第18話 「すごいでしょ?」
「まさか、兄が持たせてるの?」
「そ、そんなわけないだろ。美也が気に入っているだけだ」
「……YES/NO枕だよ?」
「新婚の夫婦ですかね……」
祐奈と星くんが、そろって苦笑いする。
「……?」
美也だけが、この状況をよくわかっていなかった。
まあ、確かにこの枕がなにを意味しているのかちゃんと説明しなかったのはこちらの落ち度だ。
「その枕、どういうものかわかってるの?」
「わかってないだろうな」
誰がこの子にいえるだろうか。
この枕は夫婦間で夜のお誘いの返事をするためのものだと。
せっかく気に入った枕がそんな下ネタグッズだとは、美也も知りたくはないだろう。
「教えるべきじゃない?」
「じゃあお前が教えればいい」
「それはヤダよ」
「何なら星くんが教えるか?」
「え? いや、遠慮しときます」
もはや罰ゲームのような扱いだ。
「じゃあ、何をすべきかわかるな?」
「……わかったよ」
「知らない方がいいこともありますよね」
二人はこの一件に対し、黙殺を貫くことを決めたようだ。
「……む」
美也が問うような目線でこちらを見ている。
自分だけが除け者にされているのが気にくわないのか、眉をひそめている。
だが、断腸の思いでその視線を無視した。
「さ、勉強勉強」
「そうだね、勉強しよう」
「う、うん。勉強ですね」
学生が勉強勉強と連呼するなど、普通に考えたら異常事態に違いなかった。
美也も懲りたのか、俺から視線を外した。
だが、明らかに機嫌悪そうにムスッとしていた。
「むぅ」
「機嫌直せって」
頭を撫でる。
およそ髪とは思えない、さらさらとした感触が手に伝わってくる。
「にへへっ」
しばらく髪を撫でると、美也は表情を崩す。
みるみるうちに機嫌が直っていった。
むしろ上機嫌そうに笑みを浮かべる。
「……ムフフ♪」
「……犬みたい」
「いや、猫でしょう」
二人がぼそっと漏らす。
「見てないで、さっさと勉強しろ」
すっと机に視線を戻した。
片手で美也の頭を撫でながら適当な参考書を手に取り、ぱらぱらとめくる。
基礎問題が多いため、そこまで難しくはなさそうだ。
担当教員にもよるが、考査ごときで応用問題ばかりを取り扱うことはないだろう。
基礎さえできていれば、まず赤点はないはずだ。
「……っ」
美也が興味深げに参考書を覗いてくる。
「解いてみるか?」
祐奈から借りたペンと、数学の参考書を渡してみる。
美也はそれをおもむろに受け取った。
二人と同じように机に広げ、真剣な面持ちで解き始める。
新田によれば、美也は高校にこそ通っていないが勉強は独学で学んでいたらしく、少なくとも高卒レベルの学力はあるようだ。
ずっと病室に籠り、同年代との付き合いもなかった彼女にとっては、勉強すら暇つぶしの一環だったのかもしれない。
「ねえ、兄。ここの問題分かる?」
「微積分か」
祐奈がヘルプを求めてくる。
「わかる?」
「教科書貸してみろ」
微積分のページを開いてみる。
数年前の記憶と教科書の内容を参照する。
しかし記憶は、穴の開いたパズルのように不鮮明で、教科書の内容が全く頭に入ってこない。
「駄目だ。わからん」
「えぇ、頼りなーい」
数学は受験直前に一気に詰め込んだ。
にわか仕込みな分、忘れるのも早い。
「数学は俺の手には負えん」
「私も数学苦手なのに」
「星くんの方は?」
「僕も理系科目はちょっと……」
情けない数学弱者どもである。
「……」
「美也、どうした?」
その時、美也が祐奈が先ほどまで解いていた問題集を手に取った。
「あ、ちょっと――」
美也は素早く問題文に目を走らせる。
ペンを持ち、数式を書き込んでいく。
ペンを走らせる動きに、淀みはない。
迷いさえも感じない。
計算のスピードが尋常ではなかった。
時間にしてわずか十五秒。
答えを導き出す。
咄嗟に、俺は解答・解説を確認する。
「……あってる」
「すごい! あっという間に解いちゃった!」
ふんす、と美也は誇らしげに胸を張る。
「どうやって解いたの?」
美也は祐奈に、問題集を返した。
そこには、解答までの道順を示した数式が書き連ねてあった。
なるほど、言葉は扱えなくても数式なら書けるのか。
「美也、数学強いのか?」
「……(こくり)」
美也は他にも、化学、生物、物理の教科書を手に持った。
「それも得意なのか?」
「……ふんすっ」
挙げた科目はどれも理系科目ばかりだ。
「いいですね、心強い味方じゃないですか」
「じゃあさ。この問題分かる、美也ちゃん?」
「……♪」
美也は目を細めて不敵な笑みを浮かべ、問題を解き始める。
先ほどの問題は基礎だったが、今回は難しい応用問題。
だが、変わらずペースは変わらぬまま。
計算が複雑になろうと計算量が増えようと、逡巡するそぶりも見せない。
普通の学生なら十五分はかけて解く問題を、一分もかからず解いてしまう。
「これもあってる」
「すごっ! 頭良いのね、美也ちゃん」
「これで数学は美也がいれば安心だな」
文系科目は俺、理系科目は美也。
それぞれ分かれて二人に教えていく。
美也は解説こそできないが、図や式を残して問題の解答手順を示してみせる。
代わりに、古典や現代文、英語は俺が教えた。
美也は理系科目は得意でも、文系科目は全くの不得手のようだ。
勉強会は順調に進む。
時間はあっという間に過ぎ、気づけば昼過ぎを迎えていた。
「一旦昼休憩に入るか」
「え、もうこんな時間?」
「そういえば、お腹空きましたね」
「飯はどうするつもりだ?」
「ファストフードでいいじゃない? それかスーパーの惣菜」
「ファストフードに一票」
「あ、僕も」
「じゃあ昼食はそれでいいとしてさ、誰が買いに行くの?」
「男でいいだろ。俺と星くん」
「え、僕もですか?」
「文句があるのか?」
「あ、いえ、別に」
「じゃあ決まりだ」
世界一有名なハンバーガーチェーン店のチラシを取り出し、メニューを確認する。
「美也はどれがいい?」
「……っ」
この手のチラシは初めて見るのか、まるで素人が初めて楽譜を見るかのような、ぽかんとした表情だった。
美也は迷いながらも、メニューの一角を指さす。
「……」
「ビッグバーガーでいいのか? 結構ボリュームあるぞ?」
美也は鷹揚に頷く。
「まあいいか」
祐奈と星くんも、それぞれオーダーを決める。
「じゃあ行くぞ、星くん」
「僕は荷物係ですか?」
「良い働きを期待している」
財布を手に持った。
「しばらく家空けるから。留守よろしく」
「へ~い」
「……っ!」
家を出ようとすると、美也にくいっと袖を掴まれる。
「うおっ、どうした?」
「……」
上目遣いでこちらを見る美也。
何かを期待するような意思を、琥珀色の瞳の奥に捉える。
「よしよし」
「……♪」
困ったときは撫でる。
合っているにせよ合っていないにせよ、これで上機嫌になるならそれでいい。
「やっぱり新婚じゃん」
「うるせえ」
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