第17話 さかなのうた

 起き上がろうとした。しかし動けなかった。よくわからないが力が入りにくい。全身の筋肉が弛緩したか、或いは細胞が壊れてしまったようだ。

 私を抑えつけたまま、げほげほと咳き込んだ。その咳き込みは次第に深刻なものになっていった。口から唾液が流れ、吐くように餌付いた。こちらが半ば心配になるくらいに。彼は自分の口から凍った魚を取り出した。まるまる一匹の魚だ。それは生きている時と同じ姿で氷漬けにされていた。その魚が私の身体の上に吐き出されると、冷たくて痛いような感触が私を襲った。

「君はこれからどうする?」彼が大きな声で言った。彼の声が私の頭の中で響く。かすかに音楽が聞こえて来た。私の耳は次第にその機能を取り戻し来ていた。

「わからない」私は泣きそうだった。かすかに外から聞こえて来たのは、確かに讃美歌だった。

「あなたを

「不思議だな」と彼は言う。低いような、不思議な声だ。でもいつもの声のような気もする。ただ、今は彼の言葉がひどく耳に残る。外からはオルガンの音が聞こえる。

「僕もだ」

彼は私の肩を粉砕しそうな勢いで私を抑えつけた。さすがに痛かった。私も全力で力を返す。しかし、敵わない。私はその体勢のまま階段の下へ下へと追いやられた。おかげで頭と背中と腰の全てを負傷した。明日はたんこぶかもしれない。外では、誰かが歌っている。よく聞くとその声は一人じゃない。多くの人間だ。多くの人間が、それぞれのパートを歌っている。それは立派な讃美歌だった。


4度、そして5度の和音、短調で下げて長調で上げて

困惑しながら王は、主を讃える曲を作った

ハレルヤ

主に感謝し、喜びと賛美を



 彼は口の中から凍ったフグを取り出し、それを私の腹の上に置いた。

「少量でいいんだ」彼はひどく興奮しているみたいだった。声が先ほどより高くなっている。

「少しでいい。分量は僕が指示するから問題ない。多く摂り過ぎると死んでしまうからね。だからちょっと大人しくしていてくれないかな?君はこれをほんの少し舐めるだけでいい、決して食べてはいけないよ」彼はフグを私の口元に持ってきた。

「ほんの少し、ぺろっと舐めてごらん。殺さないから」私は決して口を開けたくなかった。頑なに開けなかった。彼はそれでも私の口元にグイグイとフグを押し付けた。

「本当にちゃんと舐めれば大丈夫なんだ。それほど美味しくないかもしれないけれど。君は少しだけ眠る。ただそれだけのことだ。僕は君を殺さない」

 彼の言葉に嘘は無いと思う。本来この状態になると、理性のタカが外れ、感情の赴くままに暴走してしまう。この状態で嘘をつくことなど至難の業だ。それは私が身を以て体験している。今の私たちにあるのは「思考」ではない。ただの「反射」だけだ。しかしそれでも、私はフグなんて舐めたくなかった。まだ眠りたくなかった。本当は彼の言うとおりにすべきなのだろう、でも私の心はそれを全力で拒否していた。私は叫んだ。階段が揺れた。壁も揺れた。建物自体が揺れた。私は叫ぶ。口を閉じたまま。

「大丈夫だ」彼はもう一度私の口に、彼の口を付けた。

「一緒に眠ろう」

彼はフグを舐め、その口で私の口をふさいだ。讃美歌はまだ終わっていない。とてもきれいな音色だ。すごく綺麗な、ハーモニー。



そういえば、君に教えられた時があった

目下で本当は何が起こっているのかを

だがもう君は私の前に姿を現さなくなっただろう?

私が喜びを覚えた時のことを思い出させ



ああ、なんだか全身が痛い。全身がすごく、痛い。きっと身体はあざだらけだ、女の子なのに、まったく。何をしてくれるんだ。泣きたい。でも泣く体力すら残っていない。


愛は勝利を見せびらかせるようなものではない

愛は冷たく脆いモノなのだ、だからこそ救いを求め主を讃えるのだ



彼が上に乗っているせいで、ひどく体が重い。瞼も重くなってきた。何か話したいけど、唇も震える。

「う、た、って……」と私は言った。数秒の沈黙があった。

「歌?」

私は頷いた。彼はそのまま一瞬固まった。

しかし数秒の沈黙の後にきちんと歌い出した。


アイナメ、イサキ、カツオはいいね。温かくなってきたよ、ほらとても美味しそう。

スルメもタコもツブもある、近頃の子はツブ焼きを知らない、あれはとっても美味しいな

もっとこれから暑くなる、アジもアナゴも良い魚、アワビはあなたに似合わない、マグロくらいなら手が届く、僕は毎日もずくだよ



変な歌。でもなんだかとても……


僕は、スパイ、なんかじゃない、

ちょっと特殊なおうちだよ、でも本当はただのシャチ。

魚が大好きただのシャチ。魚が大好きただのシャチ……。

君は立派な勇者だよ。

君がこの世の姫様で、僕がただの人ならば、世界はどんなに良かったか。

君は立派な勇者だよ……



 瞼も身体もどんどん重くなってきた。目を閉じる。全身が痛い。頭も背中も腰も手足も。しだいに体温が上昇して来る。体のぬめりが減って来る。少しだけだけど、頭に毛が生えてきている感触もある。

 彼の身体の重みを、私は全身で感じていた。讃美歌はまだ終わっていなかった。その音は先ほどよりもクリアに私の耳に届く。しかし彼の歌う歌で、時折その音はかき消される。


「君は世界一綺麗だよ……」

 彼もまだ歌っていた。突然、機械の充電が無くなったかのように、記憶はそこで途切れた。



「『なぜ生きるか』を知っている者は、ほとんどあらゆる『いかに生きるか』に耐えるのだ。安らかに眠れ」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る