第26話 「……でーと♪」
『まだ何とも言えん。しばらく様子を見ておくんだな』
新田からの電話が切られた俺は、携帯を握りしめたまま美也の方を見やった。
「……むにゃ」
呑気な寝顔だ。
体を丸め、俺に身を寄せるその姿は、飼い主に甘える猫のようだった。
さっき本当に、喋ったのか。
幻のようにも、夢のようにも思える。
もしかして、俺が寝ぼけていただけではないのか。
自らの正気を疑う。
だが、今でもはっきりと思い出せる。
――シュウ。
確かに彼女はそう言った。
それをこの耳で、はっきりと聞き取ったのだ。
俺はじっと、美也の寝顔を眺める。
また喋り出したりしないだろうか。また「シュウ」と言ってくれたりしないだろうか。
ひたすら待ってみる。
しかし美也は、相変わらずぐっすり眠ったまま。
寝言を口にする気配はない。
「……もう一度、言ってくれればそれでいいんだけどな」
そうしたら気持ちよく眠れるというのに。
結局諦めがつかないまま、早朝になるまで待つ羽目になった。
♢
「……あ?」
全身を包む、気持ち良すぎる柔らかさを感じながら、俺は目覚める。
目を覚ましたところで、ようやく俺は眠っていたのだと気づく。
アラームに設定した時間は、とうに過ぎている。
今日は元々大学もなければバイトも入っていない。
寝過ごしたところで、支障はない。
俺は視線を足元に向けた。
「……♪」
案の定、美也が俺の体にしがみついている。
いつも通り過ぎて、もう慣れたものだった。
「起きろぉ」
起こしている俺が、すでに二度寝モードに入っている。
俺だって起きたくないし、できることならずっとこのままでも構わないとさえ思っている。
だが、今日はちょっとした予定を立てていた。
「……?」
美也が薄く、瞼を開けた。
どんよりと濁った黄金色の瞳を覗かせる。
「朝だぞ」
「……ぐぅ」
即決で二度寝を決め込む。
「おい、寝るな」
俺は美也を引きはがそうとするも、美也の力は強い。
がっしりと鎖で固定されているかのようだった。
「……んーっ」
「ちょっと、おい! 今日は一緒に出掛ける予定なんだぞ」
「……っ⁉」
「うおっ、急に離れるなよ」
勢いのあまりつんのめりそうになる。
美也は体を離し、俺の言葉を待った。
「実はさ、今日美也の服を一緒に買いに行こうと思って」
「……?」
「ほら、最近暑くなってきただろ? でも、美也全然服持ってないし」
そろそろ梅雨も明ける。
冷房がないと寝苦しい時期だ。
だが美也の持っている服はどれも春用で、とても夏に適した服装とは言えない。
美也は頻繁に外出する機会が多いわけではないものの、おそらくこれから増えていくことだろう。
大学はそろそろ夏休みになる。
そうなると実家に帰ったりサークル仲間と旅行行ったりと、俺が家を空ける頻度も上がる。
美也も一緒に連れていくことになるのだから、その時に着ていく服がなくては困る。
「だから一緒に出掛ける予定だけど、よかったか?」
「……♪」
美也は心なしかうきうきした様子で頷いた。
ベッドを降り、着替えを持って洗面台へ行ってしまう。
「そんなに楽しみなのか?」
疑問に思いながらも、俺はその間に朝食をつくる。
目玉焼きを焼きながら、俺はとある人物に電話をかけた。
服を買うといっても、女子の服など俺は知らないし、俺一人では対応できない可能性が高い。
それに、美也と二人っきりで出かけるのはまだ気恥ずかしかった。
ゆえに、助っ人が必要である。
相手が電話に出た。
「――あ、もしもし。今ちょっといいか?」
♢
車で向かったのは近辺で一番大きい商業施設だった。
だいたい何か不足したときは、ここに立ち寄れば補充できる。
平日ということもあって、そこまで建物内は混雑していない。
「確かここら辺に待っているはずなんだが……」
待ち合わせ場所で立ち往生する。
「……?」
美也が俺の袖を引っ張る。
