第30話 愛される魔法
「……」
沈黙が訪れた。助手はゆっくりコーヒーを飲んだ。誰も何も言わなかった。ただしんと静まり返っていた。
「おまえは……」沈黙を破ったのはダカーサだった。
「はい」
「お前は愛されたことがあるか?」
「はい、あります」と彼はきっぱり答えた。
「気づいたのはずっと後です。僕はなんだって知らなかった。いつも僕は僕のことばかり考えていたから……」
「お前は愛と言うものを知っているのか?」
「知っています。それは報酬なくして相手のことを考える感情です」
「もらったことがあるのか?」
「あります。でも僕はですね、それをもらうことがすごく下手だった。今なら少しわかるんです。今なら。いつだって僕は気づくのがちょっとだけ遅いんです。
愛はもらう側が気づかなければ、簡単にもらうことが難しい代物なのかもしれません。それでも僕は確実に愛を知っています。なぜかわからないけれど、僕は知っているんです。忘れていても、その時に気付けなくても、確実に僕の中のどこかで生きて、息を潜めています。それが今エネルギーとなって僕が歩き、喋り、あなたとこうして向かい合うことができている。僕はどうやらたくさんの人からそれをもらっているみたいです。
だから先生、僕はあなたにそれを分けたい。もっともっと成長して、みんなに分け与えたい。僕はレベーカと結婚して、たまに先生のところにお邪魔して、先生の犬と触れ合って、先生と研究のお話をして……。ねえ、これからそうやって生きることはできませんか? あなたの幸せを願っちゃだめですか? あなたの幸せを勝手に願うのは……エゴですか? それとも愛ですか?」
「……」
論理的で頭の回転の速いダカーサが口を詰まらせることは珍しいことだった。が、すぐに冷静に、
「愛とは常にエゴを孕んでいるのだ。多くのそのほかの感情と同じようにな」
「そうすれば、僕の感情はエゴでもあり、愛でもあるんですね」
「正確に言えば『エゴを包括した愛』と言えるだろう……(彼女は大きくため息をついた)、まったく、来て早々に突拍子もないことを平然と言ってのける。だいたいお前、婚約者がありながら儂のところに通いたいなどと、ふしだらだぞ」
「えっ……なんで……」ディーンは本気で傷ついた。
「そんな、先生とお話するのは楽しいですし、僕まだ研究のことで先生に聞きたいことたくさんあるんで
「ええいうるさい! お前の言い分はわかった! そのうえでお前の意見にのってやろう。私は科学者だ。お前の提案した仮説を検証してみるくらいはできる」
「あはは」と後ろで聞いていた助手は笑った。
「え、ええ?!」ディーンは助手がなぜ笑っているのか理解できていなかった。あまりの稚拙な提案をしたため、二人に子ども扱いされたように感じたのだ。
「でも先生、本当に可愛らしいんですから先生を愛し愛される人なんてすぐに見つかると思いますけど」ディーンはぼそりと呟く。彼の持ち味は何といっても嘘の付けないところである。
「この美貌は私がずっと15歳の頃の気持ちを忘れないために絶え間ない訓練と呪文で保ち続けているのだ」
「先生は寝ている間も自身に呪文かけることができますからねえ、化け物だから」と助手がけたけた笑う。
「え? ん、聞き間違い、かな……? 寝ている間……も?」ディーンが一瞬固まる。
「あ、そうだが? 今言っただろう、これは不可逆系強い呪文ではない。私は四六時中力を使って呪文を自身に『かけ続けて』いるのだ」
「そんなことって……できるんですか……?」ディーンはようやくダカーサの真の実力に気付き始めていた。
「何度も言わせるな、四六時中やっていると言っておるだろうが」
「師匠!!!!!」ディーンはその場で土下座した。
「こんなこと普通にできるだろうが。キッシンジャーはやっておったぞ」ダカーサは呆れたように言う。
「いや、僕キッシンジャー様から教えてもらったことなんて殆どないし、理論とかも論文読んでたからすっ飛ばしちゃって独学だし」
「ぶつくさ言うな、お前は。それくらい誰に言われないでもできるだろうが」
「いやそもそもそんな発想が無くて……」
「で、なんで床に三つ指ついてるわけ? 出来そこないの助手は一人でたくさんだよ」
「そうかもしれませんが……」
「私は医者であり研究者なんだよ。あんたはうちの研究室に入るのかい?」
「今だけ入らせてください」
「ムシがいいねえ、あほ。そんなリソースのないことに時間割いてられないよ」
「そうですよね……」ディーンは明らかにしゅんとした。
「寝ているときも常時呪文をかけ続けているんですもんね」
「勿論そうだが」
「僕も今からやってみます」
「ああ、勝手にしろ。キッシンジャーとティムはできているな。少なくともこの国を継ぐ者は一人を除いて皆できていたはずだ」
「そうなんですか。知らなかったです。ありがとうございます」
「ああ、勝手にしろ。ガキの面倒なぞ見切れるか。で、結局お前、シリウスの箱をどうするんだ?」
「頂きます。でも、もう少し時間をください。必ず呪文を成功させますから」
「ハイハイ……じゃあここに保管しておくよ」
「はい、ありがとうございます」
ディーンは医局から帰る途中、自身に変身呪文をかけてみた。手始めに髪を黒くし、肌も黒くしてみた。義父さんもジャンも、髪と目が黒かったな……と思うと、彼は急に力が抜けた。
「う、うう」ディーンは廊下でまた膝をついて人知れず泣いた。
夕方だった。まだ空は歌っていない。今日の空は黄金色に光り輝いていた。彼はふと窓に映る自身の姿を見た。もともとの顔は同じだが、黒い髪の彼を。
「……義父さんが本当の父だったら……」絶対にありえない「イフ」をつい想像してしまう。
「いや、でも僕にはまだ本当の父さんと母さんがいる」
彼はゆっくり進み、怒ったような顔をした東洋風の二体の銅像の前に立つ。
「「合言葉を」」二体の銅像が同時に喋った。
「互いに自由を妨げない範囲に於いて、我が自由を拡張すること、これが自由の法則である」
「「ふん」」
二体の銅像が鼻であしらいながらもよけてくれた。
長く美しい、一本の枝毛もない銀色の髪が夕日に照らされ、輝いている。彼は正装で、窓から射す光を一身に浴びながら机で何かを書いていた。
「おはよう、起きたみたいだね」彼は微笑みながらいつものゆっくりした調子で話しかけた。
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