第8話 同業者

「もちろん、研修はクリアしたよ? でも、バカ正直に守らなくても良いじゃない?」


 私の警戒に気付いているのかいないのか。気安く話しかけてきた代理母どうぎょうしゃは、空気を読まずにへらへら笑うと、身体を乗り出して私の顔を覗き込んできた。


「うちの雇い主ボスはホルツバウアー博士の同僚なの。だから貴女の話も知ってるって訳。だから、私たち友達みたいなもんじゃない? 色々情報交換とかしましょうよ」


 ほら、こういうのが嫌いなのよ。飼い主同士が仲良しだからって、飼い犬同士の相性も良いとは限らないじゃない? ううん、これはさすがに卑下した喩えだったかもしれないけど。

 でも、研修で取り扱われるくらい過去には色々問題があったことなのは間違いない。雇い主の名義を借りて下層の身内に送金したとか、雇い主の名前を大っぴらに自慢してたら、誘拐犯に目をつけられたとか。だから、たとえここが病院で、この子も代理母なんだとしても、油断なんてできなかった。知らない人に雇い主の名前を聞かれたら、黙ってその場を離れて警官や警備員を探しましょう。研修の内容をまともに覚えてたら、答える選択肢なんてあり得なかった。


「心配なことがあるならカウンセリングを受けた方が良いわ。検診のついでで頼めば良いじゃない」

「貴女じゃなきゃダメなのよ、マリア」


 話しかけないで、って意思を強調しようと、腰を浮かせて座る場所をずらして、露骨に距離を空けたのに。その子は離れた分だけ近づいてくる。唇が描く弧も、角度を増して、一方で声は囁くように低くなって。私の耳を、温い吐息がくすぐった。


「ねえ、貴女のお腹の赤ちゃんは話しかけてくる? この子は何て言ってるの……?」

「…………っ」


 お腹に触れた手は、咄嗟に払いのけることができた。友達なんてとんでもない、お腹に触って来る不審者に強固な態度を取るのは正当なことのはず。ぴしゃりと、叩くようにしてやったからか、相手はひとまず手を退けてくれた。でも、心臓のドキドキが止まらない。赤ちゃんへのストレスを気にしつつ、緊張を解くことができない。だって、この子、今なんて言った!?


「……読み聞かせとか、色々してあげるわよ、もちろん」

「惚けてるの? それともバカなの? あんたの話じゃないよ、赤ちゃんの話。ねえ、何か言って来ない? その子は、何を考えてるの?」


 にこにことした笑みを絶やさず、でも口調はより砕けて馴れ馴れしくなっている。ふざけてるとか、単純に失礼なヤツ、おかしなヤツって思うことができれば良いけど――私には、こいつが言ってることに心当たりがあってしまう。


 前に、頭に響いた声のことだ。私にお話をねだった、空耳にしてはやけにはっきりと聞こえた声。赤ちゃんに話しかけられたみたいだって、あの時も思った。思った上で、気のせいとして片付けることにした、はずだったんだけど。この子は、どうしてアレを知ってるみたいなことを言ってるんだろう。


「ね、あんたじゃなきゃ、って言ったでしょ? 聞こえてる? 私も参考にしたいからさ、教えてよ」


 私は、怯えを表情に出してしまっていたらしい。相手の子が意地悪そうに唇を歪め、もう一度お腹に手を伸ばしてくる。皮膚と脂肪と子宮を越えて、赤ちゃんを直接狙うかのような手つき。私なんかの命よりよっぽど価値があるはずの赤ちゃんが、標的にされてる。

 どうしよう。どう逃げれば良い? こいつは何をする気だろう。お腹を庇って床に倒れ込む? それでしのげる? それで、赤ちゃんは大丈夫?

 パニックで、頭がパンクする、と思った時だった。


 ――止めろ。マリアに手を出すな!


 それとも、私の頭がパンクしちゃったのかしら。頭の中で雷が響いたみたいだった。この前と同じ声が、この前よりもずっと鋭いトーンで、叫んだ。同時に、静電気が走ったみたいなぴりっという感覚が、皮膚の上を走る。


「きゃ――」


 その、電流のような痛みは、絡んできた子にも伝わったらしい。小さな悲鳴と共に、手は再び引っ込められた。私が感じた以上の衝撃が、あちらには行っていたのかもしれない、その子は手を抑えて私を睨みつけていた。


「何だよ……!」


 それは、こっちの台詞のはずだった。いきなりお腹に触れようとするなんて、失礼にもほどがあるし、怖くて仕方なかった。だって、赤ちゃんに何かあったら全身の臓器を売っても間に合わないくらいの賠償金が発生するんだもの!

