第36話 「ほわわぁぁ……」
美也が寝静まったタイミングを見計らい、俺はベッドから抜け出す。
今日も美也は俺を抱き枕にするように眠っていたが、一度寝付けば滅多なことでは起きない。
美也から体を離すと、寂し気に「……ん~」と眉根を寄せる。
「すぐ戻るって」
そっと頭を撫でる。
美也はすぐに「……でへへ」と頬を緩めた。
一瞬だけ携帯を取り出して写真に収めたい欲求にかられたが、それを押さえ部屋を出る。
廊下の壁に寄りかかり、電話を掛けた。
相手は三コール目で出た。
『お前、今何時だと思っている?』
「午前零時過ぎと思っています」
新田の嫌味にも、毅然と返した。
『また何か用なのか? 俺は、お前が思っているより暇じゃないんでな』
「美也の母親のプロフィールを、教えてもらえませんか?」
『は? 美也の母親だと? なぜだ?』
「……少し気になることがありまして」
ずっと引っかかっていた。
美也に初めて会った時に感じた、既視感。
だが、美也のような女の子に出会ったことは一度もない。
美也に似た容姿の人だって、滅多にいることではない。美也の母親を、除けば。
『金は?』
「は? 金?」
『俺は公安の捜査官だ。つまり国家お抱えの情報屋だ。プロにタダで仕事頼むなんて、お門違いだぞ?』
「つまり金さえ払えば情報をくれると?」
それもそれで汚職な気がするが。
『まあな。でも、美也の母親のことはそこまで詳しくは知らんぞ?』
「なら知ってる情報だけでも」
『大した情報はないんだがな……まあ、初回サービスでタダにしておいてやる』
ありがとうと言うべきか、少し迷う。
『名前は
「帝東大の附属病院……?」
『三年の前に肺炎を患って亡くなったそうだ。その以上のことは、知らん』
「顔写真とかはないんですか?」
『顔写真? 照会すれば出てくるだろうが、生憎そんな時間はないぞ? 俺は忙しいんだ』
「……そうですか」
『用件はそれだけか?』
「ええ、聞きたいことは聞けました」
『そうか。なら、早く寝るんだな。お前明日海行くんだろ?』
電話が切られる。
西ノ宮月乃。聞いたことのない名前だった。
一つ気になったのは、彼女が帝東大学附属病院に勤務していたカウンセラーだったことだ。
帝東大学附属病院は、昔祖父が入院していた病院だった。祖父はもう亡くなって久しいが、小学校の頃はよくお見舞いに行っていた。
そこで出会ったカウンセラーは『あの人』以外にいない。
だが確信を持てたわけではない。
あの人の名前を聞いたことがなかったし、記憶も靄がかかったように朧気だった。
せめて顔写真でも見れば思い出せるかもしれなかったが、今は仕方ない。
携帯をしまい、部屋に戻った。
相も変わらず、美也は起きる気配はない。
俺は美也の隣に寝そべり、目を閉じた。
♢
「兄、まだ準備できないの?」
「今、歯磨いているだろ。終わるまで待ってくれ」
「美也ちゃんだって待ってるんだから。急いでよ」
「そう急かすな」
窓の外を見やる。
明るい朝日が差し込んでいる。
降水確率ゼロパーセント、絶好の海日和だ。
身支度を終え、洗面所を出る。
玄関先で美也と祐奈が待ち構えていた。
「ほら、行くよ。新一だって待たせてるんだから」
「でも、うちの車は四人乗りだぞ? 樋渡さんも含めたら五人にならないか?」
「祈ちゃんの家、海近いから。自転車で来るんだって」
「ああ、そうなの」
家から出たところで、星くんが手を振ってやってくる。
「秀斗さん。待ってましたよ」
「待たせたな、星くん」
「いやぁ、僕海に行くのなんて久しぶりですよ。楽しみです」
「俺も結構久しぶりかも」
四人そろって車に乗り込む。
運転席はもちろん俺、助手席に美也、後部座席に祐奈と星くんが座る。
「……」
明らかに浮ついている後ろの二人に比べ、美也は随分と落ち着いていた。
むしろ俺たちが舞い上がっている理由が、よくわかっていないようにも見えた。
だが、実際に行けばそれもわかるはずだ。
「おい、祐奈。シートベルトつけろ」
「は~い」
祐奈がシートベルトをつけたのを確認し、発進する。
実家から海まで、車で十五分程度だ。
幸いにも道は空いていたので、順調に車を飛ばしていく。
海が近づくにつれ、潮の香りが風に乗ってやってくる。
窓を開ければ、夏のむわっとした空気と同時に海から吹く涼し気な風も入ってくる。
「今年はやっぱり人多いのかな」
「そうなんじゃない? ここの海は綺麗だし、ビーチは広いし。海水浴場としてはなかなかのスポットだしね」
「去年も遠目ですけど、パラソルとかがびっしり敷き詰められてましたからね。賑わってると思いますよ」
車が坂道を上る。
そして上り坂の頂上を越えると、視界が開ける。
市街地の向こうに見えるのは、波の立たない、まるで青い絨毯を敷いたような海が広がっていた。
日光が海面に乱反射し、眩く光り輝いている。
「……っ!」
美也が目を見開く。
「やっぱ何度見てもきれいだよな、ここの海は」
「地元の自慢だよね」
「……」
美也が窓を開け、車から身を乗り出す。
「ほわぁ……」
感極まったように、美也は声を漏らす。
「おいおい、危ないぞ」
「……っ」
「今から幾らでも見れるんだから。せめて走行中は大人しくしてくれ」
美也は一旦席に着いたが、黙っていても隠し切れない興奮が伝わってくる。
目をキラキラさせ、フロントガラス越しに海をじっと見詰めていた。
ここまで表情を輝かせている美也を、初めて見たかもしれない。
市街地を抜け、海水浴場近くの駐車場に車を停める。
駐車場はほぼ満車に近く、空きスペースは数えるほどしかなかった。
やはり今の時期は人が多いらしい。
「それで、樋渡さんはどこに?」
「駐輪場で待ってるって言ってたから、近くに入るはずだよ」
「なら早く合流しよう」
車から出ると、うっすらと波の音と人々のはしゃぎ声が聞こえてくる。
「……」
「ほら、行こう」
ぼうっと立ち尽くす美也の手を引き、歩き出した。
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