第17話 記憶の湖へ

 「ティム様、夫人の様子は?」

 朝の6時。センブリの一日の仕事は、ティムを起こすことから始まる。

「ずっと寝ているね。性交代期の変態はエネルギーを使うんだ。むこう2週間は起きないさ」

「次はどちらでしたっけね……」

「さてね……はやく……目覚めてほしいものだな……」

「センブリさん、朝から失礼します」扉の外から女中の声が聞こえた。

「ディーン様がお呼びです」

「わかった。少し遅れるが向かうと伝えて」センブリは表情一つ変えずに言った。

「何か暗号でわかったのか……?」ティムはベッドから起き上がる。上半身は何も身に着けていない。端正な体には余分な脂肪はなく、きれいに筋肉がついている。銀色の髪は朝日に透け輝きを放っている。

 



 朝、いの一番にディーンはセンブリを呼んだ。

「暗号のことで相談がある」とディーンは早口で言った。

「なんなりと」彼はいつものごとく、口ひげを綺麗にカールさせ、皴のない軍服を着ていた。

「この辺に湖はないか?」

「湖ですか」

「暗号なんだが、湖とか、水とか、湖畔とか、そういう単語が多くて。それらの単語を繋ぎ合わせたら、一つのいびつな楕円になった。おそらくどこかの湖の地図になっているんだと思う」

「なるほど……。今私が一番に思いついたのは、裏の森の『記憶の湖』ですね。しかしあそこはティム様が管理していますね。事実上はエネルギー省が実権を握っていたと思いますが」

「湖もこの国が管理しているのか」

「いや、あそこは特別ですね。この国のエネルギーを生成するためにあそこの湖を使用しているだけです」

「水力発電ということか……ダムの役割なのか」

「湖に行って何をするつもりです?」

「この暗号の地図によれば何かがあるらしいな。何かはわからないが一度見に行きたい」

「まさか中に入るおつもりですか?」

「そうなるだろうね」

「それはさすがに許可が下りないと思いますがね……というのもエネルギーを生成するためにあの湖の一帯には強力な魔法がかけられてありますし」

「ふうん?」

「また入ったらあなたの監視が強くなりますよ」

「わかったって。馬車を用意してくれよ」

「わかりました。用事を済ませるので、一時間ほど待機してもらっていいですか?」

「もちろん。恩に着るよ」


 約束のきっかり一時間後に、センブリはディーンの部屋のドアをたたいた。

「へいへいへいへい! 坊ちゃん今日もノッていますねえ、いよお今日も天才美男子」センブリの肩には相変わらず汚いネズミがいた。

「何を言っているんだ、いったい」

「馬車引きはこのデモンが務めさせて頂きます」

「やけに引きずっているじゃないか」

「いや、悪魔なんてかっこいい肩書をもらってしまってすっかり舞い上がってしましましてね。あっしの二つ名にしようかと」

「やけに絡むじゃないか。もう謝るって……」ディーンは呆れながらも馬車に乗る。センブリも後に続く。

「いえいえ、あっしの名はデモンです。いっきまっすよおおおおおおおお!!」

「わかったって、!! いいからとっとと湖に行けよ」

「とっととととと……、はいはい」一瞬ワールテローが体勢を崩しそうになる。

「大丈夫か?」

「いえね、気合を入れたので武者震いでございますよ」ワールテローが八重歯を出して笑った。


 馬車は森の中をひたすらに走った。30分ほど、誰も何も言わなかった。馬車は猛スピードで走っていた。がさがさと木々の揺れる音だけが響いた。

「もうすぐでっさあ」

 ディーンは目を凝らした。眼前には銀色に光り輝き、風もないのにゆらゆらと水面の揺れる水の塊が見えた。

「あれでっさ」スピードを一切緩めることなく、馬車はそこへ近づいていく。

「動いている……風がないのに……」

「止まりますよおおおおおおおおおおおお」馬車は突如、湖の数メートル手前で急停止した。

「別に急いでいないんだけどな」ディーンが馬車から降りながら言った。センブリは無言で服の埃をはらっていた。

「坊ちゃんが命令したからですよ。ま、時は金なりっていうじゃないですか」

「まあそうだけどさ」

「坊ちゃん、あっしは【名の契約】をティム様と交わしているんです。あっしが真に仕えるのはティム様だけですからね。そこのところをお間違いないように」

「名の契約……?」

「ディーン様、何か聞こえませんか?」突然、センブリが言った。

 ディーンが湖に目をやると、その水面は先ほどよりも大きく揺れていた。

「なんだか揺れているような気も……」ワールテローも口を挟む。

 ごごごごごご、と地響きのような音がする。

「が……レメを…………った……」

「え?」

 ディーンは確かに聞こえた。低く、しゃがれていて、それでいて複数の人間が集まったような不思議な声を。

「なんだか地震が起きていませんか?」ワールテローがディーンの肩に避難する。地響きはだんだん大きくなる。

「いったん離れた方がいいかもしれないな。震源地が近いのかも……。センブリ、馬車に乗って」

「はい、ディーン様も、」


 突然、湖からクジラほどの巨大なナマズが出現した。ナマズは宙を飛び、尾も水面から出し、そのままディーンとワールテローを一瞬で丸呑みした。


「え……」

 ディーンはおろか、センブリでさえ動く隙が無かった。それほどまでに一瞬の出来事だった。

 巨大なナマズはそのまま湖に潜り、影が見えなくなるほど底へと潜っていった。

「ディーン……様……」

 あまりに一瞬。あまりに突然の出来事に、センブリはただその場に立ちつくしかなかった。

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