第29話 抗えない大きな流れ
「箱を僕にください。義父さんの箱がほしい」
「義父さん?」ダカーサは困惑した。
「お前の父は別にいるはずだが、聞いておらぬのか?」
「いえ、知っています。シリウスは僕の育ての親なんです」
「そうだったのか。あいつはなかなか優秀だったな。あいつは」
「ダカーサ先生は母さん、レメディオス様のこともご存じなんですか?」
「いや、私はレメディオス様を知らない」とダカーサはきっぱり言った。
「ティムとシリウスが私のところじゃない研究室に入ってからの動静は正直よくわからないのだ。そのため、噂でしかレメディオス様のことを知らない。初めのうちはもちろん生理学的観点から何度かティムに助言をしたことがあったが、二度ほど書面でやりとりをしたきり、あとは進行が途絶えているのが現状だな。ほとんどティムとは今や同じ城の中にいても顔を合わせないね。たまに裁判の時に罪人を検死して、その説明を行うが、今や書面上だけでやりとりが済んでしまうからな。あいつの出る幕はほとんど無い。いったい城の中で何をしているんだか」
「お父様にも数々の仕事はありますけどね……」
「ちょっと腰掛けよう」
思い出したようにダカーサはディーンをソファに誘った。彼女は興味のあることがあれば構わず話してしまう性質で、人に対する気遣いが欠けていた。が、同じ性質を持ったディーンは、かえってその気楽さが心地よかった。
「お前はいずれティムの後を継ぐんだろう?」声を潜め、ダカーサが足を組みながらディーンに顔を近づけて囁いた。見た目はボーイッシュな中学生にしか見えないので、その大人な仕草に彼は少し混乱した。助手がコーヒーを淹れて二人に差し出した。
「そうですね。僕にはその責務があります」
「それはお前の意志か?」
「そうですね。僕の意志です。僕は、歴史には『大きな流れ』があると思っています。意識するにせよしないにせよ、僕たちはその流れの影響を受けています。どんな人もその流れに逆らうことはできません。歴史を学ばないことは、自身を顧みないことと同じことだと思います。僕はその流れを良くも悪くも動かすことができると思っています。その流れを受け入れて、受け止めて、咀嚼して、そのうえで波の流れる方向を作りたいと思っているんです」ディーンはダカーサの目をまっすぐ見据えてはっきりと答えた。
「流れ、ねえ。そうか。そうだね。安心したよ」とダカーサはため息をついた。
「人が、お前は人が生まれてくるところを見たことがあるかい?」ダカーサは急に頬杖をつき、猫背になって言った。
「いいえ」ディーンは首を振った。
「人は生まれてくる時さ、みんな泣いて生まれてくるんだ。滑稽だよ。幸せでもあるがね。もちろん医学的には、きちんと気道を確保して呼吸ができるように泣くんだ、って説明はつけられるよ。でもね、それでもやっぱり私は滑稽だと思うんだよ。何を悲しくて、いっちばん初めにこの世を見て泣かなくてはならないんだい? ああ実に滑稽だよ。皆生れ落ちるのが悲しくて泣いてくるなんてね。本当に愚かだよ。それでもまだ、人々は生きているうちにそんな悲しみも忘れ、希望を抱き、起きたまま夢を見て、それも幻覚だってことに気付かないまま、惚れた腫れただの一種の病的症状を繰り返し、バカなことにまた子供を産むんだ。ああ、バカだよ。バカだ。実に馬鹿だ。なんていったって、私がこの世界で一番の、バカさ」
ダカーサは吐き捨てるように言い、下を向きながら頭を掻きむしった。
「そうですね」とディーンは賛同した。
「バカだと思います」
「だろう? まったくのバカだよ」
「ダカーサ先生は生きることが辛いですか?」
「そりゃあね。私が昔から知っている奴は軒並み死んだよ。この国のエネルギーとして生贄になった。あれは十五の時だったと思うね、覚えていないよ。とにかくうんとガキの頃さ。私には親友がいたよ、というよりも、その子としか話すことができなかったね、うん。友達はすっごく少なかったんだよ、正直な話。生涯で女子の親友を得たのはあの子だけだったけどね、あの子は『選ばれし血』の女の子だった。黒髪の一族さ。この国のエネルギーは代々一部のエネルギーが強く取り出しやすい一族や種を『使って』いるからさ。ある晩、『またね』って悲しい顔して、それでも泣かないで手を振って夕方に分かれたんだ、いつも放課後に遊ぶみたいにね、それで、それっきりさ。彼女の親子、兄弟もろともエネルギーにされたよ。ずいぶん昔の話で……あの子の記憶の箱ももうこの世にはない、エネルギーになったからね、それなのに、私の頭の中では何度も何度も彼女が出てくるよ。夢にだって見たさ。何度もね。
そりゃそんな状態を100年も200年も繰り返しているわけにはいかないから、だんだんとその悲しみも心に沁みついて取れなくなったけどさ、ジュースをこぼしたタンスの跡みたいにね、乾いていくんだよ、心は。知らず知らずのうちに乾いて、どんなに忘れたくないと思っても、いつかは鮮明さを欠いていくんだ。私はあれからだよ、ずっとこの国のエネルギーと人体の関係について知りたいと思ってきた。幸い私は天才だった。長い間生きてきた。土地の奪い合いによるくだらない戦争もあった。大きな地震だってあった。人々はいつだって脆く崩れ去った。そこに善悪なんかないんだ。尊く気高く、私みたいな扱いづらいはぐれ者を相手にしてくれる優しい人間ですら、その運命には抗えない。
