第10話 天国と地獄

「私は一〇〇パーセント納得しているし、この仕事にプライドを持って臨んでます。それでは、いけないんですか?」


 私は微笑むと、さらりと言った。断じて無理はしていない。一ミリも引き攣ってなんかない。自信を持って断言すること、心からの言葉に間違いないんだから。


「下層から上がって来たヤツは皆可哀想だっていうなら、それも偏見ですよね。でも、私は違います。本当に可哀想な人は……まあ、いるんでしょうけど。私にはどうにもできないですし。他人にどう思われても良い。私さえ良い暮らしができれば良いんです」


 だから子宮を貸し出すくらい何でもない。処女であることを利用するのだって恥ずかしくない。それが私の持ってる中で一番価値のある資産だから。そういう分析ができないヤツ、女性の尊厳とか言っちゃって割り切ることができないヤツは、好きに高潔に生きれば良い。私はそいつらの邪魔をしない。でも、代わりに私の邪魔をしないで欲しい。

 睨むようにドクターを見る。すると、あちらも私を真っ直ぐに見返してきた。黒い目に吸い込まれそう――と思うのは、挑発するようなことを言ったのに、彼の目がひどく凪いでいたからだ。


「――僕は最下層ゲヘナ出身だ。だから、君の言いたいことは、分かる。君の考え方も、決して間違ってはいない」


 地獄ゲヘナ。その一言に、私は身体をぴくりと震わせた。その名を聞くだけでも、嫌悪と恐怖と不快を感じる、そういう場所だ。地球はかつてと変わらず陸と海とで繋がっているのに、人間の住処は第七天を頂点に確かな階層に分かれている。落ちるのは容易いけれど登るのはとても難しい……というか、ほぼ不可能な、深い深い、穴。それが今の人類社会の構造。


 この人が、そのどん底から這い上がってきたって?


 信じられない、と思うと同時に、だからなのね、って納得する思いもあった。だって、第七天では褐色の肌はちょっと珍しいもの。かつての国境や人種の区別はほとんど意味がなくなったけど、いわゆるコーカソイド系の見た目がここでは多い。多分、そういうルーツの人たちの方が富や地位を得やすかった時代があって、その名残なんだろう。それか、そういう時代に築かれたイメージに引きずられて子供の容姿をそういうふうにデザインすることもあるのかも。


 ここはそういう世界だから、ドクター・ニシャールの肌の色や顔の造りは目立ってはいたんだけど。私は、礼儀として深く考えないようにしてた。いや、差別なら私がされる側なんだろうし、大抵のことなら言われたり知ったりしたからどうこう、ってこともないはずなんだけど。


「ドクター、貴方は……」


 私が言葉を失うなんて不覚だと思う。面接の時だって上手くやった私なのに。でも、ドクター・ニシャールの告白はそれくらい意外で、こちらの不意を突くものだった。私より悲惨な境遇で生きていた人なんだったら、どうしてあんなきれいごとが言えたんだろう。

 その隙に、というか。彼は目と同じくらいに静かな口調で私に告げた。


「でも、その上で今の世界は間違っていると思う」

「ドクター……」


 あまりにも堂々とした、確信に満ちた口調だった。狂信的ですらあるかもしれない。コリンズさんの押しつけがましさとは全く違う、理知的な態度ではあったけど──何かこの人の中に深く根差した信念があるんじゃ、って感じさせるところは少し似ている。さっきから、コリンズさんのことを思い出してることもあって、つい──本当につい、余計なことが口から零れてしまう。


「……《地の塩》、ってご存知だったりしないですか……?」

「何……? 聖書の一説だろう? 地の塩The Salt of the earth,世の光the Light of the world──そうか、君はクリスチャンだったか……?」

「えっと、教会育ちってだけで……そんな、敬虔な信者ではないんですけど」


 コリンズさんが言ってた、組織だか何だかの名前──通じてしまったら、そして助けを求めてるなんて思われてしまったら一大事だった。そう気付いたのは、ドクター・ニシャールが怪訝そうに尋ねてきてからだった。いきなり何言ってるんだよって言いたげな顔で──そうだよ、通じなかったら通じなかったで面倒だったじゃない!


「すみません、何でもないです。ちょっと思い出しただけで。ドクターは地の塩みたいな人だなあ、って!」

「それは……光栄、なのかな……?」


 多分、清く正しく真面目に生きている人、くらいの意味にはなってるはずだ。私の口から出るはずがない喩えではあるんだけど、ドクターはそんなことまで知らないだろうし。不本意だけど、敬虔なクリスチャンと思ってもらえるならそれでも良い。それで、真面目に考えてるんだろうと思ってくれればね。


 その後は私もドクターも必要最低限のことしか話さず検診を終えた。頓珍漢なことを言っちゃったけど、お陰でふたりとも頭を冷やすことができた、言い過ぎに気付いたってことなんだろう。これ以上突っ込んでもお互いに良いことはないんだと、確認し合うかのように、やたらと事務的で、てきぱきとしたひと時だった。




 アンドロイドの運転手で良かったと痛感したのは帰り道でのことだった。私がどんな顔をしていても何も言わない気の利いたヤツだから。お陰で、帰宅してホルツバウアー女史にレポートを提出する頃には大分ちゃんとした顔に戻れてたと思う。いつも通りの検診で、楽しく羽根を伸ばしてきた、みたいな感じを演じることができていたはず。朝のテロで女史も心配していたはずだもの、これも気遣いの一環ってものだろう。


 それでも、自室に入るなり私はベッドに倒れ込んだ。もちろん、お腹を潰してしまうことがないようにゆっくりとじわじわと、ってことだけど。ふかふかのマットに、肌に心地良い上質のリネン。でも、今の私の心を癒すには足りない。

 今日は、少し喋りすぎた。まったく私らしくない。あのおかしな子はともかくとして、ドクターを困らせてしまったし、イヤなことも思い出しちゃった。コリンズさんのことがあったからって、もっと当たり障りなく終わらせることだってできただろうに。感情的にならないようにしようとしたからって、理屈っぽく長々と喋るのも感じが悪かっただろう。おまけに、怪しげな組織のことまで漏らすなんて。

 今日も、失敗しちゃった。どうしてもっとさらっと流せなかったんだろう。


 外出したのは大した時間でも距離でもなかったけど、何だかすごく疲れちゃった。多分、身体よりも心が、ね。こういう時はさっさと寝るに限る。


 ――どう思われても良い……他人はどうでも良い……本当に? マリア、本当にそれで良いと思っている……? それならどうして泣いているの? マリア……母さん……?


 だから何か聞こえるような気がするのも疲れのせいだ。疲れてるから、まだ起きてるのに夢を見ちゃってるんだろう。きっとそうだ。コリンズさんの時と、昼間のと。前に頭に響いたのと同じ声のように聞こえるのも、ひどく心配そうな調子をしてるのも、気のせいだ。


 空耳なんてまともに相手しちゃいけない。そう思って、私は固く目を瞑った。

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