「どうした、美也?」
美也が指さした先には、見知った人物が壁に寄りかかって携帯をいじっていた。
俺はその人物に近寄り、声を掛ける。
「よう。待たせたな」
「あ、黒瀧先輩。お疲れ様っす」
待ち合わせの人物――毛利がぺこりと頭を下げる。
「悪かったな。急に連絡して」
「いえいえ。自分は大丈夫っすよ。どうせ暇でしたし」
毛利は屈託のない笑みを向けた。
「美也ちゃんの服を買ってあげるんですっけ?」
「そうだ。お前を見込んで、手伝ってほしい」
「でも、何で私を? 先輩だったら他にも頼む人いるでしょうに」
「お前はこの手のことに詳しいと思ってな」
「でも先輩、私の私服見たことありますっけ?」
「いや、ないな」
バイトではツナギの作業服を着て勤務する。
毛利はもちろん、張本先輩の私服も観たことがない。
今日の毛利はショート丈のトップスにペインターパンツを着てきており、毛利の雰囲気にあったカジュアルな装いだった。
服装の印象を崩さない、控えめなデザインのブレスレットをはめている。
オシャレといえば、オシャレといえるほうだろう。
だが、毛利の私服を見たのはこれが初めてだ。
「じゃあ何で私に?」
「爪だよ」
「爪?」
「……?」
毛利どころか、隣の美也でさえぽかんとした表情を浮かべる。
「お前の爪はいつも綺麗に手入れされている。作業で汚れたときも、次の日にはぴかぴかだった。そういう身だしなみに日ごろから気を付けている人が、服装に気が回らないということはないと思ってな」
「はえ~」
毛利は感心したような、呆れたような声を上げる。
「そんなところまで見てるんですね、先輩」
「自然と目につくんだよ」
しかし毛利を選んだのは、どちらかというと消去法であった。
祐奈は試験勉強で忙しいので当然無理。
綾瀬は私服が圧倒的にダサい。
講義がある日はまだマシだが、サークルの集まりの時は「マンボウ」とか「ウーパールーパー」とかの文字とイラストがついたTシャツに、短パンにサンダルという、銭湯に立ち寄るおじさんのような恰好で来るときがある。
その強かさに逆に尊敬してしまいそうだった。
「じゃあ、とりあえず行くか」
「その代わり、今日なんか奢ってくださいよ?」
「え~。この間巻き寿司を奢ってやったばっかりだろ」
「コンビニの巻き寿司ごときで何言ってるんすか。しかも、私の誕生日――二か月前の話ですし」
「その巻き寿司に免じて、今日は頑張ってくれ」
「意外と器小さいっすね~、先輩」
その時、俺の手のひらを美也の手が包み込む。
上目遣いで、美也が楽しそうに微笑む。
自然と、こちらも握り返した。
「あらあらあら」
毛利が面食らったようにいう。
「先輩、いつの間に美也ちゃんと付き合ったんすか?」
「べ、別に付き合っていない」
「じゃあ何で手を握ってるんすか?」
「こ、これはあれだ、アレ。美也が急にどこか行ってしまわないか、心配でな」
「何っすか、それ。犬のリードっすか」
「当たらずとも遠からずだな」
ただの商業施設だというのに、美也はまるで遊園地に来た子供のように目を輝かせている。
微笑ましい様子だが、舞い上がって、不意にふらっと消えてしまいそうな危うさを同時に感じる。
「ただ俺は保護者として手を繋いでいるだけで別にやましい気持ちとか抱いていないし美也の手が柔らかいなとか思ってないし美也と手を繋いでいるとぽわぽわとした妙な感情になるとか思ってないから!」
「……そうっすか。聞いてないですけど」
早口で捲し立ててしまい、息を切らす。
「……?」
美也が不思議そうにこちらを見ている。
手をくいっと引っ張る。
――早く行こうよ。
そんな風に言っているのだろうか。
「とりあえず、行こうか」
気恥ずかしさを紛らわすように、俺はいった。
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