標はどちらに倒れたか
春森灯色
一 管理官とわたし
わたしの一日は、一つの質問から始まる。
「おはようございます。あなたは何者ですか?」
特段大きいわけではないのによく響く声は、わたしの上官であるニース管理官のものだ。わたしが目を覚まして、服を着替え、髪を結い終えて下りてくる頃には、管理官はすでにここに座っている。
わたしは答える。
「おはようございます、ニース管理官。わたしはキトリー。偉大なる国王陛下に仕える兵士です」
そう、わたしは兵士だ。幼い頃に両親を殺され、孤児院でもいじめられていたところを、王国軍に救われた。両親を殺したのは国に仇なす逆賊だったのだと聞いて、わたしは兵士になることを望んだ。その結果、今わたしはここにいる。
表立って華々しい活躍をするのは、剣と共に生きる王国軍のお方たちだけだ。わたしはごくごく平凡な能力しか持ち合わせていない、ただのみなしご。けれど、目立たないからこそできることがある。
陛下に叛意を抱く者を捕らえることと、殺すこと。わたしの仕事はその二つしかない。それらはすべて秘密裏に行われて、対象者は人知れず姿を消すことになる。
わたしが何かを成し遂げても、それが世に知られることは決してないだろう。けれど、わたしは今の生活に満足している。基地寮の暖かい個室で寝られるし、豪勢にとはいかないが食事ももらえる。孤児院でつらい仕打ちを受けていたことを思えば、ここは楽園のようだ。
「キトリーは今日も顔色がいいですね。よく眠れましたか?」
ニース管理官は、淡い色の髪がきれいな、まだ若い女の人だ。背はすらりと高く綺麗な顔立ちをしていて、いつも柔らかい口調で話しかけてくれる。わたしがここに来るより少し前に着任したばかりらしいが、不慣れな様子は感じられない。もともと有能な人なのだろう。
「はい、管理官。体調は万全です」
「それはよかったです。今日は先に朝食を済ませてきてください。そのあとで、今回の仕事について話しますから」
「わかりました」
仕事については、朝一番に説明を受けるのが常だった。その日に出発して一日で片づけるときもあるし、一日は準備に使って、その後数日をかけて仕事をするときもある。
食堂へ向かう途中で、何人かとすれ違って、挨拶をした。この建物で生活している同僚たちだ。みんな、わたしと同じような境遇なのだと聞いている。
時には一緒に仕事をすることもある仲間だが、足を止めて長話をすることはない。目を覚ましてから眠りに落ちるまで、すべての時間は、王国のためにある。余計なおしゃべりをしている時間はないのだ。
朝食を終えて戻ると、管理官は相変わらず椅子に腰かけていた。周囲に人影はなく、二人きりだった。
「あなたがここに配属されてから、どれくらい経ったかわかりますか?」
「はい、管理官。半年程度だと記憶しています」
わたしはやや緊張しながら答えた。こんなことを訊かれたのは初めてだ。日付なんてあまり気にかけていなかったから、自信がない。間違っていたらどうしよう。
「そう、正確には今日で半年と十日です。あなたは記憶力がとてもいいですね」
管理官は微笑んだ。彼女はわたしたちを統括する立場にあるが、威圧するような雰囲気はまったくない。歳だって、せいぜい二十代前半といったところだろう。もしわたしに姉がいたら、こんな感じだったのだろうか。
「実は、今回あなたに頼みたいと思っている仕事は、危険度の高いものなのです」
ひらりと渡された紙には、『レイカ・メギアム』という名前が記されていた。
二十二歳、金髪に碧い目をした女性。潜伏しているとされる場所は、ここからさほど遠くない。
「対象の名前はレイカ・メギアム。この人物は……」
この人物の罪は。
ちょうど、丁寧に書かれた文字を目で追うのと、管理官の声とが重なった。
「魔術の研究をしているようです」
魔術。それが一体何なのか、わたしは詳しく知らない。常人には扱うことのできない、秘められた技術。魔術を使えば、人間には不可能なことができるのだという。たとえば、遠くのものを動かすことや、何もないところから火を出すこと。人の心を操ることができるとも聞いた。
