第2話 「ありがと……♪」
雨が上がったのは夕方になってからだった。
そのときには彼女の服もなんとか乾いていた。
「よかったな、雨上がって」
「……(こくり)」
元の服に着替えた彼女が頷く。
「そろそろ出るか」
結局、彼女がどこから来てどこに行こうとしていたのかわからなかった。
しかし、誘われて何の警戒もなく男の部屋に入ってしまうような子だ。きっと親御さんが心配していることだろう。
「送っていこうか?」
「……(ふるふる)」
静かに首を振る。
拒絶というより、さすがにそこまでさせるのは申し訳ないという遠慮の色が窺えた――ように見えた。
「なら、せめて傘ぐらい持って行ってくれ」
俺は彼女に長傘を差し出した。
「またいつ降り出すかわからないからな。……ああ、別に返さなくていいぞ。これはあげる」
彼女はおずおずと、まるで力士が優勝旗を受け取るかのような丁寧な手つきで傘を受け取った。
こちらをじっと見詰めてくる。
この世のものとは思えない、煌々とした瞳に、しばらく呼吸を忘れて見惚れてしまう。
「あ……」
呼吸を思い出す。
ごほん、と咳払いする。
「じゃ、じゃあな。気を付けて帰れよ」
「……♪」
気のせいだろうか。
去り際、ほんの少しだけ、ピクリとも動かなかった彼女の表情が、少しだけ和らいだ気がした。
♢
そして時は、現在に戻る。
「あ、君はさっきの」
「……」
女の子は相変わらずぼーっとしたような、何を考えているようなわからない表情だ。
「……♪」
そして俺と目が合うと、少しだけ表情が和らいだ。
しかしなぜこの子が公安警察と共に?
この子、一体何者なんだ?
この新田って男は何がしたいんだ?
疑問が尽きない。
「黒瀧秀斗。これからいうことをよく聞け」
「は、はい」
新田が一歩前に出ただけで、その体が何倍も大きくなったように感じた。
俺はごくっ、と生唾を呑み込む。
「これからこの子と一緒に生活してほしい」
「――……は?」
♢
「とりあえず、中に入れてもらえるか? 込み入った話になるんでね」
「ま、まさか……家宅捜索⁉」
「そういうのじゃないから。入るぞ」
「あ、ちょっと!」
新田はずかずかと家に上がり、その後ろを女の子がつく。
「ほう、一人暮らしにしては綺麗な部屋じゃないか。俺の部屋なんかよりずっと掃除が行き届いている。まあ、大学生の部屋にしてはいささか殺風景だな」
新田さんは部屋を舐めまわすように見渡す。さながら証拠品を探しに来た刑事のようで、何もやましいものはないはずなのに緊張してくる。
二人は食卓の前に腰を下ろした。
複数人が空間をともにすることを想定していない部屋なので、随分と狭く感じる。
「あの、お茶です」
「気が利くな」
「それで、一体どういうことなんですか? 俺が、この子と一緒に生活するって」
「落ち着きな。詳しく説明する。その前にさっさと座れよ」
「……はあ」
もうすでに我が物顔で居座る新田に、呆れともつかないため息を吐く。
ここ、俺の部屋なんですけど。
「改めて名乗ろう。俺は公安警察の
「……」
美也と紹介された女の子が無言で頭を下げる。
「さて、さっきこの子と一緒に暮らしてほしいといったが、急にそんなこと言われても納得しないだろ?」
「そりゃまあ、ちょっと意味わかんないというか」
「順を追って説明する。まあ、よく聞け」
「急にそういわれても」
「人生の転機というのは得てして予期せぬ時に来るものだ」
「何の話ですか」
「まあ、つまり。二の足踏んでたら過ぎた後に後悔するということだ。わかったらオロオロしてないで、大人しく話を聞きな」
俺は疑問と動揺を封じるように、グッと言葉を呑み込んだ。
滅茶苦茶言いやがって。
「まず、美也なんだが、彼女は障害というか、とある疾患を持っていてな」
「疾患?」
「彼女、白石美也は生まれたときから言葉が喋れないんだ」
「喋れない……」
「……」
驚くと同時に、なるほどと思った。
どうりで頑なに言葉を発さないわけだ。
「原因もよくわかっていない。先例がない病らしいからな。治療法もわからない」
「そう、なんですか」
奇病、ということか。
「ところで、美也は首相の白石玄水の一人娘だ。知っているだろ、白石玄水」
「名前くらいは。でもテレビで流れる以上のことはわからないです」
「それで十分だ」
国家のトップに相応しい、精悍で貫禄ある顔立ちを思い出す。
元アメフトの選手らしく肩幅はがっしりとしていて、それ故に威圧感がある。
外国の大使館に訪れたときに、マフィアに間違えられてガードマンに止められたという話はあまりにも有名だ。
その娘が美也というのは、なんだか不思議な話だった。
まるで虎から猫が生まれたかのような話だ。
だが、彼に娘がいるという話は聞いたこともない。妻帯者というのも初耳だった。
「美也の病を治すためにいろんな治療を試してみたが、どれも上手くいなかなかった。だが医者がいうには、『外界から何らかの刺激を受け続ければ、美也も言葉を話せるようになる』とのことだった」
