四 真実の所在地

 体は暖かいものに包まれている。


「おはようございます。あなたは何者ですか?」


 懐かしい声が聞こえた。まぶたを上げる。基地寮の、自室の天井が見えた。


「わたしは……キトリーです、管理官」


 この声は不思議だ。言うべきことを、ちゃんと思い出させてくれる。


 ――わたしは戻ってきたのだ。二度と来ることはないと思っていた、この場所に。


 寝台の横に、ニース管理官が立っていた。レイカのところへ行く前と何も変わらない姿で、そこにいる。


 起き上がろうとすると、腹部に鋭い痛みが走った。服をめくると、つんと消毒薬の匂いがした。傷口に白い包帯の下に隠れているが、まだふさがっているわけではないのだろう。 


「キトリー、あなたが行方不明になったと聞いたときは心配しました。それに、こんな怪我をして。もう少しで死んでいたところでしたよ」


 言いながら、管理官は細長い指でわたしの髪に触れた。絡まっているところをていねいにほどいて、結い上げてくれる。どれくらい眠っていたのかはわからないけれど、ずっと横になっていたせいで、髪はあちこちはねていた。


 このまま再び横になって目を閉じれば、すべてを忘れられる気がした。これまでのことは全部忘れて、まっさらな、何も考えない兵士に戻れる気がした。


 けれどわたしには、言わなければならないことがある。


「管理官」

「何ですか?」


 訊ねる声は優しい。いつだってそうだ。管理官はいつもわたしたちに優しく接してくれる。


 でも、ただそれだけではないことを、もうわたしは知っている。この人は善人ではない。魔術を使ってわたしたちを騙した。何も知らないわたしたちを使って、いろんな人間を傷つけた。自分の手は汚さずに、わたしたちを利用した。


 この綺麗な人は、本当は全然綺麗ではないことを、知ってしまった。けれど、不思議と怒りも恨みも湧いてはこなかった。


 だから、わたしはこう告げた。


「レイカは、元気そうでしたよ」


 管理官――ルルア・ニース管理官は、目を細めた。


「そう、それはよかった。自暴自棄になっていないかと心配していたのだけれど」


 管理官が敬語を外したのを初めて聞いた。そして、この言葉こそが答えだった。

 レイカが捜していた『あの子』は、ここにいる。


 こうなることを、わたしが戻ってくることを、管理官は予想していたのだろう。むしろ、すべてが計画の内であってもおかしくない。


 何が本当のことなのか、わたしにはもうわからなかった。けれど、現在だけは確かだ。


 わたしの立場は、きっととても危うい。レイカという反逆者に与していたことが明らかになれば、わたしは殺されるだろう。この頭の中の記憶に嘘が塗り込まれていることを、わたしは知ってしまった。


 記憶を疑うということは、王国を疑うということだ。だからわたしは、ルルア・ニースに訊ねなければならない。 


「管理官。わたしの記憶は、どちらが本当なのですか」


 ルルアは微笑まなかった。ただ、色素の薄い瞳にわたしを映している。


「前から思っていたけれど、あなたは他の子よりお利口なのよね。『どちらが正しいのか』と考える頭は持っている」


 褒められているのか馬鹿にされているのかわからない。けれど今はそんなことはどうでもよかった。


 どこか面白がるような声で、ルルアは続ける。


「そしてそれを、私に訊ねるのね。――私の語ったことが、あなたの真実になるの?」


 管理官は基本的に寛容だ。わたしが何を言っても、笑って受けとめてくれる。けれどこの問いかけはきっと違うのだと思った。今ばかりは、この人は本当に答えを求めている。わたしはひるまずに言った。


「真実がどこにあるかなんてわかりません。――でも、あなたの語る言葉に価値があると、わたしは思っています」


 そう、とルルアは口元を緩めた。なぜか、少しだけ嬉しそうな顔をする。


「キトリー。あなたがどこから来た誰なのか、私は知らないの。わたしが初めてあなたに会ったとき、あなたは既に兵士だった」


 嘘をついているようには見えなかった。仮に嘘をついていたとしても、見抜ける自信はないのだけれど。


 でも、それで十分だった。欲しい言葉なんて決まっていなかった。何かがもらえただけで、わたしは満足だった。


 そのとき、大きな爆発音がして、建物全体が揺れた。わたしも管理官も少しよろけたけれど、倒れるほどではない。こんな事態は初めてだ。


 襲撃だ、と遠くで誰かが叫ぶのが聞こえた。きっとそうなのだろう。誰かがこの基地寮に攻撃を仕掛けている。誰の仕業なのか、なんとなく、わかった気がした。


 キトリー、と管理官がわたしを呼んだ。


「私はここに残るわ。あなたは、あなたの好きなようにしなさい」


 そう言いながら、部屋の隅の箱から何かを取り出す。いつも食堂で出される固形食料だった。いくつもあるそれを、管理官は机の上に並べていく。何をしているのだろう。


「わたしも、ここにいます」


 わたしが言った瞬間、部屋の小窓についていた格子が吹っ飛んだ。破片がばらばらと落ちる。そのうちの一つが頬を掠めていった。


 壁に開いた穴から、人影が飛び降りてくる。金色の髪。レイカだった。わたしは特に驚かなかった。なんとなく、そんな気がしていたからだ。見せてくれたあの炎を出す魔術は、このときのためのものだったのだろう。