 でも、赤ちゃんを――それも、第七天のエリートのお宅の! ――身体に宿しているのは、相手も同じことだった。だから、憤りをそのままぶつけても、良いことがあるとは思えなかった。それなら、病院のスタッフに任せるしかないかしら。


 油断せず、相手の動きに注意を払いつつ、視界の端に呼び掛けられる人がいないか、探す。その間も、お尻で這うようにして、少しずつでも距離を取らなきゃ。


 ……でも、警戒してた追撃は、来なかった。さっきまでにやにやしてた、名前も知らない代理母の子は、急に笑顔を引っこめてぼんやりとした表情になっていた。バカみたいにぽかんと口を開けて、それから呟いたのは――


「……ここ、どこ……?」

「はあ!?」


 あんまり図々しくて、さっきまでの圧は何だったのよって感じで。私は思わず声を上げてしまう。すると、相手は怯えた目を向けてくる。まるで、私の方が絡んでるみたいに! 何なの、この理不尽さ!


「貴女、誰……あの、私、何か言ってた……?」

「何、言ってんのよ……!」


 言ってたなんてもんじゃない。不躾な態度で、言っちゃいけないはずの雇い主の情報を漏らして、私の名前まで知ってたんだから。さっきまでなら、私は怒鳴りつけてやってただろう。あんたから絡んできたんじゃない、ふざけんな、って。でも、この子の今の様子は、一体何なんだろう? 弱々しくておどおどとして、まるで私の顔色を窺ってるみたい。それとも――何か、別のことに怯えてる? 目を涙に潤ませてまで。惚けてるにしては、迫真の演技って感じじゃない?


「どうかされましたか?」


 ああ、やだやだ、スタッフに騒ぎを聞きつけられちゃったみたい。しかも、なんで私の方を見て言ってくるのよ。私の方が被害者なのに――これじゃ、私が相手を虐めてるみたいに見えちゃうじゃない。


「……分かりませんけど。この人、ちょっと不安定みたいです。話してたら突然泣き出しちゃって」


 舌打ちしたいくらいだったけど。でも、そんなことしたらホルツバウアー夫妻に報告されちゃうかもしれないし。咄嗟にひねり出した言い訳は、そんなに苦しいものには聞こえなかったと思いたかった。実際、この子は今にも泣きそうな顔をしているし、マタニティブルーってやつで精神的に不安定になるのは大いにあり得ることだろうし。何といっても、私たちのお腹にいるのは好きな相手の子供じゃなくて、契約で取り決めた、他所の夫婦の子供なんだから。他人の家で寝起きしなきゃならなくて、だから、妊娠中はずっと仕事をしてるみたいなもので──そんな生活が四十週プラスアルファだから疲れもストレスも溜まるって、病院の人ならよく知ってるだろう。


「ああ……落ち着いてください。個室へご案内します。温かい飲み物をお出ししますよ。カロリーなんか気にしないで、砂糖をたっぷり入れましょうね」

「え、ええ……」


 さすがというか、スタッフも絡んできた子の顔色を見てただ事じゃなと分かってくれたみたいだった。慣れた手つきと完璧な笑顔で、その子をどこかへエスコートしていく。きっと、情緒不安定な子を落ち着かせるための場所があるんだろう。その子も、私とスタッフをきょろきょろと落ち着かなさげに見比べながら、それでも逆らう気力もないみたいで大人しく導かれるままになっている。

 私には何も言われなかったのは――比較的まともな顔色をしてたからだと、思っても良いのかしら。実のところ、周りに聞こえてるんじゃないかってくらい、心臓がドキドキして変な汗もかいてるんだけど。ああ、こんなストレスを感じちゃって。赤ちゃんは大丈夫かしら。強張っていた手指をお腹に伸ばして、そっと撫でる。でも、その仕草は、赤ちゃんを慰めるためだけのものじゃない。


「ねえ、ジュニア……貴方が、助けてくれたの……?」


 絶妙なタイミングで頭に響いた声、電流のように走った何かの「力」。それは、どうも私のお腹から発せられたもののように思えてならなかった。前に、不思議な声を聴いた時と同じ。妄想じみた考えだとは、自分でも思うんだけど。


 あの時はやけにはっきりくせに。ひっそりと、誰にも聞こえないように呟いた問いかけには、応えてくれる声はなかった。

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