「それはつまり、どういうことですか?」
「つまり、コミュニケーションを取ることだ。それもなるべく負担がかからない、同年代の子とな。それで病気が治る……かもしれない」
「かもしれない、なんですか」
「希望的観測であることは認める。だが、それ以外に今のところ手立てがないからな」
新田は俺の瞳を正面から見据えて、いう。
「そこでお前の出番というわけだ。先ほどから、どうやら美也は君に懐いてしまったみたいでね」
「懐いた? 俺にですか?」
「さあ、それは美也に聞いてくれ」
美也の方を見やっても、彼女は何も語らない。
確かにシャワーを貸したり、弁当をあげたりはしたが、懐かれるほどのことをした覚えはなかった。
「まあなんにせよ、美也が懐く人間というのは稀なものでな、美也の相手をさせるには最適だ」
「……だからこれから一緒に生活しろ、と? そんな横暴な……」
「もちろん、ただでとは言わない。報酬は払おう。美也を押し付ける手前、何も支援しないというのは一人暮らしのお前にとっては酷だろう」
「報酬?」
何とも胡散臭い響きだった。
やはり怪しい仕事を持ち掛けられているのだろうか。
「もし、この頼みを受けてくれたら――」
「受けてくれたら?」
「明日からお前のお弁当はA5ランクの黒毛和牛になるだろう」
「マジですか⁉」
「――というは冗談だ」
ですよね。
「でもまあ、報酬を払うのは事実だ。月々生活に困らない程度の仕送りをさせてもらおう」
「でも、そんなの俺だけでは決められませんよ。ちゃんと親にも確認しないと――」
「心配はいらない。お前のご両親にはすでに確認を取っている」
「い、いつの間に……」
「住所や家族構成を調べるのは簡単だったよ」
「でも、そのお金って税金からでるんですか? だとしたらちょっと受け取りづらいというか」
「安心しろ。首相のポケットマネーだ」
それも結局税金じゃねえか、という言葉はすんでのところで呑み込んだ。
「ち、ちなみにこの話断るとどうなるんですか?」
そう尋ねた瞬間、新田の表情がさっと消えた。
顔の前で手を組んだ。
「もし、この頼みを断ると――」
「断ると?」
「明日からお前のお弁当は『臭い飯』となる」
「それマジで冗談にならないやつじゃないですか」
どうだかね、と新田は肩をすくめるだけだった。
「しかし、美也をお前に預けるのは何も治療のためだけじゃないんだぞ? 美也は小さい頃病気にかかってな、学校に満足に通えなかった。美也も、他の子と同じように友達を持って、楽しく生活を送ってほしい。それが親である白石首相の本心だと思うぞ」
急にいい話に持ってこようとする新田だった。
「どうだ、話を引き受けてくれるか?」
「……最初は断るつもりでしたけど」
「じゃあ今は違うと?」
いきなり知り合ったばかりの子と同棲というのは簡単に納得できる話ではない。
話が急すぎて一度返事を保留にしようかと考えるも、新田の刺すような視線に押し黙る。
この場で結論を出せ、と暗にいうかのようだった。
自然と視線が美也の方にいった。
美也はこちらを覗き込むようにじっと見つめてくる。
無表情の中に、どこか申し訳なさそうな色を含ませて。
この子は、この歳になるまでずっと病院の世話になっていた。
同年代が学校で勉強や部活動をしている中、一人病室で過ごすというのは精神衛生上よろしくないのは明らかだ。
「一応、確認なんですけど」
「なんだ?」
「白石首相の元で預かることは、できないんですか? 実父と一緒に暮らす方が、彼女は幸せなんじゃ……」
「無理だな」
「……それはどうして?」
「彼女は、白石首相と会ったことが一度もない」
「え?」
信じられない答えに、言葉が続かない。
「戸籍上は確かに親子だ。だが、白石首相に配偶者はいない。結婚歴もない。だから独身だし、表向きには娘なんて存在しない。つまり、どういうことかわかるな?」
「……隠し子、ってことですか?」
「世間から言わせれば、そういうことだ。美也は生まれてからずっと母方の方で育てられてきた。だが、三年ほど前に母親の方が亡くなってしまってな。だから退院した今、彼女には行く当てがない」
首相の隠し子。
それは、どんな事情があろうと、週刊誌に載るレベルのスキャンダルに違いなかった。支持率や選挙にも影響することは想像に難くない。
だから、首相の元では暮らせない。繋がりを匂わせるだけでも危険なのだろう。
公安の新田が美也の傍についているのは、せめてもの親心、ということだろうか。
親が亡くなり、頼れるものが何もない。
その上病により、何も話せない女の子。
そして、雨の中で弱った姿を思い出す。
「……わかりました。受けます」
気がつくと、そういってしまっていた。
――馬鹿だな、俺は。
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