三 綺麗なもの

 翌日から、わたしはふらふらと部屋を移動したり、ぼんやり考え事をしたりして過ごした。特に目的はなかった。建物の中にいると昼と夜の区別がつきにくい。基地寮であれだけ整った生活をしていたのに、乱れてしまってもまるで気にならなかった。


 数日が経ったころ、レイカはふいにわたしに尋ねた。


「キトリー。あんたは初めて会ったとき、国王に服従するか、死ぬかって訊いたよね」


 月の明るい晩だった。外から虫の声が聞こえてくる。


「そうですね。そう言うように決められていましたから」


 わたしは素直に答える。レイカと対峙したのはつい先日のことなのに、もうずっと前のことのように感じた。


 レイカは碧い瞳をわたしに向けた。真剣な表情をしていた。


「そこで服従を選んだ人は、どこへ行くの?」


 見つめられて、わたしは少し動揺する。


「ごめんなさい。わたしにはわからないんです。そういうことは、知らされていなかったから」


 レイカの求める答えを持ち合わせていないことに罪悪感を覚えたが、知らないものは知らないと言うしかない。わたしの役目は対象を捕らえるか殺すかするだけで、そのあとのことには関与していなかった。そんなことを考えたこともなかった。


 本当は、服従させるつもりなんてないのかもしれなかった。騙して連れていった先で、彼らは殺されていたのかもしれない。けれどそれをレイカに伝えるのは憚られた。


「ふうん、そうなんだ」


 レイカは何でもないことのように答えたが、声には元気がなかった。会話を続ける気もないようで、それきり黙り込んでしまう。


 沈黙が下りた。わたしはふと、前から気になっていたことを訊いてみようと思った。


「レイカは、ずっと一人で暮らしているのですか?」


 資料には、レイカ・メギアムは一人で潜伏していると書かれていた。そして実際、ここでレイカ以外の人間には出会っていない。


 けれど、本当にこんなところに一人で住み続けているわけではないだろうと思った。なぜなら、形跡があるからだ。壁には落書きがたくさんある。寝具の毛布は一人で使うにはどう考えても多すぎる。今はいないのかもしれないが、以前にもっと大勢の人がここにいた形跡が、あちこちに残っている。


 ううん、とレイカは首を振った。


「前はもっと仲間がいたんだよ」

「今はいないのですか?」


「うん、今はあたしだけ。前は、もっと賑やかだったよ。まあ、賑やかといっても十人もいないくらいだったけど。みんなあたしと同じように魔術が好きで、研究がしたくて、集まってわいわい暮らしてた」


 レイカは視線を上へ向ける。わたしもつられて上を見たが、今にも崩れてきそうな天井があるだけだった。


「その中でも、あたしには、ちょっと困った友だちがいてさあ」


 ぽつりぽつりと、一つずつ思い出すようにレイカは喋った。共に家を失い、幼い頃から一緒にいたこと。その子はよく迷子になるので、毎回レイカが捜しにいったこと。料理の腕が壊滅的で、普段はレイカが食事を準備していたこと。周囲を省みないので、いつもレイカが後始末をしていたこと。

 とにかく世話が焼ける子なのだと、レイカは語った。


「でも――ある日ね、見つかっちゃったの。あんたたちに」


 そのとき、レイカはちょうどその子のもとを離れていたところだったらしい。その日はその子だけが対象だったのだろう。 


「自分勝手で、いつもへらへらしてる子だったんだけど、まあ、特に強い信念とかないから、死ぬよりは服従を選んだみたい。そんな感じで、連れていかれちゃった」


 ふいにレイカがこちらを振り向いた。かすかな明かりを取り込んで、真昼の空の色をした瞳が薄く光って見えた。その視線にどきりとする。そしてレイカは言った。


「あたしはここに残って、あの子を救い出そうって決めた。でも、みんなはそうじゃなかった。自分まで捕まるのはごめんだって言って、逃げていった。

 ――あいつら、あたしの研究成果まで持っていきやがった。せっかく作ったのに。今度会ったら絶対に許さない」


 低く笑ったレイカの言葉がどこまで本気なのか、わたしにはよくわからなかったけれど、彼女が仲間たちととても仲が良かったのだろうということはわかった。


 きっと今、相当につらいのだろうということも。それでも、ここに残ることを選ぶほどに、『あの子』のことが好きだったのだ。

 



 次の日の夕方のことだった。レイカはごちゃごちゃとよくわからないものが並べられた部屋にいた。彼女はこの部屋のことを研究室と呼んでいた。


 レイカ、と呼びかけても返事がない。没頭して、声が届いていないようだ。


 驚かせてしまうだろうか、と思いながら、後ろから近づく。レイカのそばに、何か不思議な気配を感じる。レイカの肩越しに覗き込んで、息を呑んだ。


 レイカが身じろぎもせず見つめていたのは、両手で抱えられるほどの大きさの透明な壺だった。その中に、得体の知れない液体が入っている。


 触れもしないのにどろどろと蠢いているそれは、何色にも見えて何色にも見えない、不思議な色をしていた。ひとたび目を離すと、次の瞬間には別の色に変わっている。また目を凝らしていても、いつのまにか変化してしまっている。


