第54話 イケないこと
携帯に着信があったのは、須郷たちが帰った直後だった。
咄嗟に番号を確認する。
バイト先の番号だった。
「はい、黒瀧です」
電話に出る。
『黒瀧、今大丈夫か?』
「大丈夫ですけど」
この気だるげでやる気のない声は、店長のもので間違いなかった。
『申し訳ないが、今から出てくれないか?』
「え?」
『遅番の子が急に熱が出てな。急で悪いが、頼めるか?』
「いいですけど……ちょっと待ってください」
ちらっと、美也の方を見た。
「……?」
「あ、あのさ」
電話を耳元から話す。
「急にバイトに入ることになったんだけど、たぶん夜遅くまで帰れなくなる。その間、一人で留守番――」
「……っ⁉」
「できないよなあ」
先ほど俺の手首をつかんでいた美也の手は、今は俺の指にまで下がっており、親指以外の四本指を束ねて握っていた。
あのホラー映画は、親が仕事で家を留守にしている間、主人公である娘が様々な怪奇に出くわすという内容だったので、留守番というワードに美也は顔を青ざめさせていた。
「わかった、一緒に行こう」
電話を再び耳に当てた。
「わかりました。今からそっちに向かいます」
『ありがとう。助かる』
電話を切る。
実家に帰っている間バイトは他のメンバーに任せきりにしていたので、このくらいの出勤、どうということはない。
うちのバイトの勤務歴が長いのが、張本先輩、次に俺だった。
張本先輩は現在就活中で多忙の身であり、最もシフトに入りやすく、かつ仕事の要領もわかっている俺に頼みたかったのだろう。
「じゃあ、いこうか」
「……うん」
リュックを背負い、マンションを出る。
時刻は夕方五時を回っているが真夏とあってまだまだ明るい。
日が出ている外を見て、美也は胸を撫で下ろすかのように息を吐く。
車に乗りこみ、バイト先に向かう。
時間が経って落ち着いたのか、今度は美也は申し訳なさそうな顔をした。職場にまでついてくるのはさすがに迷惑と思ったのだろう。
前にもこのようなことがあったので俺は特に気にしていなかった。逆に「今更何を気にしているんだろう」と思った。
バイト先に到着する。
美也を連れ、店に入った。
「お疲れ様です」
「ああ、黒瀧。お疲れ」
デスクに頬杖をつき、パソコンから目線を外さぬまま、店長は挨拶する。
「悪いな、急に呼び出して」
パソコンの画面は、「浮気調査の相場はどれくらい?」「不倫を確実に暴くためには!? 裁判で有利になる七つの証拠!」など、家庭の仲を察してしまうようなタブが開かれていた。
「隣の子は、いつぞやのか」
美也の方をちらりとも見ないまま、いう。
「また休憩室で待たせてもいいですか?」
「いいぞ。私はもうあがるからな」
「お疲れさまでした」
「帰る前に、煙草を吸ってくる」
そういって、パソコンの画面を閉じ、店長は二階に上がる。
階段で店長とすれ違うように、張本先輩が降りてきた。
「おぉ~、黒瀧氏。お久しぶりでござる」
「お久しぶりです」
この独特な「ござる」口調を聞くのも、随分懐かしく感じる。
始めは聞いていてむさ苦しかったが、本人の性格が「オタクです」といわんばかりの見た目に反してさっぱりしているからか、妙にクセになる。
「む、隣の
「ですね」
「お久しぶりでござる」
張本先輩に、美也はぺこりと会釈する。
「今から遅番でござるか?」
「ええ、急に呼び出されて」
「かたじけないでござるなあ」
「別に先輩が悪いわけじゃないんですし」
「ところで、ひとつ黒瀧氏にお尋ねしたい」
「なんです?」
「白石女史とは、もう男女の仲なのでござるか?」
「え?」
またこの類の質問か、と頭を掻く。
「そう見えるんですか?」
「……」
「気分を害したなら申し訳ない。ただ、お二人が仲良さそうに見えたものでござるから」
「別にいいんですけど、付き合ってませんよ」
「そうでござるか」
あっさりと納得するも、張本先輩はどこかニヤニヤしている。
「で、いつ付き合うつもりで?」
