第49話 白石玄水
新田が首相公邸に着いたころには、日を跨いでいた。
こんな時間でも公邸の周りは警備が厳しい。
日本の信用問題に関わるのだから当たり前といえば当たり前だ。
だがそんな厳重な警備であっても、新田は顔パスである。
上から何と通達されているのか知らないが、誰もが深夜に公邸に訪れる小汚いおっさんは何者なのかと憶測が飛び交っている。
正面から堂々と建物へと入る。
ホールを抜け、二階へ上がり、とある部屋の前で立ち止まる。
ドアをノックした。
「入れ」
「失礼します」
頭を下げ、新田は入室する。
執務室の奥に、男が座っていた。
歳は四十半ばだが、歳の割には艶のある黒髪と彫りの深い精悍な顔つきのせいか、もっと若く見える。
とても十九の子を持つ親とは思えない。
しかし身から溢れ出る威圧感は、歴戦の戦士を思わせるようだった。
日本国の首相、白石玄水。
今を時めく、国の若き担い手である。
「……報告しろ」
地の底から響くような、重々しい声だった。
互いに挨拶一つ、交わすことはない。
新田は非公式には、この場にいないことになっている。
白石首相は新田に一瞥もくれず、書類に視線を注いでいた。
「美也が喋りましたよ」
「……」
一瞬白石首相の眉がピクリと動き、視線が新田へと移される。
「一言だけ、ですけどね」
「……何といったんだ?」
「『シュウ』、と。ただそれだけ。ですが以前と寝言とは違って、明らかに意思を持って言葉を発しています」
「例の大学生の名前か」
「みたいですね」
「……君の目から見て、彼はどうだ?」
「といいますと?」
「黒瀧秀斗、とか言ったか。どんな人物に捉えている?」
首相の関心が美也から黒瀧秀斗へと移る。
「勤勉な大学生、といった感じですかね。人柄は信頼できると思いますが」
「……君の説明だけではどこにでもいそうな大学生に聞こえるが」
「まあ、第一印象は確かにそうですね」
黒瀧秀斗を「ただの大学生」と言い切るのは抵抗感があったが、かといって彼の明確な長所を挙げられるわけでもなかった。
真面目、誠実、親切など、当たり障りのない言葉しか思い浮かばない。
「……美也は今後どうされる予定なので? まだ彼の元に預けますか?」
一言だけとはいえ、美也は確かに言葉を発した。
十九年間ただの一言すら喋らなかったことを考えれば、奇跡といってもいい。
この状態の回復を見て、首相がどう手を打つのか、新田には読めなかった。
「……無理に彼から引き剝がすこともあるまい。しばらくはそのままにさせておけ」
「わかりました」
「それにしても、黒瀧秀斗、か」
「彼が気になりますか?」
「ああ。一度会ってみるのもいいかもしれん」
「首相自ら?」
「この眼で見なければ、わからないこともある」
白石首相は机の上の書類をデスクにまとめた。
「ちなみにだが、彼らはこの先大阪に行くらしいな」
「ええ。サークルの旅行だとか」
「だったら彼に伝えておけ。『西ノ宮家には気を付けろ』、とな」
「……それは、どういう意味でしょう?」
互いに踏み込んだ領域の話などしない仲だ。
ただ白石首相の過去は、個人的に興味があった。
首相に関して知っているのは西ノ宮家の三女と駆け落ちし、美也を授かったという話の大枠だけだ。
当時の西ノ宮家との間にどういうやり取りがあったのか、詳しくは不明だった。
「おそらく、西ノ宮家は美也の存在を認知していない。……そう言えば、わかるか?」
「……なるほど」
「まあ、あの爺さんも滅多なことはしないだろう。気にかける程度でいい」
フラグ臭え発言すんじゃねえよ、と突っ込みたくなった。
「今日はもういいぞ。ご苦労だった」
白石首相は椅子を回し、新田に背を向けた。
新田は一礼し、部屋を去る。
「……西ノ宮家、ねえ」
やはり調べを進めた方が良さそうだな、と思考を巡らせながら、建物を出た。
♢
「次帰ってくるのは、年末かしら?」
「バイトの都合が合えばね」
「別に無理に帰ってこようとしなくていいのよ? 美也さんと家でゆっくりしたいのなら」
「家が遠かったら、そうしたかもな」
結局車で行ける距離だ。年末くらい家族と顔合わせる機会があっていいだろう。
「お前、もう帰るのか?」
玄関先から、父さんがニョキっと顔を出した。
「サークルで旅行する予定があるし」
「そうか」
特に興味をそそられる様子もなく、頷く。
「まあ、勉強頑張れよ」
「わかってるって」
父さんはそのまますっと家の中に戻る。
「美也さんも、またいらっしゃいね。いつでも歓迎するわ」
「……うん」
美也は静かに頷く。
この短い間に、美也と母さんはだいぶ仲良くなったらしい。
俺が部屋でゴロゴロしている時、美也は料理を手伝っていたらしく、それを世話好きな母さんは気に入って色々と面倒を見てたようだ。
「じゃあ、気を付けてね」
「ああ、じゃあ」
美也と一緒に車に乗り込む。
エンジンをかけ、車を発進させる。
家が遠ざかっていくのを、美也は窓越しに見詰めていた。
ちょっとだけ、寂しさの滲む表情だった。
「寂しいのか?」
「……」
「まあ、いざとなれば電車で行ける距離だし、祐奈は頻繁に遊びに来るからな。寂しがることはないさ」
母さんはもちろん、家の中では祐奈とも結構接する機会があったようで、たびたびゲームの手伝いに誘われていたようだ。
歳が近い女子同士、通じるものもあったのだろう。
「楽しかったか?」
「……うん」
俺の目を見て、美也は微笑む。
海に、夏祭りに、花火大会。
夏のイベントをこれでもかと詰め込んだスケジュールだった。去年の夏は家でだらだらしていた記憶しかないのに、今年は随分と濃い夏休みを過ごしたものだ。
それも美也に出会っていなかったら、絶対に過ごしていなかった夏だったと思うと、感慨深くなる。
「来年もさ……」
とそこまで言って、口を閉ざす。
俺と美也が来年も一緒にいられる確証はどこにもない。
この関係自体が、大人の都合一つでなかったことにされるという危うさを持っている。
そのことを、今更ながら思い出した。
しかも、美也は既に回復の兆しを見せ始めている。
症状が改善されれば、美也との別れも近いかもしれない。
不思議なものだった。
美也と同棲を始めた当初はあまりの展開に現実感がなかったのに、今となっては美也が隣にいるのが当たり前になっている。
美也が隣にいることで安堵を覚えている自分を、自然と受け入れていた。
だが、それもいつまで続くか定かではない。
「……来年もさ、一緒に行こうな。海も、祭りも」
「……っ!」
それでも俺は、意を決して口にする。
実現するかはわからない、ささやかな願いだ。
「……やくそく」
「え?」
美也は俺をまっすぐに見詰める。唇を震わせ、美也は言葉を口にした。
「やくそく」
「……わかった。約束だ」
「……うん」
美也は笑みをこぼした。
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