今度は、有能な若い頭脳を、教え子を亡くした!!!! どうだい、類まれなる天才のいい人生だろう?(彼女は今にも泣きそうな顔をした)
お前が言うように、『逆らえない大きな流れ』ってんのは、確実にこの世に存在する。そうだ、逆らえないんだ!!!! 私はお前の100倍は生きている。お前の百倍の時間をかけて人体とエネルギーについて研究している。しかし私が出した今のところの暫定的な結論は……こうだ、私たちは流れに逆らえない。受け入れて、なんとか踏みとどまって、咀嚼してやっていくしかないんだ。悲しいことにね。……ちっぽけで愚かな存在だよ、私たちは」
「むろん、我々はちっぽけで愚かな存在です」とディーンは静かに答えた。
「それでも僕には、今ここに僕が存在している理由はあると思うんです」
「もちろんそうだ。ただ私は、こんななりだが、お前よりうんと長く生きている。お前より残酷な体験をいくつも潜り抜けて来た。お前だって見ようによっては相当ハードな人生かもしれんが、私だってその点はお前に負けちゃいない。張り合うつもりはないがの」
「先生は、まだこの世で成し遂げたいことがあるんじゃないですか?」
「あるさ、もちろん、この魂とエネルギーが続く限りね。私の魂だって永遠ではない。それはこの世の摂理さ。まだホルモンと神経の連関はわかっていないことがごまんとある。というか、ほぼ私が発表したこと以外に見つけられていない。私はそれを知りたい。
ティムと……(彼女は一瞬舌唇を噛んだ)シリウスは、この世のエネルギーの元である『ラヴ』を人工的に、もしくは全く新しい方法で合成することを研究していた。私は私で、人体の構造の方に興味がある。私とて彼らの研究をゆくゆくは支援したいが、さりとて土台となる生理機構を解明しないまま死ぬわけにもいかん。
正直言うとな、生まれ変わったら私は普通に生きたいんだ」
「普通、ですか?」ディーンは目を丸くする。
「ああ、学校に行って、他の女子生徒と放課後にたまにクッキーを焼くんだ。私は一切無縁なイベントだったがな。一人で本を読んでいるんじゃなくていい、天才じゃなくていい、ただ親友が普通に生きて、一緒に過ごして、あわよくば村の誰かと結婚して、好きになった人も戦争に巻き込まれないで、普通に普通に暮らしたいね。子供はいらない、育てる自信が無いんだ。大きな犬が欲しいよ。私は度々犬を飼っているんだ。その子たちもすぐに死んでしまうがね……。以前ラブラドールレトリバーを飼っていたんだ。私の人生で出会ったやつの中で、唯一彼は幸せに生きたかもしれないな。ああ、こいつもか」と言ってダカーサは助手の方を振り返ってにやりと笑った。助手は曖昧にほほ笑んだ。
「いや、こいつもいろいろあるんだがね。まあいい、それで親友と好きな人と家族と犬と、みんなと平凡に暮らしたいよ、私は」
「じゃあ、今から叶えましょう」とディーンはさらっと言った。彼はまったく、相手を鼓舞するために言ったわけではなく、心の底から信じ切ってその言葉を発した。
「今から叶えましょう、先生は魅力的な人ですし。僕にもわかります、好きな人と幸せに生きたい気持ち。僕だって親友と義理の父を失いましたが、まだ生きている奴がいるんです。『もう一つの』家族と、愛している人がいるんです」彼はお世辞など言う人間ではなかった。まして、人に媚びたり取り繕ったりする人間でもなかった。彼の言葉は心の芯から出てきたものだった。
「先生、僕婚約者がいるんです。その人のために僕は生きたい。あらゆる災厄から彼女を守ってやりたい。今は離れ離れだけど……もう一度彼女に会いたい。先生、もう一度犬を飼いましょう。愛する人と幸せで穏やかな日々を送りましょう。僕は先生が好きだ。あなたの頭脳も、乗り越えてきた経験も、あなたが考えてきたことも、必死に生きてきたことも、全部全部ひっくるめて僕は貴方のことが好きだ。だから先生には笑ってほしい」ディーンはダカーサの両手を握った。
「……」
「幼稚だとはわかっています。僕は先生から見ればまだ赤子に等しいとも。先生に対する無礼をお許しください。僕は先生のことがすごく好きです。僕にはおじいちゃん、キッシンジャーがいつも師匠だったけれど、先生から学べることだってすごくあると思う。先生の研究だって好きだ。僕は先生が『今』幸せだったらどんなにいいか、って思います。先生、僕はあなたの心からの笑顔を見たことが無い。こうして話していて、あなたはいつもどこか悲しくて怒っている気がするのです……ああ、不快に思われたらすみません……」
「いや……その通りだ……」
ダカーサはため息をつき、握られた両手を下ろして全身の力を抜いた。彼女は大きく深呼吸をした。
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