第16話 殺したいほど愛したい
魚を使い、自分の腕に傷をつけ、血を流した。目の前にいる女はとても綺麗だ。僕は彼女の頭から滴り落ちる血を自分の頭に浴びた。血が唇にかかった。鉄の味。
「僕も悪い子だ」その血を使い、見様見真似で自分の額に文字を書いてみる。サメの額に書いてあるのと同じように。
音楽はだんだん大きくなってきていた。こんな夜だってのに、こんなにも久々に暗い夜だってのに、ああ、空は今夜、歌を歌っているらしい。文字だって書いてある。
「好奇心は時に誰かを殺す」
水が欲しかった。きっと持って数分だろう。手足の感覚がなくなる。目が飛び出る。皮膚の感触が変わってくる。細胞のひとつひとつが変化しているのがわかる。体が上下に引っ張られるようだ。頭に違和感がある。二本の足の境界線が無くなり、一つに融合する。気分が悪い。水が欲しくて溜まらない。吐きそうだ。何を考えればいい? わからない。今日の朝ごはんの魚? いや違う、彼女の父の事? いや違う。サクラ先生は元気かな? 僕の父が教皇だと言ったら笑われてしまうかな……。
奇妙な感覚が僕を襲った。吐きそうで、辛い。唾液が僕の口の中に広がり、思わずそれが唇から流れる。僕にはどうしようも無い。夢を見ているようでもあった。僕はもう長いこと夢を見ていない。前に夢を見た時はいつだったろう? それすらも覚えていない。そもそも僕は夢を見たことがあるのか? 僕が今まで解剖したことのある魚が、次々と頭に浮かんできた。それはどれも、ひとつ残らず可愛かった。とても魅力的だった。一匹一匹はまるで違う造形なのだが、その全てが僕にとって愛おしかった。愛おしくて愛おしくて、それらを全て調べたくてしょうがなかった。殺したかった。魚を見ると問答無用で殺したかった。持って帰って、写真を撮って、大切に大切に保管したかった。いつもそうだった。大切な宝物。だから僕は殺して、記録して、保存する。時には食べる。食べることでより一層、僕は魚たちを好きになった。僕はいつも綺麗な魚を見ると、家に持ち帰りたくて仕方なくなった。そしてそれは今も変わらない。
僕は今、目の前にいるサメを殺したくて殺したくて仕方がない。彼女を、この手で、誰の手でもない、この僕の手で、殺したいとはっきり願う。僕の手で彼女を殺して、解剖して、保存して、観察したい。部位を一つ一つ調べて長さと重さを図って成分を調べて遺伝子を調べて胃の中に何が入っているのかを見てそれを全部記録して。
僕は銀魚の心臓を彼女の口めがけて放り投げた。それはちゃんと彼女の口の中に収まった。
「今なら君と話せるかな?」僕は試しに喋って見た。
「本当に綺麗だなあ殺してあげたい」僕は彼女の血を舐めながら笑う。でもそうはできないんだ、今は。
「僕は君と地獄に落ちよう」
「今なら君と話せるかな?」と彼が言った。
「聞こえるわ」と私は言った。
「僕は君と地獄に落ちよう」
彼の声がこだまする。頭の中を彼の声と自分の声がガンガン駆け巡る。少し痛いくらい。この状態で誰かの言葉を聞いたのは初めてだった。そもそも、この状態でまともにモノを考えられたのも、初めてかもしれない。何でもできるような、不思議な気分だ。
「音楽が聞こえるかい?」と彼は言った。
音楽?
耳を澄ませてみても、私には何も聞こえなかった。あなたの言葉しか。私はがぶがぶと誰かを咀嚼しながら首を振った。口の中で骨が折れる音がした。しばらくすると私の口の中にいた人の首がもげた。
「何も」
「良い曲だよ」とシャチが言った。
大きい。すごく、すごく綺麗。色がとてもはっきりしていて、皮膚は滑らか。彼が動くたびに、階段は揺れ、壁が剥がれた。彼は派手には動かない。でも確実にゆっくりとこの施設が崩壊する。彼が歩いたり、ちょっと体を反らすだけでこの建物がゆっくり揺れ、何かが落ち、人々が叫び、傷つく。美しい……。
「あなた、綺麗」
「君も」
彼が跳ねた。
「氷漬けにしたい」
彼は私のすぐ目の前に着地した。私も飛んだ。彼ほど私は飛べない。彼はとても高く飛ぶ。天井にひびが割れ、蛍光灯が落ちた。私たちのいる場所だけが暗くなる。そのまま私の前に彼は着地した。彼は私を噛んだ。私の頭を。痛い。痛い。段々と痛みが増す。私は首を振る。血はまだ出ていない。私は首を無我夢中で振る。彼はなかなか私を離してくれない。私が夢中で振り払おうとすればするほど、自分のダメージとなって返って来た。それでも私は頭を振った。止められなかった。彼の歯の固さも舌の柔らかさも私の口は感じている。私も彼を噛むしかない。でもそうすることができない。それほどまでに彼はがっしりと私の顔を噛んでいた。私は叫んだ。これほどまで叫んだのは、あの日、私の母と姉が磔にされた時以来かもしれない。私の口のすぐ下から血が出た。彼はまだ私を離さなかった。私は頭を振った。血が足りていないせいか、少しくらくらした。
彼は私を離した。その直後、彼は私に突進してきた。私は彼に押され、階段を流されるまま下った。お腹の皮膚が擦り切れて痛い。でもそんなことを言う暇はない。ついに彼は私の上に乗っかってきた。
「君は綺麗だよ」
もう一度、彼は私を食べようとした。頭から。でも今度はそれを躱した。彼の反射神経は物凄いが、私も徐々に彼のスピードに合わせられるようになってきていた。私はお返しに彼の肩あたりを噛んだ。歯型が付くくらい強く。しかし彼は何も反応せず、同じように私の肩を噛んできた。それも、とても強く。歯を動かして、私にたくさん歯型が付くくらい。私は彼の歯と舌が動く感覚を全身で感じた。少し痛い。まだ血は出ていない。これ以上血が出るとさすがに貧血になる。しかし私たちはお互い一歩も引かなかった。膠着状態が数分続いた。お互いがお互いを傷つけたくなくて傷つけあっていると、なんだかひどく滑稽にも思える。彼を噛みながら、私はそんなことくだらないことをぼんやりと思っていた。口も疲れて来たし、何より肩が痛くなってきた。さすがに何分も噛まれていると、だんだん痛みが増してくる。きっと私の肩の歯型は一生消えないだろう、それくらい深く彼の口が私の身体に食い込んでいた。それはすごく素敵なことに思えた。私も負けじと口を堅くする。彼の身体にも私の歯型が一生残るように。彼は私の身体を噛んだまま何か喋った。うごんうごふごふぎふごふうんご、と彼は言った。何を言っているのかはわからなかった。何か話したいなら私を離せばいいのに。しばらく彼はふごふご言いながら私を噛んでいた。歯をずらし、舌を様々な角度で動かした。
「わはひきれい(わたしきれい)?」と聞いてみた。
「ふふ」と彼は言った。おそらく肯定の意味で言ったのだろう。
「ひ(い)まのすがたにひ(し)か魅力感じは(な)い?」
「ひ(い)まのひ(き)みはひ(き)れい」
「ふは(だ)んより?」
「ほ(と)ても」
彼は一度口を離した。しかしその後、全力で私を上から抑えつけた。
「保存したい」
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