二 今は遠く

 夢を見た。子どもの頃のわたしが、どこかの広場を楽しそうに駆け回っている。


 わたしのそばには二人の大人が立っていた。父親と母親だ。わたしたちはとても仲のいい家族だった。もうすぐ弟か妹が生まれようとしていた。


 同い年くらいの友だちが、あっちへ行こうと手を引いてくる。それにうなずいて、幼いわたしは一緒に駆け出していく。


 亡霊か何かのように、わたしは外側からその光景を見ていた。




 目を覚ます。そこは基地寮の部屋ではなかった。天井は白くないし、寝具もやわらかくない。


 夢の内容がまだ頭に残っていた。普段は夢なんて見ないし、見たとしても目覚めるとすぐに消えてしまう。けれどこの夢は、しばらく留まってくれるような気がした。


 もう頭痛はしなかった。めまいもない。体を起こすと、ちょうど金髪の女性が階段を下りてくるところだった。

 レイカだ。


「あなたが、わたしを眠らせてここへ連れてきたのですか」


 冷静に、問いかける。わたしはもうレイカを殺そうとは思わなかった。だって、すべてを思い出してしまったから。


 部屋と呼べるほど広くはない。ここは地下なのだろう。壁は土がそのままむき出しになっている。窓はなく、天井から吊り下げられた灯火が唯一の明かりだった。それすらも弱々しくて、今にも消えそうだ。


 わたしが寝かされていたのも、寝台と呼べるほど立派なものではなかった。土を盛って布を敷いただけの空間。つまり、ただの地面とほとんど変わらない。


 レイカはわたしの頭から爪先までをじっと眺めて、少し考えながら言った。 


「……あの魔術に催眠効果は入ってないよ。多分だけど、記憶が混乱したせいで、脳が処理し切れなくなって意識が落ちたんでしょ」

「多分って」


 魔術を使うのには繊細な技術が必要だと聞く。


「まだ実験段階だから、あたしもよくわかってないんだよね。まあ、落ちただけで済んでよかったと思ってよ。今までの連中はそのまま起きなかったんだから」


 では、今まで送り込まれた仲間たちは、やはりみんな死んでいたのだ。いや、殺されていたというべきか。不思議と怒りも悲しみも湧かなかった。


 レイカは何人も殺してきたというのに、悪いことをしたと思っている様子がまったく見られない。きらきら光る大きな瞳で、わたしの顔を覗き込んでくる。


「それで、あたしの魔術の効果はどう? 洗脳、ちょっとは解けた? あんたは何者なの?」


 やはり、あれは魔術だったのだ。液体を介して、わたしの頭の中の記憶を呼び起こしてくれた。


 レイカの質問に、今なら答えられる。


「わたしは、キトリーといいます」


 わたしは国王に仕える兵士だった。でもそれは、嘘で塗り固められた記憶の上に作られた、ただの駒としての役割だった。


 全部、嘘だった。わたしの両親は死んでなんかいなかった。都から離れた片田舎の町で、宿屋を経営していた。わたしはそこの一人娘だった。家族にも友達にも恵まれ、幸せな日々を送っていた。


 でもある日、さらわれた。顔を隠した魔術師に連れ去られ、気を失った。そしてわたしは、兵士として働かされることになったのだ。


 思い出したことを訥々と語ると、レイカは目を輝かせた。


「大成功だよ。そこまではっきり思い出せるなんて思わなかった」


 嬉しそうなレイカに、わたしも少し微笑むことができた。


 そう、この記憶は鮮明だ。住んでいた町の名前も、両親の顔も思い出せる。きっと周りは心配しているだろう。できることなら、今すぐにでも帰りたい。


 けれど同時に、帰りたくない気持ちもあった。とんでもない自己矛盾。でもだって、わたしは――もう、人殺しなのだ。たった半年で、たくさんの人の命を奪ってしまった。相手に罪があったのかもなかったのかも、もはやわからない。ただ思い返してみると、殺されるほどの大罪を犯した人間が、果たしてあの中にいただろうかと疑問に思えてくる。


 一体どんな顔をしてみんなに会えばいいのだろう。幸せな町娘としての道を、わたしは知らないうちに踏み外してしまった。


「わたしは、これからどうすれば……」


 わたしの呟きに、レイカはうーん、とあまり考えていない様子で答えた。


「まあ、思い出したばかりじゃまだ混乱してるだろうし、しばらくここにいたら?」




 それからレイカはわたしを連れて、建物の中にある色々な部屋を案内した。一つ一つの部屋は広くないし、地下にあるものも多い。外からは見つけづらい、隠れ家のような存在。潜伏場所として聞いていた場所とも違う様子で、レイカは似たようなところをいくつか用意しているのだろうと思った。


 何個かの部屋を回ると、先ほど寝かされていたところまで戻ってきていた。全部の部屋を見るのに、ほとんど時間がかかっていない。その中でも、寝台のあるこの空間は特に狭かった。


「他の部屋でうっかり寝ちゃうこともあるけど、寝起きはだいたいここでしてるよ」


 敵対する可能性があるから粗末な場所に寝かされていたのだと思っていたが、どうやら違うらしい。というか、一人が寝転がって手足を伸ばせばそれでいっぱいになってしまうような狭さなのに、二人の寝床にするつもりなのだろうか。基地寮の寝台が懐かしい。


