第13話 機会は誰にでも訪れるが飛び込むのは一握り
「十二年前のことは覚えているかね?」
頬に傷のある長身の職員が彼女に訊ねた。グロリオサは俯いている。彼女は強情だ。無理やりここに連れてこられて相当怒っているのだろうかれこれ一時間は何も答えないでいる。精神訓練を受けているこの男も、さすがに辟易してきた。
「君は以前、今よりももっと昔に、ジャン・クローバーと接触したことは無かったのかい?」
彼女は相変わらず何も答えなかった。男の苛立ちは顔には出さないものの、募っていた。十代の少女、それも大量殺人容疑の出ている少女が一向に何の反応も見せない。この不毛な戦いに彼は腹を立て始めてきていた。しかし、ここまで何の成果も得られていないことも事実だ。腹を立ててもしょうがない、全てそれは己の責任だとも、男は自負していた。彼にとってこれ以上の議論は無意味に思えた。
「また明日会おう」
彼は席を立った。グロリオサは相変わらず俯いていた。しかし去り際に思いついたように彼は口にした。
「クローバーは明日ここを出る可能性がある」彼女は絶えずじっと下を向いていた。そこには並々ならぬ決意のようなものさえ感じられる。
「それと、サクラさんはいずれ君の父を見つけ出すだろうね、遅かれ早かれ」彼女は一瞬、父と聞くと肩を震わせたが、その様子はほんとうに短い時間での出来事だった。瞬きでもすれば見逃してしまいそうなほど微かな反応だった。しかし男はそれを逃さなかった。彼女はすぐに何でもないようにまた下を向いた。
「明日、また会おう」
男は部屋を去った。彼女は両手に手錠をかけられたまま、その部屋の椅子にじっと座っていた。
夜だった。窓は無いが、おそらく夜だ。食事の回数からそれはわかる。眠らなければならない。しかし彼女は眠れなかった。
「レイディ」
高い、か細い男の声がした。いやに響く声だ。ドアを開けると部屋の外には一人の男が立っていた。いかにも気弱そうな細身の男だ。彼は昨日昼間、クローバーの額を附いた職員だが、グロリオサはそれを知る由も無い。
「私(わたくし)はあなたを救いたい」不思議な男だった。息の多い、芯の無いか細い声。不健康そうで、青白い肌。目の下のクマ。どことなく目が離せない雰囲気。彼女は身構え、こちらからは何も話さないことを決意した。
「私(わたくし)はそう、できることならばあなたを救いたい。なぜならあなたは、ある面から見れば被害者だからだ」彼が何を言っているのかはおおよそ理解できた。彼は十二年前に起きた出来事を知っているのだ。
「あなたはあの場にいただけだ。そしてただ単に、まったく自然の力でそう、自然な力であなたは動いていただけだ。それも、ただの悲しみによって、ね」男は語り出す。彼女は少し彼のことが気味悪かったが、不思議と扉を閉める気にはなれなかった。
「あなたはただ悲しかっただけです、レイディ」彼は淡々と語った。
「もう一度言います。はっきりと。私はあなたを救いたい。あなたが望む限り」彼は背筋を伸ばす。彼の背の高さ、細さが露になる。先ほどまでは猫背だったのだ。
「あなたは外に出なさい。クローバー殿下は翌日にここを出ます。詳しいことは私にもわかりかねますが、彼はおそらく近々、教皇としての立場に戻られるでしょう。聞くところによると、殿下はひどい記憶喪失を患っています。昔のことを何一つ覚えていないのです。職務に戻るには、かなりの年月が必要かもしれない。しかしいずれは彼が教皇になるでしょう。お勉強は得意そうですし、すぐにでも仕事やこの町のことを吸収してくれるでしょう。今の教皇もだいぶお年を召しておられますし、やはりクローバー様がその職に就くのが妥当でしょうね。とは言え、あなたの家族に事実上手を加えたのも殿下本人です。たとえそれが皆の総意であり、決定事項であり、殿下の意志でなかったとしても。それについてはレイディ、あなたがどうお考えになるかは存じ上げません。全てはあなた次第、としか言いようが無いのです。
殿下を抱きしめるのも殺すのも、おそらく明日が最大最後のチャンス。明日の出所を逃せば、それ以降はまず、殿下に会えなくなるでしょう。護衛も付きますし、殿下は職務復帰の準備に取り掛かるでしょう。加えて、あなたはまだ拘束されたままだ。もしかしたら、いずれ刑を受けることになるかもしれない。大量の人間を殺したのは、事実上あなたですからね。たとえそんなつもりは毛頭なかったとしても。
あなたは当時まだ三歳かそこらだったはずだ。刑は相当軽いものに留まるとは思いますけど……何が起こるのかはわかりませんよ、レイディ。現にあなたの父は殿下に殺されかけても、この国ではそれは只の『正当防衛』で片づけられますから。
まあ、実際に正当防衛だった面も大きいのでしょうけれどね……(男は一瞬下を向いた)、おそらく国家反逆罪として逆に刑を被る恐れがあると私は予想します。とにかく、私(わたくし)はあなたをここから救い出してあげたい」
グロリオサは静かに男の話の続きを待った。
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