第33話 下層へ

 救急車が動き出してしばらく経つと、私はのそのそと起き上がって運転席のドクターへと近づいた。もちろん、転んだりぶつかったりしてお腹を潰さないよう、しっかりとあちこちに掴まりながら。


「そういえば、銃、使えたんですね」


 これからのこと、本当に逃げ切れるかどうか。改めてもっと御礼を言うべきかもしれない。優先順位が高い諸々を差し置いてそんなことを聞いてしまったのは、さっきのドクターがあまりに慣れた手つきで銃を持ってたからだ。テロリストから奪ったのか、どう見ても正規の代物じゃない、色んなパーツ? を寄せ集めて作ったようなのだった。そんなのをあっさり扱えるから、ぱっと見じゃ堅気の人間に見えなかったくらい。今さら疑う訳じゃないけど、一体この人は何者なんだろう、って思っちゃうじゃない。


「ああ……昔の経験があるから」


 私の、微妙な不審が混ざった視線に気づいたのか、ドクターはハンドルを握ったままで器用に肩を竦めた。


「……第七天アラボトの医者には荒事はできないと思って油断したんだろうな」

「……ふうん」


 短いコメントだったけど、それだけで何となく色んなことが分かる。ドクターのお花畑も、理由なく言い出した訳じゃないってこと。下層の惨状を見て知って、その上で理想を唱えることができる本物の変態だったってこと。多分、昔は色々危ない目を掻い潜ってここまで来てて、だからこそ、あの病院で監視を破って、駆けつけてくれることもできたんだろうな、ってこと。


「あの、良かったんですか? 身一つで出てきちゃって……」

「そうだな、予定にはなかったことだけど」


 ここまで来てやっぱり止めた、なんて言われたら困るし、できないことだろうとも思う。でも、私たちを匿うことでドクター・ニシャールが喪うものの重さと大きさを考えると震えてしまう。第七天の医者としての成功と富、名声。その全てをあっさり放り出すなんて、一体何を考えてるんだろう。だから、何か安心できるようなことを聞きたかったんだけど。急な出発をさせられたことへの意趣返しなのか何なのか、ドクターは微妙に棘を感じちゃうトーンで答える。


「少なくとも、知識と技術はあの場所では必要とされる。本当なら金と物資も用意したいところだったが。神の子が、協力してくれるならかえって得、かもしれない」

「子供に、危ないことはさせたくないんですけどね……」


 皮肉っぽくうっすらと微笑むドクターの口元を見ていると、納得すると同時にちょっと不安にもなってしまう。この人のキャリアを台無しにした埋め合わせを、「神の子」に求められても困るからなあ。貧富の差の是正というか、最下層の人たちを救うのがあの子の望みだったとしても、だ。大人は、あんまり子供を利用することを考えるもんじゃないよね、って思っちゃうから。でも――


「まあ、打算がある人の方が信用できるってこともありますよね。……すみません、すっごい浮世離れした人かと思っちゃってて」

「君は現実的だからな」


 いつかも言われた評価を繰り返して、ドクターがは口元の笑みを深める。一方の私は、今となっては恥ずかしさに顔が熱くなる思いなんだけど。いや、最下層出身だって聞かされた時から、お花畑に住んでる人じゃないのは分かってたんだけどね。躊躇いなく逃避行に付き合ってくれたのを見ると、この人相手に現実がどうこう語ってたのって、魚に泳ぎ方を教えるようなもの、牧師様に説教するようなものじゃないかしら。


 ――マリアは、私に色々お説教したけどね。


 と、お腹では「神の子」が笑ってる。病院を後にして、安心してるみたい。銃を突きつけられて、私もあんなにストレスを感じたのに胎児は無事ってことだったし、この子も気が緩んだんだろう。こいつにとっては、下層も楽園に思えるのかしら。あんなに見たがっていたんだし、ピクニック気分とか? 悲壮感がないのは、私にも伝わってちょっとは気が楽になるんだけどさあ。


「一旦、第二天に降りてから『裏』のルートを使う。しばらく休んでいてくれ」

「はい」


 ハンドルを握り、前を見ながら言ったドクターに、私は短く頷いた。

 途中までは、病院で言った通りのルートにして、そこから姿を隠して、ってことね。ドクターの経歴から考えると、公には知られてないルートもあるのかな。あるんだろうな。

 病院は今、どうなってるんだろう。犠牲になった代理母たちや病院のスタッフ、射殺されるテロリスト。血の海の中に私の死体が見つからないことに気付かれるまでに、どれくらいの猶予があるんだろう。病院から消えたドクターと、彼が連れていた妊婦。それが、私と結び付けられるまでには? あんなに犯罪者になるのは嫌だったのに、私は結局追われる身になっちゃうのかしら。


 不安は、まだまだ尽きないけど。今できるのは、ドクターに言われた通り体力を消耗しないようにすることくらい。だから、私はお腹を庇いながら、大人しく後部座席へと戻った。

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