 レイカはルルアの姿を認めるやいなや、すごい勢いで近寄ってきた。止める間もなく、胸倉を掴む。


「この馬鹿!」


 怒鳴り声が部屋に響く。思わず耳をふさぎたくなるほどの声量だ。


「あんたが引っ立てられていくのを見たとき、あたしがどんな気持ちだったかわかる!?」


「二人の研究成果を簡単に王国軍に渡さないか心配?」


「その通りよ!」


 管理官はへにゃりと笑った。こんなに弛緩した表情を、わたしは見たことがなかった。


「大丈夫よ。売り渡すわけないじゃないの。あなたとの大切な思い出なんだから」

「じゃあ最初から捕まるなっての!」


「でも、こうやって助けにきてくれたでしょう?」

「そういうところが腹立つのよ!」


 二人が言い合う光景を、わたしはどこかまぶしいものを見るような気持ちで見ていた。夢を見ているときのように、現実味がない。頭がうまくはたらかなかった。


 レイカがルルアの服を引っ張る。


「ほら、さっさと行くわよ」

「えー。もっとのんびりしていたかったのに。逃亡生活って、私には向いてないと思わない?」

「ふざけんな。ルルアが連中に見つかったのがそもそもの発端なの、わかってる?」


 わたしはぼんやりと考えた。ああ、この二人は、ここを去っていくのだ。包囲網を笑いながらくぐり抜けて、手をつないで遠くへ行ってしまうのだ。わたしのことなんてちらりとも気にかけないで、違うところへ。


 そう思うと、何とも言いがたい感情が湧き上がってきた。ルルアとレイカにとって、いちばん大切なのはお互いだったのだ。いちばん大切で、いちばん特別。


 わたしは特別な存在ではなかったのだ。わたしは国王の駒で――二人の駒でもあった。ただそれだけのこと。ここでわたしが自分で自分の首をかき切って死んだとしても、二人はちっとも心を痛めないだろう。


 そのことが、すごく、いやだと思った。


 自分が特別だなんて、考えたことはなかった。なかったはずだ。それなのに、なぜか苦しい気持ちになる。


 待ってと言いたい。自分も連れていってほしいと言いたい。けれど唇はうまく言葉を紡ぐことができなかった。


 ついていったところで、わたしに何ができる? 魔術のことなんて何も知らない、人を殺すことしか能がない、人の道を外れたわたしに、一体何ができる?


 二人がわたしに背を向けて歩き出す。伸ばしかけた手を、わたしはそのまま胸に当てた。


 そのとき、ふいにレイカが振り返った。


「キトリー、何してんの。行くよ?」


 え、と声が出る。


「早く行かないと。ここ、爆発するんだって。ほら」


 そう言って、当たり前のようにこちらに手を差し伸べる。


「一緒に行こう?」


 ずるいと思った。この人の一番はルルアであってわたしではない。ルルアを捜すために、わたしの仲間だった人たちを殺し、わたしの腹を刺した。それなのに今、わたしの求めている言葉を与えてよこすのだ。わたしがその手を取ることを、少しも疑っていない目で。


「レイカ。その子が気に入ったの?」


「気に入ったのはルルアの方でしょ。キトリーがついてくる前提で行動してたくせに。まあ、まずいもの色々見られてるから、死んでもらうか連れていくかするしかないんだけど」


 間抜けな顔をしている自覚がある。たとえ打算の上だったとしても、手を差し伸べられたことがうれしかった。そしてそんな自分に、驚いている。


 ルルアの置いた固形食料が、淡く光っているのが見えた。火を呼ぶ紋章が、中に入っているのがわかる。ここもじきに、炎に呑まれる。


 わたしはその手を握った。あたたかい手だった。




 基地寮は燃え盛る炎と黒煙に包まれていた。屋根が崩れ、壁が倒れ、建物全体が壊れていくのが見える。崩壊する音が、離れたところにいるわたしの耳にも届いている。雪が降るような季節だというのに、流れてくる空気が暖かい。


 レイカがため息をついた。


「ルルアって容赦ないよね」

「こういうのは後腐れなくやっておかないと、後々苦労することになるのよ」

「経験から学んだよね」


 自分たちが王国に反逆していることも、今まさに火事を引き起こしていることも、まったく気にする様子がない。


 彼女らの代わりに、わたしだけでも、ちゃんとこの光景を目に焼きつけておこうと思った。


 ルルアがわたしを振り返る。


「戻って一緒に燃えたいなら、それでもいいのよ。自分が何者なのか、あなたはもう答えることができないでしょう?」


 確かに、今のわたしは空っぽだ。何が真実かもわからない。過去はひどく曖昧で、わたしの未来があったはずの場所は、今ぼうぼうと燃えている。


 でも、真実も過去も未来もなくても、生きていくことはできる。なくしたものを数えるのは、今が過去になったずっとあとでいい。


 管理官と呼ぶべきなのか、ルルアと呼んでもいいのか悩みながら、わたしは答える。


「わたしはキトリー。今は、それだけあれば十分です」

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標はどちらに倒れたか 春森灯色 @harumori9931

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