 顔をしかめるわたしに気がついているのかいないのか、レイカは大きなあくびをした。


「で、あんたは寝てたからいいだろうけど、今ね、夜だから。あたし寝るね」


 急に抑揚のない口調になったかと思うと、気を失ったかのような勢いで倒れ込む。


「大丈夫ですか」


 あわてて覗き込むと、レイカは半目でわたしを見上げた。


「言っとくけど、あたしの許可なしに何かしようとしない方がいいよ。色々仕掛けてあるから」


 それだけ言うと、完全に目を閉じてしまった。本当に眠ってしまったようだ。


「言われなくても……」


 聞こえないのがわかっていたが、わたしは返事をした。


 もう敵意はない。ここを出ていく気もない。この落ち着かない気持ちがどうにかなるまで、どこにも行きたくないと思った。


 だいぶ眠っていたのに、また眠気がやってくる。わたしはレイカの隣で丸くなった。レイカが体を伸ばして寝ているので、もともと狭いところがさらに狭くなっている。でも、そのおかげで暖かい。誰かの隣で眠るのなんて、いつぶりだろう。まどろみの中で、思い出がふわふわと浮かんでは消えていった。 




 流れ込んでくる風の冷たさに目を覚ました。隣のレイカはもう起きたようだ。


 階段の上から光が射していた。なんとなくそちらに足を向け、上っていくと、先の部屋にレイカがいた。


 唯一、窓のある部屋だ。外は朝か昼。明るい陽光が、照明のない室内を照らしている。レイカは窓枠に腰かけて、何かをかじっていた。おそらく果物だろう。そばに置かれたかごの中に、同じものがいくつか入っているのが見える。


「あれ、キトリー。起きてたの」


 じっと見つめているわたしに気がついたのか、レイカはちらりとこちらに視線を向けると、少し迷ってから、かごの中に手を入れた。取り出した一つを、渋々といった様子でわたしに差し出す。


「食べる?」


 別に欲しくて眺めていたわけではないが、そう訊かれると空腹を意識せざるをえなかった。うなずいて、レイカの手から一つ受け取る。


 レイカのまねをして、赤い果実に口をつける。皮はかたくなく、果肉はしゃりしゃりとしていた。果汁が手をつたって床に落ちる。おいしかった。


「果物なんて、久しぶりに食べます」


 正確に言えば、久しぶりというか初めてだ。食べた記憶はない。けれど、なんだか初めて食べる味ではない気がする。わたしはまだすべてを思い出せてはいないのかもしれない。


「いつも何食べてたの?」


 言われて、基地寮での食事を思い出してみる。味気ない、四角い形の固形食料。決しておいしいとは言えない飲料。あの得体の知れないものたちを何と呼べばいいのか。


「……栄養剤?」

「うわ、あたし絶対奴らに降伏したくない」


 レイカが思いきり嫌そうな顔をする。それがなんだかおかしくて、わたしはくすりと笑った。

 何、と睨んでくるレイカに、わたしははっとして口を押さえる。怒らせたと思った。


「ごめんなさい。笑ったりして」


 レイカは不思議そうに首を傾げた。本気で怒ったわけではないようだ。


「なんで謝るの。楽しいなら笑えばいいじゃない」


 言葉を返すことができない。どう答えるのが正解なのかわからない。もう長いこと、こんな何でもない会話をしたことがなかった気がする。どうして笑ったのか、自分でもよくわからなかった。わたしは今、楽しいと感じたのだろうか。


 自分の感情さえわからない。心の中に穴が空いているような虚無感があった。今のわたしは、何も持っていない。


 それが何のせいなのかは知っていた。


「……わたしはずっと、魔術をかけられていたのですね」


 日光の差し込む窓の外を見やる。まぶしかった。まぶしいのに、ちっとも暖かくはない気がした。


 そうだね、とレイカは何でもないことのように答えた。


「キトリーは、さらわれたときに魔術をかけられたんだと思う。正しい記憶の代わりに、偽りの記憶を植えつけたんだよ。魔術って、精神面に作用することに特化してることが多いんだよね。人を殺すことよりは、魔術じゃなくてもできるから。

 ――魔術には手続きが必要なんだよね。何かされた覚えはあるんじゃない? だいたい、身体接触によるものが多いけど」


「身体接触……」

「たとえば手に。たとえば頭に。誰かに触られた覚えはある?」


 言われて、思い返してみる。一日の中で会う人間は、管理官と、毎日変わる仕事仲間と、対象者だけだ。その中で心当たりがあるのは――。


 ニース管理官。あの優しい人。あの人だけが毎日わたしに触れる。わたしの額に口づけをして、送り出してくれる。あれがわたしに魔術をかけるための儀式だというなら、わたしは毎日それを受けていたことになる。


 それを告げると、レイカは少し驚いたようにわたしを見た。


「間違いなくそれだと思うけど――毎日かけ直されてるってこと? 普通、一回かけたらそうそう解けないんだけどな。キトリーって変わってるのかもね」


 そう、魔術をかけられるとしたら、管理官以外には考えられない。そのことを考えると胸が苦しくなった。あの人はずっとわたしを騙していたのだ。ただの町娘だったわたしに偽の記憶を吹き込み、自分に逆らえない兵士に育てた。きっとわたしだけではない。あの基地にいた仲間たちはみんな、あの人にひどいことをされていたのだ。


 そう確信できるのに、あの微笑みが、頭を離れてくれない。あの声が、わたしを町娘に戻させないでいる。感情がふわふわとして、かたまらない。これも、魔術のせいなのだろうか。

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