「これは……何ですか?」

「魔術だよ。王様が全力で自分だけのものにしたがってる、神秘の術」


 レイカは静かに言いながら微笑んだ。


「人に見せると、綺麗だって言うことが多いよ」


 わたしは改めて壺の中を見つめた。よく見ていると、液体の中に紋様のようなものが浮かび上がってくる。けれど、どちらかというと不気味な代物だった。良くないもののように思える。


「わたしは、あまり綺麗だとは思いません」


 正直に告げると、レイカはわたしの顔をじっと見た。驚いているような、喜んでいるような、どちらともつかない表情をしている。


「へえ、あたしと同じだ」

「綺麗だと思わないのに、好きなのですか?」


「綺麗さは好きの基準にはならないよ。わかる?」

「はあ、なんとなく」

「そっかあ」


 レイカは液体を指ですくった。粘性のあるそれは、レイカの指先ではおとなしくしている。


 ぼうっと、それはやがて静かに輝き始めた。


「見てて」


 子どものようなレイカの声が聞こえる。言われるまでもなく、わたしはそれから目を離せないでいた。


 レイカの指先から――正確には、そこにのっている液体から、青白い火花が散った。小さな炎が灯り、辺りを白く照らす。レイカはちっとも熱そうではなかった。


「術者が魔力を流し入れることで、魔術は完成するんだよ」


 炎を見つめるレイカの目は、穏やかだった。


「あたしが混ぜて、あたしが魔力を入れて、あたしが完成させたんだもの。ここは神の領域なんかじゃない、あたしの領域だ。誰にも、取り上げさせはしない」


 わたしはその目を綺麗だと思った。本物の人間だ、と思った。わたしのような、出来損ないのまがい物ではなくて、本当の意志を持った人間だと。


「レイカは、本当に魔術師なのですね」


 わたしが言うと、レイカは否定せずにうなずいた。


「そうだよ。あたしは魔術師だ。――キトリーは、何になるの?」


 何になる? ああそうか、わたしは今、何者でもない。


「わたしは……」


 国王陛下の、隠された短剣。使い捨ての駒。そう考えてきた。そう考えるよう仕向けられてきた。


 レイカはその呪いを解いてくれた。レイカのおかげでわたしは、本当の記憶を取り戻すことができた。わたしの両親は生きていて、一人でいたところを連れ去られて、兵士にさせられた。


 ――本当に?

 頭の中で声が響いた。それだって本当のことなのかはわからないじゃないか。


 混乱する。どうしてこんな疑問が湧いてくるのか、理解できなかった。けれど、否定することもできない。


 魔術をかけられて兵士としての記憶を植え付けられたというのなら、思い出したと思っていたこの過去の記憶だって、本物だとは言い切れない。レイカのおかげで取り戻せたと思っていたのは、本当は、レイカによって仕込まれた記憶だという可能性もあるのだ。


「どっちが、本当の……」


 思考が口から漏れてこぼれ出る。どうしたの、と寄ってくるレイカを、わたしは手で制止した。しかし、レイカは歩を止めてくれない。


「来ないでください。なんだか、頭が……」


「――ああ、効果が切れてきたんだ。意外と短かったな。やっぱり、あんたは元々耐性があるのかもしれないね」


 レイカはつまらなさそうにそう言った。そしてそのまま、わたしに近づいてくる。


 次の瞬間、わたしは見た。自分の腹に突き立った刃を。


 痛みよりも熱が勝った。そしてその熱よりも、驚きが勝った。


「どう、して」


 なんとかそれだけ口にする。声はかすれて、息が苦しかった。じわりと目ににじんだ涙が、なぜ出てきているのかわからない。


 レイカはため息をついた。出来の悪い生徒を見るような、呆れた表情でわたしを見る。


「最初に言ったでしょ? あんたはただの実験台。実験が終われば、あたしとは何の関係もないんだよ」


 それはわたしの欲しい答えではなかった。最初の言葉くらい覚えている。けれど、レイカはわたしに寝床をくれた。果物をくれた。昔の話をしてくれた。レイカの態度は決して、ただの実験台に対するものではなかったはずだ。


 確かに最初の出会いは最悪だったけれど、ここで過ごした数週間は、たとえほんの少しであろうと、わたしとレイカとの間につながりを作った。何の説明もなく突然おしまいになるような関係ではない。そう思っていた。


 ――そう思っていたのは、わたしだけだった?


 つまり、わたしはちっともレイカのことをわかっていなかったのだ。理由を聞けば、やむをえない事情を話してくれると信じていた。


 そう考える自分に愕然とする。――欲しい答えを得るために、私はどうしてと尋ねたのか? レイカは本当のことを言っただけなのに、なぜこんなに苦しい気持ちになるのだろう。


 床に刃物が落ちる音がした。わたしの腹部を傷つけた刃物。かつてわたしが持っていた、あの短剣。


 短剣を投げ捨てたレイカは、わたしを見下ろして言った。


「あたしはあの子を――ルルアを捜しにいくの。だから、さよならだね、実験台」


 その言葉で、わたしはすべてを理解した。それと同時に、意識が途切れる。

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