第32話 「シュウに見せたい……」

「そもそも聞きたかったんだがよ」

「なんです?」

「なんでお前、心理学を専攻しているんだ?」


 刑事の取り調べ、というより飲み仲間と雑談するような気安さだった。


「臨床心理士ってわかります?」

「なに?」

「臨床心理士。いわゆるカウンセラーみたいなものです」

「お悩み相談みたいなもんをする人ってことか?」

「簡潔に言うなら、そうです」


 心理系の資格の中でもっとも有名で、最も難しいとされる臨床心理士。

 臨床心理士は民間資格であるが、高い専門性が要求される。

 また受験には大学院の卒業が必要になる。

 だが心理学コースの学生は、この臨床心理士を目指して進学してきたケースが少なくない。


「小中学校に、スクールカウンセラーっていたでしょう?」

「確かにいたな。俺は会ったことはないが」

「でもお世話になった人は少なからずいるんですよ。今の世の中、老若男女問わずストレスにさらされていますからね」

「窮屈な世の中だ」

「で、カウンセリングを受けて心理学に興味を持って、そのまま大学で心理学を学ぶっていう話はよく聞きますね」

「お前の場合はどうなんだ?」

「今、この国では四百万もの人が精神障害を抱えています」


 新田の質問には答えず、数字を持ち出す。


「人口でいえば横浜市に匹敵する数です。恐ろしいでしょう? 日本だけでそんなにいるんですから」

「お前はそんな人たちを救いたくて、勉強しているのか?」

「今はそうですね。でも、それは後付けの理由です。俺が心理学を学ぼうと思ったのは別の理由があるんですよ」

「別の理由?」

「スクールカウンセラーの話と似ているんですけどね。昔世話になった人が、たまたま臨床心理士だったんです」


 その人の顔はよく覚えていない。

 出会ったのは、俺が小学生の頃だ。

 記憶は年々おぼろげになっていくのだが、その人の言葉と声だけはやけに耳に残っていた。


 出会った瞬間から、その人に憧れを抱いたわけではなかった。

 何年も経ち、高校に入って、将来を見据えて勉強を始める段階になった時、ふとその人のことを思い出したのだ。


 俺が目指すべきは、あの人だと、その時気づいた。


「意外としっかりした理由があるんだな。大学生の割には」

「さすがに俺の歳になってくると、将来見越して勉強しないとマズいですから」


 そもそも帝東大は偏差値が高い分、目的意識の強い学生が多い。

 たとえば須郷は司法書士を目指しているし、綾瀬は高校教師を志している。

 皆、自分の進路に真摯に向き合わなければならない時期なのだ。


「もうすぐ期末試験がありますから。そろそろ勉強しないと」

「俺は邪魔だってわけか?」

「俺が今まで一度でも、アンタを快く家に入れたことがあるとでも?」

「いいだろ、別に。お前の家、同級生から溜まり場にされているらしいじゃないか。俺が一人いたところで、変わらないだろう」

「そういう無遠慮なところが嫌なんですけどね」


 監視と内情視察がお家芸の公安のくせに、自分を客観視できないのだろうか。


「わかったわかった。今日は一旦帰るよ」

「一旦?」

 

 彼女の家に入り浸る男が朝帰りするかのようなセリフだ。


「また来ることは確実なんですか……」

「前も言っただろ。俺の仕事は美也の保護だ。お前が美也と生活をともにする限り、俺も定期的に様子を見なければならない」

「毎日こられる俺の身にもなって欲しいんですけどね」

「毎日お前の家にいかなきゃならん俺の身にもなってみろ」


 そういう割には随分とくつろいでいるように見えるが。


「じゃあな。また明日」


 案の定明日来ることを宣言しつつ、新田は部屋を出ていく。

 

「はあ」と息を吐きつつ、俺は勉強机に向かった。


 ♢


「……ふ~ん、ふ~ん♪」


 いつになく陽気に鼻歌を歌う美也を眺めながら、例によって俺は美也の髪を梳かす。

 それだけならまだ微笑ましかったのだが、美也はブレスレットを風呂あがってからずっと大切に手に持っていた。


 喜んでもらえることは素直に嬉しいのだが、そこまで大切に扱われると面映ゆかった。


「そ、そんなに気に入ってくれたのか?」

「……?」

「家の中くらい外してもいいんだぞ?」

「……ふふっ」


 美也が含みのある笑いを浮かべる。

 

 何か変なことでも言っただろうか?


 どんなに着飾っても人目がなければ意味がない。

 ブレスレットをつけたところで、家の中では見てくれる人もいないのではないか。


 疑問に思いながらも、ブラッシングを続ける。


「……んぅ♪」


 美也は俺に背を向けているため表情は見えないが、明らかに上機嫌であることはわかる。

 ブラッシングを終えると、瞬時に美也は俺の股、正確には下腹部に頭を乗せてくる。


 いつもブラッシングが終わればそのまま寝てしまうのだが、今夜はまだ眠りたくないのか、美也は俺の股の上でもぞもぞと頭を動かす。

 太ももが擦れてくすぐったかった。


「どうしたんだ、美也?」

「……」


 美也が艶っぽく、目を細める。

 美也の右手が、俺の顔に伸びてくる。


 俺の頬に、美也の手が添えられた。

 そっと、撫でられる。 


「……な、なんだ?」


 どう反応すればいいのかわからず、言い淀む。


 これは、一体どういう意図なんだ?

 まるでわからない。

 されるがまま、頬を撫でられる。


 美也の細い指が顔の輪郭をなぞっていく。

 

 さすがに恥ずかしさを覚え始めた頃、不意に美也の手が離れる。

 

「……すぅ」

「……寝たのか」


 美也の頭を慎重に持ち上げ、枕に横たえる。 

 体を離そうとした瞬間、美也の腕が腰に回される。


「……んーっ」

「……やっぱりこうなるわけか」   


 目を閉じた美也は、見た目以上に幼い印象があった。目を開けている間は、不思議な雰囲気を持つ瞳のせいか、高貴な印象さえあったというのに。


 今はただの、年下の、甘えん坊の女の子だった。


 美也のすぐ隣に、寝そべる。

 美也の頭をポンポンと撫で、電気を消した。

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