「あのですねえ……」
張本先輩は「うひひひ」と幼児のように楽しそうな顔をしながら、気持ちの悪い笑い声をあげる。
「張本先輩はもう上がりですか?」
話題を変える。
露骨に思われるだろうが、このまま話が続けられるよりはマシだった。
「そうでござる。もう退勤切ってるでござる。今は帰るところでござるよ」
「じゃあ早く帰ってください」
「ひ、ひどいでござるな。まるで拙者が邪魔ものみたいな……」
「……そっとしておいてやれ、張本」
店長が二階から降りてくる。
「若い男女が仲睦まじく二人一緒……外野がとやかく言うことはない」
珍しくいいこというなあ、と俺は思う。
「そんなんだから、お前は大学に行ってまで彼女ができないんだぞ」
妻に不倫されているこの人もどっこいどっこいだと思うが。
「ほら帰るぞ、張本」
「ちょ、店長押さないで欲しいでござる」
「あとは店番頼んだぞ」
そういって、店長と張本先輩は出ていった。
とりあえず俺はタイムカードを切り、出勤する。
時刻は六時を回ったとはいえ、まだ明るい。
「……」
美也は二階への階段を上り始めた。
一階は仕事場なので、さすがに部外者の自分がここにいるわけにはいかないと思ったのだろう。
すぐ下に俺がいるといえど、彼女は少し不安そうな顔だった。
「ちょっと待って」
「……?」
「一階にいていいよ。どうせこの時間に人こないし」
バレたら大問題だろうが、彼女を一人にさせる方が俺にとっては大問題に思えた。
「そこに座ったらいいよ」
デスクを指さす。
その位置は外からも中からも客からは見られない死角なので、よく「サボりスポット」として悪用されていた。
まさかこんなことに使うとは思いもよらなかったが。
「……うん」
若干遠慮と困惑が混じりながらも、美也は椅子に座る。
初めて椅子に座った小学生のように、やけに姿勢が良かった。
ここは二十四時間営業のセリフのガソリンスタンド。
だが二十四時間営業といっても、バイトが店番をするのは午後十時まで。
その後は外部の会社に警備を委託しているので、それまでセルフにもかかわらず「給油してくれ」といってくるトンチンカンや、作業受付時間過ぎているにもかかわらず「パンクしたから直して」といってくるアンポンタンや、夜遅くに電話で「バッテリー上がったからつなぎにきて」といってくるアホンダラを捌きながら、今日分の売上金を計算したり、そのデータを本社に送らなければならない。
あとは店内のごみの回収と機器の点検。
それが終わればほとんどやることがない。
黙々と作業を進める。
午後七時を過ぎて外がようやく暗くなり始めた。
八時になれば外は真っ暗になる。
美也はさっきからずっと所在なさげに足をぶらぶらさせていた。
やがて給油に来る客も少なくなり、外も静かになる。
冷静に考えれば、職場に女の子連れ込んで夜に二人きりって、超やばいな、と今更ながらに思った。
店長にバレても見逃してくれそうなものだが、本社にクレームでも入ったらさすがにシャレにならない。
冷たい汗が背中を伝う。
今まで真面目に生きてきた分、イケないことをしているという現状に心臓がバクバクと鳴る。
二人きりでいるのは当たり前のはずなのに、そこが部屋ではなくいつも仕事しているバイト先というだけで、何とも言えない背徳感に襲われる。
「……っ」
美也も、少し気まずそうだった。
コンビニとは違って給油機の周りに防犯カメラはあるものの店内には設置されていないので客に見られない限り何をやってもバレることはない。
仕事が全て終わる。
時計を見ても、八時半。
まだ一時間半もある。
短いようで長い時間だ。
俺はしみじみとそう思った。
―———―——
張本先輩、約30話ぶりの登場。
別に忘れていたわけじゃないですけど、出す機会がなかったので、今回無理やり詰め込みました。
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