなく、元が痩身だったために、健康的な女性らしい身体つきになったというべきだろう。
美也は普段から露出が少なく、緩い恰好をしているので、外見では気づかなかった。
少しドキドキしてくる。
女性の身体なんて邪なことを考えてしまったせいか、恥ずかしさがぶり返す。
「……?」
美也が俺の顔をじっと見つめてくる。
顔の距離が近い。
互いの鼻先が当たりそうな距離だった。
きめ細やかな肌と艶のある長い髪がよく見えた。
透き通った琥珀色の瞳が、俺を捉えて離さない。
あの時と同じだ、と俺は思った。
花火を見た公園の時と同じ雰囲気だ。
「……シュウ?」
「ど、どうした?」
美也が俺の背中に手を回す。
まるで逃がさないとでもいうかのようだった。
美也の顔はとにかく真剣だった。
「シュウ」
美也の手が俺の胸元をまさぐっていることに気付く。
左胸、心臓の位置を美也はそっと撫でる。
その間も、美也は俺の目をじっと見詰めている。
俺は黙って美也の言葉を待った。
動悸が収まらない。
一秒がやけにゆっくりに感じる。
「――」
美也の綺麗なピンク色の唇が小さく動く。
美也の喉が上下する。
その様子を俺は目をかっと見開いて眺めていた時だった。
「――なにやってんすか」
従業員出入り口から、毛利が顔をのぞかせていた。
♢
「な、な、なな……」
「なに口パクパクさせてんすか」
「な、何でお前ここにいるんだよ!」
パッと美也から体を離してしまう。
「来週のシフトを確認しに来ただけっすけど。むしろ先輩こそ何やってたんすか」
「な、何って?」
「言っときますけど、私全部見てますからね?」
「何を?」
みっともなく言い逃れする。
「職場で先輩が女の子連れ込んで、イチャコラするところっすよ。一体職場で何やってんすか、そういうのは自分の部屋かホテルでやって欲しいっす」
ぐうの音も出ない正論である。
「大体先輩いつの間に美也ちゃんと付き合うことになったんすか? まあ、私からすればやっとか、って感じっすけど」
「あ、いや、別に付き合っているわけじゃないんだ」
「はあ?」
毛利はまさに「はあ?」という顔をした。
「先輩クズですね」
いつもの「~っす」口調も鳴りを潜め、本気の説教を食らう。
「付き合ってもない女の子をバイト先に連れ込んで、一人であることをいいことにイチャイチャですか。私だからまだいいものを、店長とかお客さんに見られたらどうするつもりだったんですか? 先輩どころか、美也ちゃんにも迷惑じゃないですか」
「……すいませんでした」
その後も毛利は「大体先輩はここじゃベテランなんですから、責任感とか上に立つものとして——ガミガミガミガミ」と一切の反論の余地のない説教を長々と浴びた。
すると、ここで美也が毛利の服の袖をつかんだ。
ふるふる、と首を振る。
まるで「シュウのせいじゃないよ」と訴えているように見えた。
毛利はここで一旦冷静になったのか、はあ、と大きくため息を吐いた。
「とりあえず、何でこんなことしたんっすか? よりによって秀斗先輩が」
「それはだな――」
始めから説明する。
サークルメンバーとその場のノリでホラー映画を見て、意外と耐性の無かった美也がビビりまくり、バイトに行こうにも一人にさせるわけにいかず、ここに連れてきた。
「……先輩は美也ちゃんを甘やかしすぎっすね」
自分で言ってても、そう思った。
毛利は本当はもっと突っ込みたそうな顔をしていたが、「こいつらには何をいっても無駄だ」という諦めが滲んでいた。
「でもさ、仕方ないんだよ」
俺はというと、借金まみれのくせにパチンコがやめられないギャンブル狂いの苦しい言い訳のような口調で言う。
「仕方ないじゃないっすよ。気持ちはわかりますけど、自制心くらい持ってください」
「……はい」
「美也ちゃんも、先輩に甘えるのはいいっすけど、ほどほどにしたほうがいいっすよ」
毛利はそう結論付ける。
「……」
美也も注意を受け、反省するように顔を伏せた。
「あ~もう、このことは店長には言わないっすから。くれぐれも同じことはしないでくださいっす」
「……はい」
見つかったのが毛利で良かったと、俺は安堵する。
「じゃあ、私はとっとと帰りますから」
毛利はシフト表を一瞥した後、早足に去っていった。
従業員出入り口をバタンと閉める。
「……」
「……」
静寂が訪れる。
美也と見つめ合う。
しょんぼりとしているかと思えば、思いの外美也は平然としていた。
まるで悪戯が先生にバレて、「バレちゃったね」とはにかむ小学生のようだった。
「はは」
その無邪気さにやられたのか。
俺も自然と笑いが出た。
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