それは本来、人の踏み込んでいい領域ではない。だから国王陛下は、その研究を陛下の認めた者だけが行うことを定められた。そこいらの人間が、私利私欲のために手を出していいものではないのだ。
「キトリー。レイカ・メギアムに関する仕事は、実はこれで四度目なのです。すでに三度、ここからわたしたちの仲間を送り出しました。――けれど、誰も生きて帰ってはこられなかった」
わたしは背筋を伸ばした。これまでに三回、仲間が同じ仕事に向かい――死んだ。相手はきっと説得には応じなかったのだろう。仲間たちは、捕らえることも殺すこともできないで、逆に殺されてしまった。
魔術とは、魔術師とは、どれだけ恐ろしいものなのだろう。手練れの仲間たちでさえかなわない。
けれど、不思議と不安はなかった。それなら、失敗した仲間たちの分まで、わたしがうまくやってみせる。だって管理官は、危険を承知の上で、わたしを選んだのだ。その期待に応えなければならない。
「やってくれますか?」
どこか心配そうな管理官の問いかけに、わたしは胸を張って答える。
「もちろんです、管理官。わたしが必ず、やり遂げてみせます」
よかった、と管理官が微笑む。その表情に、わたしは安心した。
「キトリー。今回も、無事に帰ってきてくださいね」
管理官の指先が頬を撫でる。額に唇がふれて、あたたかい感触がした。
わたしは目を閉じる。仕事へ向かう前のこの瞬間が、わたしは大好きだった。頭がぼうっとして、心地よい感覚が広がっていく。
本当は王国なんてどうでもよかった。国王陛下には一度も会ったことがないし、軍に助けてもらったときの記憶も曖昧だ。
大切なのは現在だ。
この人のために、わたしは、今日も人を殺す。
***
居場所は資料に書かれていたとおりだった。町のはずれ、林の中に紛れるようにして、古びた小屋がある。人が住んでいるとは信じがたいぼろぼろの家屋だったが、中は思ったよりも広く、明かりもついていた。
部屋の奥には机と椅子があった。椅子に座っている人物が、わたしが一歩踏み出すなり振り返った。
「あれ、今日は一人で来たの? こないだまで大勢で来てたのに」
面白がるような高い声には、緊張感のかけらも感じられない。相手はこの状況に慣れているのだ。隙を見せないようにしながら、わたしは言う。
「レイカ・メギアム。あなたには反逆の罪に問われています」
「ああ、それ、もう腐るほど聞いた」
面倒くさそうな顔をしたレイカ・メギアムは、少し想像と違っていた。碧の瞳は大きく、ふっくらとした頬には赤みが差している。
長い髪は濃い金色で、うなじで二つ結びになっていた。年齢はわたしよりも上のはずなのに、まるで少女のような雰囲気をまとっている。
こんな薄暗いところにこもって反逆を企てているよりも、街中で服を選んでいる方が似合いそうだ。
しかし、どんな見た目をして、わたしがどんな感想を抱いたとしても、この女性は禁忌の領域を侵す大罪人なのだ。油断してはいけない。
「あなたには選択肢があります。国王陛下に忠誠を誓うか、この場で死ぬか」
にらんでみても、レイカはへらへらと笑っている。事の重要さが、わかっていないはずはない。相手はもう三度も、基地の仲間を退けているのだ。
その気の抜けた表情がこちらの心を乱すためのものだとわかっていても、なんだか腹立たしかった。
「うん、それも腐るほど聞いた。あんたらって本当に決められたとおりのことしか言わないのね」
「わたしたちに従ってくれれば、二度と聞かなくて済みますよ」
思わず言い返すと、レイカは目を丸くしたあと、声を上げて笑った。椅子が倒れるのではないかと思うくらい揺れる。
「それは初めて言われたよ。あんた、面白いね」
何が面白いのか、わたしには理解できない。
告げる言葉が決められているのは本当のことだ。どんな罪があっても、その能力を国王陛下のために使うことを誓うなら、すべてが許される。
陛下の慈悲深さに頭が下がるが、実際にそれを受け入れる罪人は滅多にいない。たいていの対象者は尻尾を巻いて逃げようとするか、逃げることを諦めて戦おうとする。その場合、どちらにせよ、わたしのやることは変わらない。
短剣一本で事は足りる。他の仲間はどうだか知らないけれど、わたしにはこれ以上は必要ない。顔も見たことのない偉い人から支給されて、管理官が手入れをしてくれる、切れ味のいい短剣だ。
既に鞘から抜いていたそれを、レイカの細い首元に突きつける。意外にも、相手は避けることすらしない。
「返答を聞かせてください」
服従か死か。レイカの次の行動が、その答えとなる。
けれど、レイカは動かなかった。口を開くこともなく、椅子に座ったままでいる。その、綺麗な色の目だけが、わたしの顔を離れ、わたしの後方を凝視した。
そんな誘導に乗るものか。視線を追ったが最後、反撃されることは目に見えている。レイカ・メギアムに仲間はいない。一人きりで、眼前にいるわたしから逃れることなどできるはずがない。
一瞬のことだった。背中に衝撃が走る。何か紐のようなものがわたしの体に絡みついて、後ろから引き倒した。硬い床に、思いきり頭をぶつける。思考が真っ白になって、くらくらした。
何が起きたのかわからない。体が動かない中、なんとか顔だけを上げると、レイカは変わらず座ったままだった。周りにはレイカの他に誰もいない。
「魔術の研究者を捕まえに来たくせに、魔術が何かも知らないわけ?」
レイカの嘲る声が響いた。今わたしから自由を奪っているこれが、魔術というものなのか。
「ちょっと学習しなさすぎなんじゃないの、兵士さんたちは」
言って、椅子から立ち上がる。
今の言葉から、魔術で何かされたことは理解できた。ただ、理解できてもどうにもできない。暴れようとしても、首から下は強い力で固定されて全く動かすことができなかった。手からすべり落ちた短剣は、遠くへ転がってしまっている。
なんとかしなければ。このままでは殺される。管理官の期待に応えられなくなる。わたしの存在意義がなくなってしまう。
「禁忌の、研究……」
これは確かに禁忌だろう。こんな不可思議で不気味な力を、ただの人間が扱っていいわけがない。
謎の力を行使したレイカは、平然とわたしの横を歩いて通り、棚から何かを取り出した。小瓶のようだ。
「まだ試作段階なんだけどね。ちょうどいい実験台が来た」
小瓶の中の液体に、レイカは自分の指を浸した。そしてそのまま、わたしのそばにしゃがみ込む。何をする気なのかわからなくて、わたしは必死にもがくが、無駄なことだった。
「死んじゃっても許してね。まあ、あんたもわたしを殺そうとしたからお互い様だよね」
レイカの手が額にふれる。ひどく冷たい液体が皮膚から頭の中へと染みこんでいく。
すう、と冷たい感触が頭の奥まで届いた瞬間――頭がぐわんぐわんと揺れた。目の前のものすべてが遠ざかって、よく見えなくなる。何かがこちらに近づいてくる気配がした。
闇雲に振り回した腕を、冷たい手に掴まれる。それほど力強くはない手なのに、振りほどくことができなかった。かすむ視界の中で、音だけが鮮明に、耳に届く。
「あんたは自分のこと、何者だと思ってる? その仕事をやらされる前、どこで何してたかのか、本当に覚えてるの?」
その問いに、わたしはなんとか答えようとする。
わたしはキトリーだ。国王陛下に仕える影の兵士。幼い頃に両親を亡くして、孤児院でいじめられて、管理官に救われて……いや、違う。わたしは孤児院なんかにいなかった。
――いなかった?
初めて、違和感を覚えた。
つらい記憶がある。わたしは一人ぼっちだった。でも、おかしい。そんな記憶はなかったと、わたしの一部が主張している。
感情だけがくるくると回る。顔も知らない誰かへの怒りと恨み。行き場をなくした悲しみ。それらがどこから湧いて出たのかわからなかった。あのいじめっ子の声は、誰のものだ? あの忌々しい場所は、一体どこだ? わたしは何をつらく思っていた?
口から言葉が出てこない。わたしはあの日、救われたはずだった。苦痛から抜け出したはずだった。けれど、その地獄は、本当に存在したのだろうか?
記憶をたどってもたどっても、透明な水を掻くように、何も掴めはしない。わたしはキトリー。では、キトリーとは何者なのだろう?
「思い出して」
耳元で誰かがささやいた。とても優しい声だった。
思い出す? 何を? 本当のことを。
頭の中でぽたぽたと、雫の落ちる音がした。
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